帰りたくない!(9)

「課長はどうだったんだよ」


 声の主が僕らの前に現れた。スズミさんの叔父だ……。

 スズミさんは足がすくんでいた。僕も警戒こそしていたが、前に足が出せない。

 チカさんは一度目を閉じると、


「課長さんってさっき倒れてた人?」

「そうだよ……偉そうな口聞きやがって」

「残念だけど……彼は亡くなってたわ」

「なにっ」


 叔父の声色が変わった。


「う……うそだろ?」

「箱を開けたときに人魚の呪いにかかったのよ」

「のろ、い?」

「信じようが信じまいが自由だけど、体のどこにも外傷はなかった。箱を開けたときに見てしまったのね」

「……」


 冷静なチカさんと裏腹に叔父は怯えていた。額から汗が滲み出て、手足も小刻みに震えていた。


「ど、どうすんだよ……」


 叔父はスズミさんに顔を向けた。しかし、磁石が反発するように、顔を背けた。


鈴美すずみ、どうなんだよ……なあ……」

「……」


 叔父は一歩ずつ近づいてくる。無表情だが、目には明らかに敵意が込められていた。

 スズミさんは僕のシャツを強く握った。シャツを通じて僕の肌に命の危機が伝わる。

 どうする? 前に出る?

 相手は大人。僕はヘタレ。普通に出たら負けるだろう。

 だけど――


 僕は大きく前に出た。


「セイヤくん!」


 勇気を振り絞り、僕は近づく男を睨んだ。チカさんの声が聞こえた気したけど、耳をすり抜けた。

 汗がじんわり浮かび上がる。心臓の拍動も早くなる。

 男は立ち止まり、僕に冷たい一撃を言い放った。


「……どけよ」

「……」

「どけって言ってるんだよ」

「……どきません」

「これは身内の問題だ。テメエは黙ってろ」

「……いや、です」


 男の顔が一気にまるで煮えたぎるマグマのように赤くなった。敵意むき出しの視線が僕に刺さる。

 一瞬、僕の足元がぐらついた。


 男の舌打ちが響く。


「おい、大人を舐めんじゃねえぞ」


 男はタバコ用のライターの火を点け、僕に突きつけた。思わず怯んで、一歩引き下がる。

 どうしようもないことは分かってる。でも……。


「どけ!!」


 男は僕を右側に強く押した。思わずよろめき、僕は頭から草原に倒れこんだ。体中に痛みが走る。


「うっ」

「セイヤくん!」


 スズミさんの声。

 僕はすぐに立ち上がろうとする。しかし、すぐに頭に強い圧力を感じた。

 頭を靴で踏んづけられていた。


「黙れって言ってんだろ。鈴美に近づくな」


 男は僕の腹を強く蹴った。感じたことのないような、身体が両断されるような痛みと衝撃が僕を襲った。

 二メートルほど飛ばされ、草原に転がり落ちる。一瞬胃の内容物が逆流したらしく、僕はむせた。


「叔父さん……やめて」


 スズミさんのこいねがう声。

 激しくせき込んで苦しいけど、その思いが強く伝わった。でも、動くと痛みに襲われる。どうすればいいんだ……? 

 叔父の声がひどく低く響く。


「鈴美、どうしてくれるんだ」

「……」


 僕は目をつぶった。一瞬、僕が異世界転生ものの主人公ならすべてを力で解決できると思った。

 でも、ここは現実。

 僕は無力なんだ……!


 その時、何かが草原をかける音。


――は、なんだよ姉ちゃん

――はあっ!!

――うっ!


 ドサッと重い何かが地面に落ちる音がした。

 僕は目を開け起き上がると、男が目の前であおむけに倒れていた。しかし、頭を押さえながらも立ち上がる。


「ってえ……」

「小さい女の子に手を上げるなんて、養父(ようふ)といっても許されないんじゃないの?」

「んにゃろう!!」


 激高した男はカッターを取り出す。日光が刃先で反射する。


「死ねええっ!!」


 男はチカさんの心臓めがけてカッターを突き動かした。チカさんは俊敏な速さでカッターを避けようとした。

 カッターはチカさんの顔をかすめた。

 緑がかった髪が何本か切れる。

 赤い鮮血が飛び散る。

 僕もスズミさんも思わず目を閉じた。


――ふっ!

――なにっ!


 ドサッ


 何かが倒れこむ音がした。

 僕はゆっくりと目を開けた。


 男が目の前で目を見開き、口をぽっかり開けながら倒れていた。だが生きているようで、よく見ると目と口元はぴくぴく動いていた。

 その様子をチカさんが上から腕を組んで眺めていた。スズミさんはチカさんの後ろで、倒れている男を見ていた。

 な、何があったんだ?

 状況が整理できていないのはスズミさんも同じだったようで、


「いったい、何が……」

「とりあえず、ここを離れるわよ」


 チカさんは頬にできた五センチくらいの傷を腕で拭った。だが、拭ったその跡に傷はなくなっていた。血も消えている。

 僕は開いた口がふさがらなかった。


 その後彼女は僕のところに来て、しゃがみ込んだ。


「ねえ、立てる?」

「え……あ……はい」


 僕はチカさんの手を借りながらなんとか立ち上がった。まだ足がよろめき、たまに咳込んでいる。

 その後僕らは草原をあとにした。


***


 僕らは海岸を目指して下山した。おぼつかない足取りながらもチカさんに支えてもらいながら足を進める。

 下山道は上ってきたところから反対側にあって、そちらのほうが早く海岸に出られるという。


「セイヤくん、気持ちはわかるけど無理しちゃだめよ」

「ご……ごめんなさい」


 歩くたびに腹が痛む。だいぶ落ち着いてきたといってもあの蹴りの一撃は強烈だった。

 どうやらチカさんは大学に入ってから柔道をやっていたらしく、有段者らしい。とはいえ、華奢な体型なのに、あれだけの大柄な男を投げ飛ばしてしまうとは……。


「あたし野宿もするから、護身術は身に着けたほうがいいかなって思って」


 チカさんは苦笑いしていた。

 それよりも驚いたのはカッターの傷だ。もう血も止まり、何事もなかったかのようにきれいな凛としたチカさんの顔に戻っている。


「カッターのケガ、大丈夫なんですか?」

「まあね。あれくらいどうってことないって! あたし免疫も強いみたいだし!」

「そうなんですか……」


 後頭部のポニーテールの根元を掻きながら、チカさんは笑った。

 だけど、その背後にいるスズミさんはなぜか驚きの表情を浮かべていた。そんなことに僕は気づくはずもなかった。


 しばらく歩くと、突如スズミさんの足が止まった。


「ねえ、ちょっと待ってくれませんか?」


 僕とチカさんが振り返る。


「どうしたの、スズミちゃん」


 しかし、スズミさんはチカさんの呼びかけを無視して、前に走り出した。

 そして僕らから二十メートルほど走ったところでしゃがみ込んだ。


「やっぱり、冠島かむりじまに来てたんだ……」


 崖に突き出た枝に、枯葉と乾いた土が付着した男性用のスーツが折れるようにぶら下がり、その五メートルほど下の土の上に同じような状態の女性用のジャケットとスカートが落ちていた。


 スズミさんは手を合わせ、目を閉じた。まるで、誰かの冥福を祈るように。


 僕とチカさんはためらいながらも、スズミさんに近づいた。

 祈りが終わると、彼女は立ち上がった。


「スズミさん、どうしたの……いきなり」

「お父さんとお母さん。ここにいたの」

「え……?」

「事故の後、ここに流れ着いてたんだね……」


 スズミさんの頬をつうっと涙が流れた。


「事故って半年前の船の事故のこと?」

「うん……お父さんとお母さんも乗ってたのよ。結婚記念日で、北海道に旅行に行く予定だったの。その矢先に事故に遭って……」


 スズミさんの家族はごくごくありふれた普通の家庭だった。両親は休日には遊んでくれるし、旅行に行ったりもした。

 しかし、事故後状況は一変した。


 遺体の捜索が行われたが発見できなかった人もおり、その中にスズミさんのご両親もいたそうだ。

 事故のあと、スズミさんは叔父に引き取られた。

 叔父宅での生活はこれまで見てきたように最悪だった。叔父が勤める会社は全国有数のブラック企業で、社員には厳しいノルマが課せられていた。特に叔父は成績がよくなく、上司から解雇をちらつかされるほど追い詰められていたらしい。

 そしてストレスはスズミさんに向けられた。彼女は八つ当たりの対象になっていた。ストレス発散のための生きるサンドバッグなのだ。

 少しでもこの生活を脱してもとの生活に戻りたい。

 そんな気持ちが、親の生還を願う気持ちに変わっていった。


「ちょうど図書室で本を読んでたときに、冠島のことを見つけてね。ちょうど事故があった海域のすぐ近くだったの。ニュースによればそこで見つかった遺体もあるそうだし、海流の関係で近海の物が漂着することがあるそうなの」

「さらに人魚の肉でも有名な場所だった」

「ええ。それで、人魚の肉を調べるようになったの。人魚の肉は不老長寿の妙薬。ひょっとしたら生きてるって思ったんだけど……」


 調べるうちに生きてる可能性は低くなった。もともと確率は低かったけど……せめて、遺体だけでも見つかってほしかった。そんな思いで調べていた。


「結果的にこうだったんだけどね」


 スズミさんはもう一度風にむなしくなびく衣服を見ていた。


「でも、これがスズミさんのご両親のものかは……」

「これ見て?」


 スズミさんはスマホの画像欄を僕に見せた。そこに映る、笑顔の若夫婦と抱かれた五歳くらいの、黒髪ツインテールの女の子。若夫婦が着ている衣類はそこにあったものと同じだった。


「私の幼稚園時代に撮った写真。偶然だけど、旅行に行った当日も同じ服を着てたの」

「そうだったんだね……」


 僕は顔を俯けた。


「憶測にすぎないけど、人魚の肉を食べようとして箱を開けたら、苦しみながら死んでいった。ちょうどここ、山頂の草原の真下なの」


 スズミさんは崖の上を眺めた。島の位置関係は調べ事の途中で知っていったという。

 飢えをしのぐため人魚の肉を食べようとした。しかし、叔父の上司のように人魚の肉を見た瞬間、苦しみだして亡くなった。衣類はその後、風雨や獣などでここに落ちてきたのだろう。


「多分、あの近くに遺骨はあると思う」

「……」


 またスズミさんの頬を涙が伝った。僕は、そんな彼女を見ること以外できなかった。

 そして、自然と僕も会えなかったスズミさんのご両親に手を合わせていた。


「スズミちゃん、本当につらいでしょうけど先を急ぎましょ」


 チカさんがスズミさんの肩を撫でた。


「……はい」


***


 海岸に出たのはさらに二十分後。八百湾の外海が夏の太陽を浴びて輝いていた。


「じゃああたし、警察呼ぶからちょっと待ってて」

「でも、僕ら無許可で来てるんでしょ? 怒られるんじゃ……」

「頂上で人が死んでるのよ? あたしたち、何もやってないのに下手に逃げたら疑われるわ」

「あ、はい」


 チカさんはスマホを取り出すと警察に通報するため、僕らから離れた。


「ねえ、セイヤくん」


 スズミさんの声。振り向くと、彼女は耳を貸してというかのように、右手の甲を口に当てていた。


「話があるんだけど」

「どうしたの?」

「さっきはその……ありがとうね」

「いや、そんな」


 僕は顔を赤らめた。なぜか、心が浮き立ち始めた。


「言葉じゃ表せないけど……すごく、よかった」

「うん……」


 顔にも心の表情が現れたのか、にやついてしまう。


「あと……あんまり大声で話せないことなんだこど、耳貸してくれない」

「え?」


 まさか……?

 僕の心がさらに浮わつく。


――あの人、やっぱりただの人間じゃない


 彼女から出たのは衝撃的な言葉だった。

 いきなり強い風が僕らの間を吹き抜け、森の木々をゆらした。あたりは一瞬だけ静寂に包まれた。


 そして、僕らの夏物語は大きく動き出そうとしていた。

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