23.
相変わらずの豪雨と雷鳴の中、僕はジムニーを走らせ続けた。
助手席のサトミに、時どき振り返って後方を確認するように頼んだ。謎のラリー仕様240Zも、付かず離れずの絶妙な距離を保って、僕らの
視界の狭さも相変わらずだ。
天から絶え間なく落ちてくる大粒の雨が、水のカーテンとなって進行方向にある全ての物の
限られた視界の中で、僕は、ジムニーを安全にゆっくりと走らせた。
こんな悪天候の下、危険を
(逆に言えば、奴がその気になれば
バックミラーを見ながら考え事をして、つい一瞬、前方への注意を怠ってしまった。
突然、ジムニーの前方、激しく降る雨の向こうから、こちらへ向かって走って来る人の影が現れた。
「うわっ!」助手席に座るサトミが驚きの声を上げ、上体を前に
なんとか、突然現れた人物と衝突せずに
ふぅぅ、と
(低速運転していたのが幸いだったな……)
前方から突然現れたその人物は、フロントガラスの向こう側で豪雨に打たれ全身ずぶ濡れになって、
ビジネスマン風のスーツにネクタイの男。中肉中背。年齢は三十代半ばといった所か。
男は、幼稚園児くらいの
中年の男と、彼に
(
男……父親は、しばらく放心したような顔でフロントガラス越しに車内の僕らを見つめたあと、ハッと我に返って
近くで見ると、胸に抱いている彼の息子の状態が
顔色が悪く、血の気が無く、表情も苦しそうで、口を終始パクパク開けたり閉じたりしていて、その
「
確かに、父親も子も、たったいま水の中から出てきたみたいに全身ぐっしょり濡れていた。
僕は、運転席横の窓ガラスを十五センチほど降ろした。
窓から大量の雨が車内へ容赦なく入って来る。
短い間隔で
「息子が……」男は、胸に抱いた男の子を見下ろして言った。
それまで父親の腕の中で眠るように目を閉じていた男の子が、
……瞳が真っ赤だった。日の光を
父親に抱かれた息子の顔が動き、運転席に座る僕の方へ視線が移動した。
発光する赤い目が、僕の目を
「ねぇ、どうしたの?」異変を感じたサトミが、僕の肩を指で
しかし、そのサトミの問いかけに、僕は返事が出来なかった。声が出ない。
首を動かして彼女の方へ視線を向けることすら無理だった。
少年の赤い瞳をジッと見つめ続ける。
目を
いま何が起きているのか全く分からない。けど、
少年が、ゆっくりと口を開けた。
赤いナメクジのような舌が、ニョロリと唇の間から出てきた。
舌がゆっくりと伸びて、十五センチほど開いている窓から車内に侵入して来た。
僕は動けない。声も出せない。ハンドル、アクセル、ブレーキ、シフトレバー……何も動かせない。ただ、少年の赤い瞳を見つめ続ける事しか出来ない。
助手席でサトミが叫び声を上げた。
(銃を……サトミ、銃を使え……こいつら、人間じゃない……撃て)
心の中で、必死に思った。
赤い瞳の子を抱いた父親が、身を
その父親の目も
サトミの叫び声がプツリと止まった。
子供に
父親の唇の間からも、ナメクジのようにぬらぬら濡れた紫色の長い舌が出て来た。
父親の口から
……その時……
雷の轟音とは違う、『パァーン』という炸裂音が後ろの方から発せられた。
同時に、息子を抱いた父親の頭部がスイカ割りのスイカみたいに破裂して、周囲に緑色の体液をまき散らしながら、抱いていた子供ごと前の方へ倒れた。
(撃たれた?)
後方にいる何者かが、この赤い目と長い舌の親子を撃ったんだ。
男が頭部を撃たれ路上に倒れた直後、
助手席のサトミを振り返ると、呆然とした顔で僕を見つめていた。
あまりにも色々な事が短時間に起きたためパニック状態になって声も出ないみたいだった。
僕も似たようなものだ。
(落ち着け……落ち着け……)
自分に言い聞かせる。
誰かの気配を後方に感じた。
振り返って、運転席のヘッドレスト越しに後ろを
こちらに向かって、別の男が歩いて来るのが見えた。
レインコートを着ていた。
フードを深く
どうする?
逃げるか?
後ろから歩いて来るレインコートの男が、赤い目と長い舌の親子を撃ったのは、僕らを助けるためだったのか?
だとすれば命の恩人だ。
この『迷いの森』の中にあって、新たな情報を提供してくれる可能性だってある。
(逃げるか? それとも後ろから歩いて来る男と情報交換するか?)
そんなに長いあいだ迷っていたつもりはなかったけど、気づいたら、レインコートの男は僕らの
身長は平均より少し高いくらい。ガッシリとした体つきだった。
フードの下から
右手に大型の拳銃をぶら下げていた。
「
「え? 何ですか」
「オヤコモドキという生物だ」言いながら、右手の大型拳銃を振って、その銃口で、ジムニーの横に倒れている父親と子供を
僕は、運転席の窓ガラスに顔を貼り付けるようにして、倒れている
……人間じゃなかった……
父親(だったもの)が着ていたスーツは消滅し、緑色の
胸に抱いていたはずの息子の姿は無く、代わりに、幼稚園児くらいの大きさの丸い木を抱いていた。
「こいつは、人間などの高等生物を専門に捕食する生命体だ。こいつの目を至近距離で見ると、精神支配を受けて
「人間を食べる……異世界の……生き物?」
「ああ。そうだ。『人間を一瞬で催眠状態にする赤い目』と『体液を吸い取るナメクジみたいな舌』が、こいつらの武器だ……どちらも至近距離じゃないと力を発揮しない。だから、こいつらは、獲物と同じ姿に擬態して相手を油断させ、精神支配できる間合いまで近づこうとするんだ。相手と同じ種族の、親子の姿に化けるのさ」
「人間の親子に化けて、僕らに近づいた、って事ですか?」
「そうだ。人間をはじめとして多くの高等生物に備わっている『親子に対する共感の強さ』……まあ『母性本能』とか、そう言ったものだな……それを利用して油断させるために、必ず親子の姿に擬態するんだ」
「まるで妖怪だな」
「妖怪、神、異世界の生物……どう呼んでも良いさ。どう呼ぼうが同じ事だ。奴らは不思議な能力を駆使し、俺たち人間を捕らえて、食う。
助手席を振り返ると、サトミが右手をジャケットの中に入れていた。
(例の光線銃で、レインコートの男を撃とうとしたのか?)
それを男に目ざとく見つけられて、逆に銃を突きつけられる格好になっていた。
サトミは悔しそうな顔で
「さて……」レインコートの男は、一歩後ろに下がり、僕らのジムニーから離れた。「そろそろ再出発しようじゃないか。出来れば、日の暮れる前に〈
「〈
「この広大な森の出口……この延々と続いた一本道の終着点だ」
そう言い残し、僕らに背を向け、レインコートの男は後方へ歩いて行った。
僕は、ジムニーの窓を閉めながら「何なんだ、あいつ……」と
サトミが、後ろを振り返って「あ、見て」と言った。「あのオジさん、例のスポーツカーに乗り込んだよ」
彼女の言葉を聞いて、僕も振り返ってヘッドレスト越しに後方を見た。
雨の幕を通して、240Zの運転席のドアが閉まる所を確認できた。
(やっぱり、あの男が240Zの運転手だったのか……)
それにしても、奴の目的は何だ?
何のために僕らの後を
敵なのか、味方なのか。
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