エピローグ2 ラピスラズリ
しばらくの間、なにもない空間をただよっていた。
あたりは真っ白だ。
音も聞こえないし、匂いも感じない。意思だけがぼんやりと残っていた。
急に前方に強烈な光を感じる。逃げ遅れた。今まさになにかに巻き込まれようとしている。
その直前、何者かに押し出された。
体が流されていく。光の元となっているであろう位置が遠くなっていく。
前方に黒い影。こちらを向いて、口元に笑みを浮かべる彼女の名は――
刹那、石が割れる音がした。
☆★☆
私は記憶を取り戻した。
いや、記憶を一時的に上書きされたというほうが正しい。
私は何者かに押されて、なにもない空間から脱出して、元いた世界に転生する。実際には別人だけど、少なくとも容姿は私にそっくりだった。
ここまではいい話よね。私もまさかこの期に及んで自分の意思を持って行動が取れるとは思わなかったわ。それもこれも、全ては空色の宝石から流れ込んできた声のおかげよ。そのメッセージのおかげで一時的とはいえ、過去を取り戻したのだから。
だけど、ね。今、とんでもなく憂鬱な気分になっているのも、彼のせいよ。
記憶はじきに失われるだなんて、簡単に受け入れられるはずがないでしょうが。なにを考えているのよ、彼は。
そして、神さまもよ。どうせ、神さまが余計なお世話をしてくれたのでしょう。
ミシェルがなにもない空間から押し出してくれなければ、現世を歩く資格すらなかったのだろうけれど、その影響でターコイズも割れてしまった。まるで、彼女が身代わりにでもなってくれたかのようだったわ。
ひとまず、彼女には感謝するとして、今だけは自由だ。
私はまずはボロっちい小屋を出る。扉には鍵がかかっていたようだけれど、触れたらあっさりと解除できた。
うそぉ……私、鍵なんて持ってないわよね。
戸惑いながらも、外に出る。
顔を上げたけれど、青空は見えず、どんよりと曇っている。気温は低くて過ごしやすくはあるのだけど、外で活動するには明るさが足りないわね。
ぶらぶらと足を動かす。本当にここは私の知っている外の世界なのかしら。まるで、違う。煙の臭いはしないし、地面に血が飛び散っているわけでもない。緑色の自然も色鮮やかに自己主張をしている。本当に平和になったのね。
でも、今この場所に彼がいないのが気に食わないの。
あなたよ、ルーク・アジュール。
それは勇者としての名前だったのでしょう。本名は別にあったのではないかしら。どうせなら、教えてくれたってよかったのに。
そんな不満も二度と口に出せないのね。なんだか寂しいわ。
風が真横を通っていく。涼しくていい感じなのに、気持ちが高揚しない。
視線を上げても、まだ晴れない。青空なんて見えやしない。はなからそんなものは存在しないとばかりに堂々と鉛色の雲が重く垂れ込んでいる。
今、会いたくて仕方がない。まだ、ここにいたい。存在したいと願ってしまう。
勇者の刃で貫かれた時点で、死神はすでにこの世から消失している。今、私が足を動かしていられるのは依代の少女と、一時的に記憶を上書きして憑依状態を作り出した神さまたちが原因だ。
いずれは消える記憶。カウントダウンは始まっている。
そうした中、不意に視界に飛び込んだのは大きな建物だ。長方形で、窓越しに大量の本棚が設置されているのが見える。図書館かしら。
駆け足で近づいて、扉の前に立つ。やっぱり、鍵がかかっているようね。すでに閉館して廃墟となっているのかしら。
それでも気になるので、粘ってみる。扉の前に手をかざす。すると、あっさりと目の前で門が開いた。
あっけにとられながらも、足を一歩踏み出す。中は予想よりも清潔感がある。本棚を一つひとつチェックしてみると、魔王と勇者に関する題名がやけに目についた。
なるほどね。落胆にも似たため息を漏らす。
今の歴史に私のような存在はいなかった。かわりに新たな魔王が誕生して討伐されたという伝説は残ったという感じか。つじつま合わせのために神が地上へ落とした創作に違いないわ。
一方で、私の名前はどこにもない。凄まじい速度で進んで変わっていく時代に、魔王だった少女だけが取り残されている。
あっさりと本棚に背中を向けて、入り口まで戻ってくる。
外へ出た。
指輪の宝石が空色から瑠璃色へ変わろうとしている。
空が傾き始めたころ、私は丘にたどり着いていた。頭と心にはなおもモヤモヤとした想いが充満している。
また、彼の顔が脳裏に浮かぶ。本当に、爽やかな顔で笑う人だった。
ほんのりと、懐かしさを胸に抱く。
思い浮かぶ内容はどれも輝かしいものばかりだ。もうすでに遠ざかってしまった過去に手を伸ばして、引き寄せきれずに置いていかれる。また、私は一人になるのね。
ねえ、本当にもうこれで終わってしまうの?
沈む夕日を背に感じながら、ほかでもない誰かに問いかける。
私は悔しいよ、正直。
恐ろしいの、自分が消えてしまう瞬間が。
空の色が濃くなる。あたりが夕闇に包まれた。透明感のある藍色の景色の中で、私はうつむく。
風が吹き抜けていく。
空っぽになった心を涼しさだけが満たす。
なんだか、すっかり抜け殻になった気分だわ。
まだ、動かずにいる。
今はただ、過去の思い出に浸っていたい。脳内だけで自分の足跡をたどってみれば、また思いがこみ上げてくる。ほろ苦い感情まで湧き上がって、唇を噛んだ。
もう戻れないのだと、姿を消した青年もこれから消える自分も、幸福を少なからず感じていた情景も、なにもかも、もう二度と手に入らない。
この気持ちを、覚えていたい。この痛みを、忘れたくない。この感情は、ルークが確かにこの世界にいたという証。この痛みは彼を想っていたという証拠。
決して形には残らないものではあるけれど、これはどんな宝石や財宝よりもずっと価値のあるものだと思ったから。
すごくワガママで自分本位な願いだけど、それでも、星が見えるなら――
だけど、今日は曇りだ。きっと暗いままだろう。私の感情も暗いままだもの。
そんなとき、不意に景色が明るくなる。
まさか……雲が、晴れている?
ハッと息をのむ。
視界に広がるのは夏の空に似た、深い群青だ。
星の光があまりにも強すぎて、あたりが明るくて、夜というより夜明けに近かった。
ああ――この光は彼のようでもあって。
この夜空はラピスラズリだ。
気づいて、思わず両手で顔をおおう。
ついに二つの目から涙がこぼれる。
一度決壊したものはそう簡単には抑えきれず、熱い想いが頬を伝う。
涙が止まらない。
うずくまって、ただひたすらに泣き続けた。
嗚咽を噛み殺すように、また深く息を吸い込む。
この青が、澄み切った尊い色が、瞬く金色の光の全てが愛おしかった。
こんなにも彼の存在を近くに感じるのに、視界にとらえることはできない。それはまるで、ラピスラズリの空が彼そのものと化してしまったかのようで……。
ふたたび立ち上がる。あらためて顔を上げた。流れていく星たちに、空を埋め尽くす青の群れに手を伸ばす。
私たちはきっと、もう二度と交わることはない。
今の私はただの幻想。いずれは消えてしまう儚い存在でしかない。そんな私にはなんの価値もない。
じゃあ……今、この胸に飛来する感慨はなんだ……?
私たちが暮らしていた世界は架空の存在で、全ては空想。ありとあらゆるものがうたかたに消えても、確かに私はここにいた。
世界中の誰もが私のことを忘れても、なかったことになっても、この事実を私だけが覚えている。それだけでもきっと、意味はあった。
一つだけ、無念がある。
顔を上げた。
また、
「あなたを名前で呼びたかった……」
流星へ向かって目を閉じて、心の中で唱えた。ほかならぬ、もう一人の自分へ。
どうか、この想いを受け取ってほしいと。
二度と後悔なんてしないように精一杯に生き抜いて。
あとはやっぱり、自由に。自分のための人生を生きてほしい。
最後に一言。
世界から消えるとき――伝えることのできなかった言葉を。
さよなら。
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