帰りたくない!(6)
僕とチカさんを乗せた漁船は音を立てて島に向かっていた。水しぶきが僕の顔にかかる。
でも、僕は水平線の先だけを見ていた。まだ見えないけどその向こう側に島は浮かんでいる。
僕らは神秘の島に向かっている。当然ながら無許可だ。
目の前には凛とした表情で島を見つめる女性、チカさん。夏の海風が彼女の緑がかった髪を揺らした。
つくづく彼女はすごい人だと思う。
平川の親しい漁師さんにお願いして、漁船を出してもらったのだが、案外すんなりと了解を得られた。
「チカさん……漁師さんと顔見知りだったんですね」
「まあね。研究でいろいろお世話になってるから」
漁船の操縦席から漁師さんの声がする。窓からひょっこりと口ひげを伸ばした、中年のダンディな漁師さんが顔を出す。
「チカちゃんのためなら船くらい出すよ。なんたっていつも朝早くからイカ漁を手伝ってくれたんだから。女の子なのにすごいよ」
「いっつも体鍛えてますから! あたしでよければ幾らでも手伝いますよ」
チカさんは照れくさそうに笑いながら、右袖をまくって筋肉を作って見せた。
僕は目を丸くする。
イカ釣りって……相当な力仕事だぞ……? そういえばチカさん、かなり重そうなリュックを片手で担いでたよな……。どれだけ力持ちなんだ?
しかも、イカ釣り漁は夜が明ける前からすると聞く。チカさんは普段どこに住んでるんだろう。そんな疑問をチカさんに投げかけてみると、
「漁師さんに泊めさせてもらってるの」
「え、いつもですか?」
「フィールドワークの時だけね。八百にいないときはホテルとか旅館にも泊まるけど、野宿することもあるかな」
野宿って……思ってる以上に野性的だな、チカさん……。
また漁師さんの声がする。
「でも、もうチカちゃんとは長い付き合いになるねー。もう何十年になるっけか」
漁師さんが首をかしげていると、チカさんは漁師さんの思考を中断するように口を開けた。
「あはは、結構長いですよねー」
「……だ、だよな。ははは」
何十年……あれ、チカさんって大学生だったんじゃ? この前もだいぶ昔から生きてきたようなこと言ってたっけ?
僕の脳裏に疑問が浮上する。
最近、チカさんに対する謎が何故かポンポンと生まれる。チカさんは僕らに言えない “何か” を隠している。
「あ、見えてきたぞ」
漁師さんの声に僕とチカさんは反応する。
僕たちの目の前、水平線の向こうに無人島が見えてきた。
「あそこが冠島だ」
***
ほどなくして船は冠島に到着した。
漁師さんは漁船の出口を開けた。
「ふう、いつ来てもここは身震いするぜ。何年ぶりだっけか」
うっそうとした周りを飲み込む緑色のモンスターのような森を見て、漁師さんは言った。
「最近は行くのもためらわれましたからね」
「ああ……事故のことだろ?」
「ええ」
チカさんと漁師さんの話が僕の耳に入ってきた。
「事故って、このあたりで何かあったんですか?」
「うん。半年ほど前に海難事故があったのよ」
そのニュースは僕も知っていた。二月に八百を出港した客船が冠島沖で、
地元の八百では大々的に報じられた。捜索の結果行方不明者のほとんどは発見され、その結果に安堵する人も、絶望する人もいた。
しかし全員の安否が判明したわけではなかった。これ以上捜索しても発見できないと判断されたため、今年の四月に捜索は打ち切られた。
「確か、まだ見つかっていない人もいたっけか。かわいそうだよな」
そう言って漁師さんは夏の太陽に輝く海を見つめた。
すでに八百から遠く離れ、街並みは水平線に沈んでいた。僕たち三人の耳元は漁船のモーター音とさざ波しか聞こえない。
僕はなんだかむなしく思えた。
漁師さんは気持ちを切り替えるように、タバコをふかした。
「さてと、一応ここは聖域だ。許可なしで来てるから、無茶するんじゃないぞ」
「わかってますって!」
「とりあえず俺は漁に出るから終わったらまた呼んでくれ」
漁師さんは漁船に乗り込むと、発進させた。
僕とチカさんは手を振りながら、その漁船の後ろ姿を見送った。
***
冠島。八百の沖合に浮かぶ絶海の孤島。常緑広葉樹の有史以来手つかずの森が広がっており、珍しい野鳥の生息地となっている。
僕とチカさんは獣が作り上げた草が生い茂る道を進んでいく。夜のように暗い森では、木々からわずかに差し込む日光だけが頼りだ。時折獣の鳴き声響き、草むらが揺れる。
現実世界と切り離された、不気味な異世界が広がっていた。
「ここに来るの久しぶりだわ……案内できるかわからないけど、あたしについてきて」
「はい」
僕はこくり、と息を呑んだ。
こんな島で地図アプリのような文明の利器は役に立たない。幸い電波は届くが、たまにスズミさんに連絡をかけても、一向に反応はなかった。
チカさんによれば、島は中央に小高い山がそびえ立ち、頂上に人魚を祀った祠があるという。
「たぶん叔父さんの目的は人魚の肉。きっと何かに使うのよ」
「でも、大丈夫なんですか? もし人魚があったら――」
僕は勝手に箱を開けてしまった、あの日を思い出した。この世のものでない人魚、苦しむスズミさん――
僕は拳を握る。心の底が熱くなるのを感じた。
「急ぎましょうよ。みんな危ない」
チカさんも真剣なまなざしで頷いていた。
次第に坂の勾配が急になっていく。額や首筋から汗が噴き出し、心臓の拍動がやけに耳に響く。
ぼっちかつ引きこもりの僕は運動不足がたたって、すぐに息が上がってしまう。
「ほらほら、急いで!」
「……」
僕は声すら出せない。
すでにチカさんの姿は五十メートル先にあり、森の木々に隠れていた。手を振って僕にアピールする彼女は華奢な体系に似合わず、全く息が上がっていない。
「待って……ください……よ」
「ったく、男の子らしくない……」
僕は例外ですよぉ……。
なんとかチカさんに追いつくと、彼女はスマホを動かし、耳に当てていた。
「……」
「スズミさんにかけてるんですか?」
チカさんは頷くが、
「……っ! 静かにして」
彼女は右手で僕を制止した。何事かと思い、僕はチカさんの顔を見る。
「耳を澄ませてみて。スマホの音、聞こえない?」
言われたとおり、右耳を立てて周りから音を引き寄せようとする。
ピピピ……
微かだが、高い着信音がどこからか聞こえてくる。
茂みの奥、木の裏……どこだ?
一瞬、僕の目は緑色の光を点滅させる黒い長方形の物体をとらえた。僕の足はすでに動いていた。
その物体を拾い上げて、画面を見る。
【
チカさんの名前だ。
僕はその画面をチカさんに見えるように向けた。
「これ、スズミさんのですよね」
「間違いないわね。きっとここにいたのよ」
チカさんは通話を切ると、僕のもとに歩いてきた。
確か、最後にスズミさんとSENNでやり取りしたのが二時間ほど前。今頃彼女は……。
「ここから頂上ってどれくらいかかりそうですか?」
「走って二十分くらいかな……」
すごく嫌な予感が僕の全身を駆け巡った。無性に急ぎたくなった。
スズミさん、どうか無事でいてくれ……!
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