帰りたくない!(8)
スズミさんは叔父から暴力を受けている。彼女が生命の危機すら感じる、凄惨な状況下で暮らしていたことを僕たちは実感した。
今スズミさんは叔父に捕まり、
スズミさんが危険な状況であることが察せられたため、僕とチカさんの足は速くなる。まるで密林のような森は傾斜もあって足取りも悪くなる。息も上がりやすくなる。だけど、急ぐしかない。
――やめてええええええええええっ!!!
急いでいる僕らの耳を大声が貫いた。
「……この声ってスズミさん!?」
「頂上からよ!」
頂上はすぐそこだった。
僕らの眼前に広がる高さ一メートルくらいの草木が生い茂る草原。中央に小さな社(やしろ)があり、扉は開けられていた。
「取り出されてるみたい……行きましょう」
「はい」
チカさんを先頭に僕らは草原に足を踏み入れようとした、瞬間だった。
――課長おおおおおおおおおおおおおーーーーッ!
別の声が草原を切り裂くように響いた。同時にサササッと走る足音。
僕とチカさんの足取りも速くなった。
少々草の背丈が低くなっており、肉眼でも前方の様子が見えてきた。だが目視できた途端、僕らの足は止まった。
「課長! しっかりしてくださいよ! 課長!」
うずくまって倒れている男に必死で呼びかける、白髪交じりで中背中年の男――彼はスズミさんの叔父だ。
その前で大柄な男が背中を丸めて、うつ伏せに倒れていた。耳と首筋の肌が見えたが、白くなっており、吹き出した汗が陽の光に当たって反射していた。
精気が完全に抜け切っているようだ。
しかし、チカさんは異変に気付いていた。
「今すぐその人から離れなさい!」
呼びかけていた叔父はチカさんに目と口が硬直した顔を向ける。
「……だ、誰だよ」
「いいから、離れなさい! 向こうの森のほうに逃げて! あんたも死ぬわよ!!」
「……!」
チカさんは激しい剣幕で男に指図した。彼女の指は西側の森に向けられていた。男は震える足で一歩ずつ後ずさると、草むらの中に消えていった。
うずくまる男の周りに、僕とチカさんが残された。チカさんは男に近づくと、彼の首元に手を当てた。
「……ダメだわ。死んでる」
「そんな……」
「ちょっと調べるね。セイヤくん、見ちゃだめよ」
「は、はい」
言われたとおり、僕はチカさんに背を向けた。
僕は衝撃を隠せなかった。初めて見る人の死体。うずくまっていて顔は見えないけれど、目は見開き変わり果てた姿を晒しているのだろう。
何が原因で死んだかはわからないけど、いずれ僕もああなるんだと思うと、ぞっとした。
「あ。セイヤくん、こっち来て」
チカさんの声に僕は反応した。彼女は手招きしている。
「倒れてた男の人がやられた原因。思った通りだけど」
「え?」
目を細めてチカさんが指さす先を見る。草陰の間に黒い木箱が見え、それは開いていた。中からゲームで見た口裂け女のように、口を耳の近くにまで開けて笑う不気味な顔。そして魚の尻尾のように小さな
思わず寒気がした。
「これって人魚ですよね」
「間違いないわ。これで苦しみ出したのね」
「……」
震える声の僕をよそに、チカさんは何の警戒も見せずに草をかき分け、その人魚を箱に戻した。すぐに蓋も閉め、草原の中央にある社(やしろ)に戻し、打掛錠も掛け直した。
人魚が原因で死んだのは驚きだけれど、それ以上に驚いたのがチカさんだ。
チカさん、平気で人魚に近づいてしかも触れてたけど大丈夫なのか? まあ、見る限り特段変わったところはないようだけど……。
チカさんが僕のところに戻ってきた。
「ねえ、スズミちゃんを捜そうよ」
「あ……はい」
***
スズミさんの名前を呼びながら、彼女を捜す。草原は八百中学校のグラウンドと同じくらいの広さだから、聞こえているはず。
そして、彼女はすぐに見つかった。男が倒れていたところから五十メートルほど離れた草原で、彼女は手を地面に付き、尻餅をついていた。目が上の空を向いている。
「スズミさん! 大丈夫?」
僕はすぐに駆け寄る。
「……」
口を開けたまま、スズミさんは全く動かない。
「スズミさん!!」
僕はスズミさんの耳元で叫んだ。まるで鋼鉄のように硬かったスズミさんの身体が、ついに動いた。
「……! セ、セイヤ、くん?」
「よかった……」
僕に顔を向けたスズミさんを見て、思わず胸を撫で下ろした。
スズミさんは口をぽっかり開けたまま、僕を眺めていた。しかし、次第に彼女の顔に感情が戻ってきた。
「セイヤくん……!」
スズミさんの茶色い瞳から、何かが溢れ、頬を伝った。
突然、彼女は僕の背中に手を回し、胸に顔を押し当てて泣き出した。
「怖かった……! 怖かったよおおおっ!」
「……」
スズミさんの温もりが僕の体を包み込んだ。
僕の心臓が強く跳ねた。女の子に抱きつかれるなんて、生まれて初めてだし、今後も体験するなんて思いもしなかったから。
だけど、僕の目の前で泣きじゃくる友人を見ていると、次第に驚きは落ち着き、心に暖かいものが浮かんだ。
どうすればいいかわからないけど、僕はスズミさんの黒い髪をゆっくり撫でた。
僕らの近くにチカさんもやって来たけど、彼女の声もしなかった。ふとチカさんに瞳を動かすと、彼女は憐れむように僕とスズミさんを眺めていた。
しばらくスズミさんは僕の胸の中で泣いていた。泣き声だけが、草原に響いていた。
スズミさんが泣き終わるのにかかった時間はわからない。だけど、そこまで長くなかったと思う。
「スズミちゃん、すっきりした? 怪我はない?」
チカさんが優しく語りかける。スズミさんは涙を拭くとぎこちなく笑った。
「……なんとか」
「そう……辛かったでしょ?」
スズミさんは力なく頷く。
「何があったか、後で話してくれればいいから」
「はい……」
スズミさんはキャミソールやスカートにところどころ汚れやシワがあり、頬にガーゼが当てられてあった。
きっと叔父から受けた暴力だろう。なぜか僕の心が熱くなる。きっと僕が
そうだ、スマホを渡さないと。
「スズミさん、行く途中で落ちてたんだけど」
「あ、これ私のスマホ……ありがとう。セイヤくん……」
スズミさんは輝くような笑顔を見せた。いつ以来かぶりに見た、彼女の笑顔だ。
だが、そんな和やかな時間はすぐに終わりを告げた。
――課長、課長はどうなったんだ?
どこからか男の声。茂みの向こうから足音と共に聞こえてきた。
スズミさんは不意に僕のシャツを掴んだ。不安げな面持ちで茂みを見ていた。
時間は僕らに戸惑う暇を与えてくれなかった。
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