第9話

「彼女は願ったのでしょう。無意味でもいいから今度こそ、なにかを成したいと。とにかく、高みに挑みたかったのです。しかし、心の底では失敗を恐れていました。強大な力を手に入れて周りから孤立したり、世界を巻き込んでしまうことにも、猛烈な不安を抱きました。だから、彼女は逃げたのです。自分の中の強い部分のみを具現化させて、切り離しました。そして相手に、記憶と一緒に戦闘力を――神になるための力を託したのです。そして、相手は外に出られないかわりに、限られた世界を自由に活用する権利を得ました」


 いつの間にか、話に聞き入っていた。

 具体的ではなく、むしろ抽象的ですらあるのに、彼の説明は自然に頭に入ってくる。

 抑揚のない声音は心地よくさえあった。


 しかれども、核心に近づくにつれて、心の表面に生じた波が大きくなっていく。

 冷えた頬(ほお)に汗が伝う。

 唇を噛んだ。


私は、私は……いったい?

 返ってくるはずのない問いを、心の中で発した。


 いいえ、違うの。この問いは意味をなさない。私は、すでに自分の正体に気づいているはずだった。


「そうしたのは、あなたです。弱い自分を切り捨てて、夢を果たそうとしたのは間違いなく、あなた自身ですよ。レイラ・レナータさん」


 息を呑む。

 唇の隙間から漏れそうになった悲鳴を押し殺す。

 握りしめた拳が震えていた。


 そうか、やっぱり……そういうことだったのか。


 結局、昔から逃げてばかりだったのね。失敗を恐れて、嫌われるのを怖がって、ありとあらゆる役目をたった一人に押し付けたのだわ。


「彼女もまた、幻です。レイラ・レナータというオリジナルから分離した、存在。吹けば消えてしまうような、儚い者です」


 もう、なにも言えなかった。

 こんなの、全て私が悪いじゃない。

 身勝手な願いを別の存在に押し付けて、自分は楽をしているだなんて、許されるはずがないわ。


 女王はがらんどうだ。

 城下町で少年の姿で発したイリュジオンの言葉が、ふたたび脳裏をよぎる。


 結局、そのままの意味だったのね。確かにミシェル・リベルテは伽藍堂(がらんどう)だわ。女王という皮で覆っただけで、中身はない。植物でいう空木(うつぎ)のような存在だったのね。


「女王はあなたのことを憎んでいますよ。同時に、大切に思ってもいる。だからこそ、勇者を引き剥がそうとしたのです」


 顔を上げた。

 相も変わらず仮面をかぶったような表情で、少年は言う。


「女王は、彼らをこの世界に呼ぶつもりなどなかった。勝手に導いたのは僕です。そうしなければ、報われないまま、終わってしまうと思いまして」

「それは、どういう?」

「行けば分かります。もう、時間がないと」


 ガラス玉のような瞳が揺れる。

 彼は目をそらした。


「じきにこの世界は崩壊する。なにしろ、神の力は人間の身には重すぎた」


 つまり、まさか……。

 考えたくもない話、想像したくもない光景が頭をかすめた。

 口ぶりからして、だいたいのことは読めてしまうけれど、否定したくてたまらなくなる。


 されども、もう一度問えば、今度は肯定されて事実が確定してしまうかもしれない。

 私はあえて、正解を尋ねなかった。


「それで、どうするのです? 彼のことは、どう考えているのですか?」


 表情が曇るのを感じた。


 ルーク・アジュールという名前が心に浮かぶ。

 彼は私を、裏切ったのだろうか。


 敵であることに間違いはない。悪の私に対して、相手は勇者よ。

 絶対の正義を前にして、死神と呼ばれる一族は次々と倒れて、命を散らす。

 勇者は何度、敵を殺して、白い鎧を血の色に染めたのかしら。

 おそらく同胞は彼によって皆殺しにされた。離れた地域に残っていた無彩色の一族も含めて、消失に違いない。


 通常であれば、我を失いそうなくらい怒り狂っていなければおかしいわ。

 やつ当たりでもなんでもいいから、戦わなければ。殺さなければ。復讐に走らなければ。


 されども、私の心は凪いでいる。驚くべきほどに穏やかで、波一つ立っていない。

 なぜ、冷静なままでいられるのか――答えはすでに、心の中に存在したのかもしれない。


 いま一度、落ち着いて思考をする。

 そもそも、なぜ私は生きているのか。

 目を閉じると、過去の情景がありありと脳裏に浮かんできた。





 ☆★☆


 人でなし・冷酷・魔女・魔王……。

 嫌な単語なら山ほど浮かぶ。

 否定はできないし、する気もない。

 戦士たちを斬ったときの感触は、今も残っている。

 耳の奥では、愛する人を殺された女性たちの恨みの声が、反響していた。


 とうの昔に太陽は沈んだ。

 いっそ好転しないのなら、真っ暗なだけの未来なら、全てを終わりにしたい。


「もう人には戻れないわね。完全に堕落した。私にはどうしても、足りないものが多すぎて……」


 深く息を吐く。

 不可能だと分かっているのに、人間として扱われていたころに戻りたいと願ってしまう。

 心の中で、届かないものに手を伸ばす。


「もはや、許される権利すらないのでしょう。だから、殺して。私を殺して。あなたの手で、全てを終わらせて」


 懇願だった。

 もはや、全てを諦めた。浄化の刃によって、全てをなかったことにしてほしかったのだ。

 死を望む私に対して、青年は静かに首を横に振る。


「君は人間だ。それは、僕が一番知っている」


 澄み切った青い瞳で、こちらを見澄ます。


「愛|嬌(きょう)も愛想もなくて、寡黙(かもく)でつまらなさそうにしてたよな。なにを考えてんのかも分かんないし、得体(えたい)がしれないところもあった。なんか垢抜けないし、田舎くさい。ハッキリいって、凡人だよ。でも、君は人の痛みが分かる人なんだ。自己主張はしないし、積極的に助けにいくわけではないんだけど、心の中では同情している。助けたいと思っている。誰かを愛することだって、できるはずだ」


 一息に語る。

 青年の声音が熱を持つ。


「昔は俺の願いだって、聞き入れてくれたよな? 頼んだらなんでもやってくれるから、利用したときもあった。要するに、君は他人を優先してしまうんだよ。そういう人間なんだよ」


 目の前にいる青年はただ純粋に、一人の少女に対する好意を口にしている。

 瞳は一ミリも揺らがず、ありのままの言葉に嘘(うそ)はない。

 それでも、彼の自分へ対する評価を肯定したくはなかった。


「違う。私は……」


 唇が震えた。

 胸の奥から熱い感情がこみ上げてくる。

 いままで封印していたはずの気持ちがあふれ出して、抑えきれなくなっていた。


「私は、普通の人間じゃない」


 やっとの思いで口を動かす。

 いままで、数えきれないほどの人間を手にかけて、彼らの未来を奪ってきた。

 自分の罪は消せない。決して、拭い切れるものでもなかった。

 だからこそ、勇者は一族最後の生き残りである少女を、追い詰めようとしているのではないのか。いずれ魔王と化す者を殺すために、その罪を裁くために。


「君には良心があるだろう。だから、悩むんだ」


 青年は肯定してくれない。


「君は確かに女性らしさの塊だよ。甘いものは好きだし、かわいいものにも惹かれる。争いは好まないし、所作には気品が漂っている。本当は傷つきやすいんだって、分かっていたんだ」


 彼がこちらに近づく。


「言わせてくれ。もう僕は、人を殺せない。殺したくないんだ。だからこれは僕のため」


 言いづらそうに、目をそらす。

 それでも、彼は漆黒(しっこく)の瞳を真っすぐに見|据(す)えた。


「この世界の全てが君の敵になっても、ありとあらゆる者から悪だと認定されていたとしても、僕は君を守りたかった。君の全てを知っているから、君と何度も戦った記憶があるから。だから僕は、君を許すよ。その罪を、行ってきたことを」


 青年の声は透明だ。

 頼りないわけでもなく、一本の芯が通っているかのように、張り詰めている。

 凛とした表情には、照れも迷いもない。


「こんな資格はないと分かっている。それでも僕は」


 堂々とした態度で、言葉をつむぐ。


「君に幸せになって、ほしかった」


 精悍(せいかん)な顔で、真剣な目をして、目の前にいる者を見つめる。

 途端に、張り詰めていたものが崩壊する音がした。

 一種の意地のような覚悟は、ガラスのようにあっけなく、砕け散る。


 息を呑んだ。

 よろめきながらも、体勢を立て直す。

 顔を両手を覆う。

 そんな、そんなこと……。


 こちらこそ、言われる資格はとうの昔になくしているというのに。


 少女は、自らの意思で全人類を敵に回した。罪の有無に関わらず、敵対する者は容赦なく葬ってきた。

 絶対に許されない。

 勇者とて、理解はしているはずだ。

 それなのに、この期に及んで、彼は――


「言わせてほしい。僕は――」






 ☆★☆


 彼の発した言葉の続きを覚えている。

 けれども今は、それに関しては、なにも言えない。リアクションすら、取れずにいる。



「私は、許されていた」


 なにもない真っ白な空間で、ポツリとつぶやいた。


 顔を上げて、宝石箱に入っていたラピスラズリの指輪を脳内に呼び起こさせる。初めて見たときからなにかを感じていたのだけど、その理由がようやく分かった。あれは、私を封印したものだ。


 私たちは敵同士だった。互いの味方を殺し合うような関係だ。それでも、青年はたった一人の悪に対する救済を望む。私は死を与えられるかわりに、小さな指輪の中に封印された。


 そう考えるのが妥当だけど、矛盾がないわけではないわ。


 仮にラピスラズリが小さな世界の本体だとして、なぜそれが、青年の宝石箱の中に入っていたのかしら。これでは、一つの世界にもう一つの世界が二重に重なっているようで、ややこしいわね。


 まあ、いろいろと悩んだところで意味はないわ。元より、封印に関しては仮説に過ぎないもの。真実は本人に直接尋ねない限り、分からないままでしょうね。


 とにもかくにも、目的は得た。

 今はまだ、取り返しのつかない段階ではない。


 たった一人の少女のために命を奪わないという選択をした青年に対して、なにができるのか。

 彼のために、そして、私の分身である女王のために、なにかを成さなければならない。


 次こそは挽回する。絶対に成し遂げるのだと心に誓う。

 なんだか急に、気持ちが明るくなってきたような気がする。目の前の霧が晴れたような、すっきりとした気分だ。


「結局のところ、私はずっと、過去にしばられていたのね。記憶を失っていたときでさえも」


 口に出す。

 感慨深さがあった。

 今なら過去を乗り越えられると思った。むしろ、乗り越えなければならない。


 前を向く。

 持ち上がった視線の先には、青年がいた。顔には大した特徴はなく、少し離れるとすぐに存在を忘れてしまいそうなくらい、存在感がない。芸術とも呼べるくらいの地味さに苦笑しつつも、内心で彼に感謝をした。

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