椿が枯れたら(4)

 開いた口が塞がらず、ただ目の前のスズミさんを見る僕。


「僕が……人魚を食べられるの……?」

「うん。キミ、うっかり箱開けた時なんともなかったでしょ? あれが何よりの証拠」


 禍々しい人魚を見た時の恐ろしい光景が、脳内を占拠する。僕は驚きこそしたが、なんともない。

 だけど、スズミさんや彼女の叔父の上司は苦しみ、上司は死んでしまった。


「そして、チカさんにも “適性” がある。でも、彼女はすでに食べてるんだけどね」

「食べてる!? それって、人魚を?」

「うん」


 真剣なまなざしで首を振るスズミさん。

 チカさんが人魚を食べただって……!?


「でも、何でそう言えるの……?」

「人魚の肉はね、想像を超える力があるの。比丘尼(びくに)は肉を食べてどうなったの?」

「不老長寿になった……まさか、チカさんも?」


 スズミさんは首を縦に振る。

 にわかに信じられる話じゃない。だけど、チカさんはこれまで自分が何十年も前から生きていたかのように話していた。

 スズミさんは話を続けた。


「効果はそれだけじゃないの。人魚の肉は、簡単にいえば人をとても強くするのよ。肉体的にね」


 その効果――強い治癒力と免疫力を得られ、さらに筋肉も増強できるという。

 チカさんはこれまでもとても重そうなものを持ち上げたり、自分より体格の大きな男を投げ飛ばしたりしていた。

 極めつけはカッターで切られた傷が、すぐに癒えたこと。人間の治癒力では考えられない速さだった。


 驚いたまま、僕の身体は石のように固まってしまった。確かに、チカさんは不思議な人だと思っていたが、人魚を食べていたなんて想像だにしていなかったからだ。


「それだけ……すごい力なんだね」

「うん……だから、叔父(あいつ)もそれに目を付けたの。会社での評価が上がるようにね……」


 確かに、できるかどうかは別として人魚の肉から薬を作れば世紀の大発明だろう。大出世も間違いない。


「でもそれとチカさんの目的って……」

「本人に聞いてみないとわからないよ。ただ、キミが持つ人魚の肉の “適性” と関係あると思う。チカさん、あの夜に言ってたの」


――「卯花」。やっぱりあの子は……あたしの……


 僕とチカさんの共通点が人魚の肉を食べられること。そして「卯花(うのはな)」という発言。

 ふと、僕は初めてチカさんに会ったときのことを思い出した。


 卯花神社で自己紹介した時、僕の苗字「卯花」に反応していた。その直後、彼女は僕だけに箱を渡していた――


「まさか、チカさん初めから僕が人魚を食べられることを知ってたのかな」

「かもしれないね……。でも、ここからは本人に聞いてみようよ」

「うん……」


 僕は心の奥底にある恐ろしいシナリオを描いていた。

 チカさんが時折見せる悲しそうな表情、彼女が受けたとされるいじめのようなひどい仕打ち、そして自分がかつて孤独だったこと……。彼女のつらい気持ちがなぜか僕の心を刺激した。

 でも、シナリオはまだぼんやりとしか見えない。

 すべては本人に聞くしかない。


***


 十時前には僕の家に到着した。当然両親は仕事に行っており、おじいちゃんも神社で神事をしていて、家には誰もいない。

 鍵が掛けられていたので、いつも開いている勝手口から入り、玄関に回り込んで鍵を開けた。


「お待たせ」

「あ、ありがとー。久しぶりだね、セイヤくんの家に入るの」


 スズミさんはまるで森林浴を楽しむように、思いっきり背を伸ばして深呼吸していた。

 とはいえ、元ぼっちに何をしようか思いつくわけでもないので、


「まだみんな帰ってくるまで時間あるから、宿題進めようよ」

「え、セイヤくんもまだ終わってなかったの? てっきり暇そうだから終わったかなって」


 不思議そうな顔で僕を見つめるスズミさん。僕の心はなぜか熱くなった。声が力む。


「ま、まだ終わってないよ!」

「声大きいって!」

「あ、ごめん」


 顔を床に向けてしまい、熱くなっていた体温も下降していった。


「まあ、恥ずかしがることないんじゃない? 私も終わってないし。一緒にやろうよ」

「じゃあ居間で……」

「キミの部屋がいい」

「え?」


 居間に向かおうとした僕をスズミさんの声が引き留めた。振り向くとスズミさんは好奇心の塊のごとく、目を輝かせていた。


「ねえ、セイヤくんの部屋ってどうなってんの?」

「え……別に何もないけど……。って、どうして僕の部屋なの?」

「純粋に気になるんだよねー。同年代の男の子の部屋って。そういえばキミ、私の部屋見たでしょ?」


 心臓が止まりかけた。確かに、見てしまった。スズミさん救出のため仕方ないとはいえ、僕はこの目で見ている。


「確かに……」

「なら、私も見ていいよね?」

「……」


 にっこりと無邪気にほくそ笑むスズミさんを見て、僕は反論できなくなった。まあ、反論する言葉も浮かばなかったんだけど。


***


 スズミさんは宿題を家から持ち出していた。どうやらチカさんとホテルに泊まる前に持ち出していたようだ。

 しぶしぶ僕は自分の部屋を公開した……といっても六畳間の部屋にベッドと勉強机だけ。本当に何もない部屋で、面白みもないと思うが……。


「へえー、ここがセイヤくんの部屋か。意外ときれいだねー」


 興味深そうに周りを眺めるスズミさん。部屋は定期的にお母さんが掃除してるし、ゲームとか漫画は居間に置いてあるから、きれいなんだけど……。


「とりあえずここ座って?」


 僕は下から持ってきた丸椅子にスズミさんを座らせる。


「さて……数学の宿題からやろうよ」

「うん!」


 ゆっくりと時間が過ぎる中、僕らは宿題を進める。といっても、僕の脳内はチカさんのことが見え隠れしていた。

 スズミさんはチカさんを警戒しろと言ってるけど、やっぱり信じられない。あそこまで僕らに親身になってくれたのに、僕らを辛い目に遭わせようとしてるなんて……。

 考えてる間にも、時間は過ぎていった。


「ふう……つかれたー!」


 スズミさんは立ち上がると思いっきり背伸びした。


「ねえ、ちょっと休憩しない?」

「うん」


 僕も手を止めた。ふと掛け時計を見ると、もう十一時半だ。


「もうすぐお昼だね。昼からにする?」

「さんせー!」


 まあ、おじいちゃんが戻ってくるのはまだ先だから、適当に時間をつぶすことになる。


 冷房のおかげで心地よい風が吹き抜ける。

 少し眠くはなるけど、お昼までの我慢だ。

 スズミさんは壁にかけてあったカレンダーに目をやった。すでに八月も一週間近くが経とうとしていた。


「あと三週間か……でも今年の夏っていろんな意味ですごいよね」

「うん。チカさんが出てきてからは……特に」

「そうだね」


 スズミさんは苦笑交じりに言った。


「でも、やっぱり信じられないよ。チカさんが何か悪いこと考えてるなんて」


 僕は窓の外に広がる澄んだ夏の空を眺めた。スズミさんから笑いが消える。


「気持ちはわかるけど……そう言ってたのは事実なんだよ?」

「だけど……本気なのかな」

「え?」

「チカさん、ためらってるようにも見えるんだ。僕には」


 僕は心の中でチカさんへの思いを巡らせていた。次第に思いはまとまり、大きなものとなって僕の口に向かう。


「僕は……チカさんを助けたい。」

「いきなり何で」


 スズミさんは目をぱちくりさせる。


「あの人を信じたいから……。チカさんも何か後ろめたいことがあって悩んでるみたいなんだ」

「今朝の話だね。昔ひどい仕打ちを受けたって言ってたね」

「うん。僕もいじめを受けたから、なんとなく辛さがわかる気がするんだ」


 スズミさんは何も言わず、顔を下に沈めるように向けていた。


「そう、だよね……ごめん」


 彼女の言葉が漏れて、床に落ちる。

 スズミさんは顔を上げると、茶色い瞳を僕に向けた。


「どっちにしてもチカさんに話を聞こうよ。それしかないと思う」

「うん」



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