帰りたくない!(6)

 僕とチカさんを乗せた漁船は音を立てて島に向かっていた。水しぶきが僕の顔にかかる。

 でも、僕は水平線の先だけを見ていた。まだ見えないけどその向こう側に島は浮かんでいる。


 冠島かむりじま。直径二キロほどの小さな島だが、地元では「聖域」と呼ばれ、市の許可なしに立ち入ることはできない。

 八百やお周辺では神話や伝承でよく登場する島だ。中国にあったある帝国の皇帝は、人魚の肉を求めて冠島に遣いを向かわせたという。そして、チカさんによれば比丘尼びくにも五百年ほど前にその島に立ち寄った。それ以来社が建立され人魚が祀られるようになったらしい。


 僕らは神秘の島に向かっている。当然ながら無許可だ。

 目の前には凛とした表情で島を見つめる女性、チカさん。夏の海風が彼女の緑がかった髪を揺らした。

 つくづく彼女はすごい人だと思う。

 平川の親しい漁師さんにお願いして、漁船を出してもらったのだが、案外すんなりと了解を得られた。


「チカさん……漁師さんと顔見知りだったんですね」

「まあね。研究でいろいろお世話になってるから」


 漁船の操縦席から漁師さんの声がする。窓からひょっこりと口ひげを伸ばした、中年のダンディな漁師さんが顔を出す。


「チカちゃんのためなら船くらい出すよ。なんたっていつも朝早くからイカ漁を手伝ってくれたんだから。女の子なのにすごいよ」

「いっつも体鍛えてますから! あたしでよければ幾らでも手伝いますよ」


 チカさんは照れくさそうに笑いながら、右袖をまくって筋肉を作って見せた。


 僕は目を丸くする。

 イカ釣りって……相当な力仕事だぞ……? そういえばチカさん、かなり重そうなリュックを片手で担いでたよな……。どれだけ力持ちなんだ?

 しかも、イカ釣り漁は夜が明ける前からすると聞く。チカさんは普段どこに住んでるんだろう。そんな疑問をチカさんに投げかけてみると、


「漁師さんに泊めさせてもらってるの」

「え、いつもですか?」

「フィールドワークの時だけね。八百にいないときはホテルとか旅館にも泊まるけど、野宿することもあるかな」


 野宿って……思ってる以上に野性的だな、チカさん……。

 また漁師さんの声がする。


「でも、もうチカちゃんとは長い付き合いになるねー。もう何十年になるっけか」


 漁師さんが首をかしげていると、チカさんは漁師さんの思考を中断するように口を開けた。


「あはは、結構長いですよねー」

「……だ、だよな。ははは」


 何十年……あれ、チカさんって大学生だったんじゃ? この前もだいぶ昔から生きてきたようなこと言ってたっけ?

 僕の脳裏に疑問が浮上する。

 最近、チカさんに対する謎が何故かポンポンと生まれる。チカさんは僕らに言えない “何か” を隠している。


「あ、見えてきたぞ」


 漁師さんの声に僕とチカさんは反応する。

 僕たちの目の前、水平線の向こうに無人島が見えてきた。


「あそこが冠島だ」


 ***


 ほどなくして船は冠島に到着した。

 漁師さんは漁船の出口を開けた。


「ふう、いつ来てもここは身震いするぜ。何年ぶりだっけか」


 うっそうとした周りを飲み込む緑色のモンスターのような森を見て、漁師さんは言った。


「最近は行くのもためらわれましたからね」

「ああ……事故のことだろ?」

「ええ」


 チカさんと漁師さんの話が僕の耳に入ってきた。


「事故って、このあたりで何かあったんですか?」

「うん。半年ほど前に海難事故があったのよ」


 そのニュースは僕も知っていた。二月に八百を出港した客船が冠島沖で、岩礁がんしょうにぶつかって沈没したのだ。死者、行方不明者が多数出ており、現在も遺族側と客船の運航会社側で裁判が続いていた。

 地元の八百では大々的に報じられた。捜索の結果行方不明者のほとんどは発見され、その結果に安堵する人も、絶望する人もいた。

 しかし全員の安否が判明したわけではなかった。これ以上捜索しても発見できないと判断されたため、今年の四月に捜索は打ち切られた。


「確か、まだ見つかっていない人もいたっけか。かわいそうだよな」


 そう言って漁師さんは夏の太陽に輝く海を見つめた。

 すでに八百から遠く離れ、街並みは水平線に沈んでいた。僕たち三人の耳元は漁船のモーター音とさざ波しか聞こえない。

 僕はなんだかむなしく思えた。


 漁師さんは気持ちを切り替えるように、タバコをふかした。


「さてと、一応ここは聖域だ。許可なしで来てるから、無茶するんじゃないぞ」

「わかってますって!」

「とりあえず俺は漁に出るから終わったらまた呼んでくれ」


 漁師さんは漁船に乗り込むと、発進させた。

 僕とチカさんは手を振りながら、その漁船の後ろ姿を見送った。


***


 冠島。八百の沖合に浮かぶ絶海の孤島。常緑広葉樹の有史以来手つかずの森が広がっており、珍しい野鳥の生息地となっている。

 僕とチカさんは獣が作り上げた草が生い茂る道を進んでいく。夜のように暗い森では、木々からわずかに差し込む日光だけが頼りだ。時折獣の鳴き声響き、草むらが揺れる。

 現実世界と切り離された、不気味な異世界が広がっていた。


「ここに来るの久しぶりだわ……案内できるかわからないけど、あたしについてきて」

「はい」


 僕はこくり、と息を呑んだ。


 こんな島で地図アプリのような文明の利器は役に立たない。幸い電波は届くが、たまにスズミさんに連絡をかけても、一向に反応はなかった。

 チカさんによれば、島は中央に小高い山がそびえ立ち、頂上に人魚を祀った祠があるという。


「たぶん叔父さんの目的は人魚の肉。きっと何かに使うのよ」

「でも、大丈夫なんですか? もし人魚があったら――」


 僕は勝手に箱を開けてしまった、あの日を思い出した。この世のものでない人魚、苦しむスズミさん――

 僕は拳を握る。心の底が熱くなるのを感じた。


「急ぎましょうよ。みんな危ない」


 チカさんも真剣なまなざしで頷いていた。


 次第に坂の勾配が急になっていく。額や首筋から汗が噴き出し、心臓の拍動がやけに耳に響く。

 ぼっちかつ引きこもりの僕は運動不足がたたって、すぐに息が上がってしまう。


「ほらほら、急いで!」

「……」


 僕は声すら出せない。

 すでにチカさんの姿は五十メートル先にあり、森の木々に隠れていた。手を振って僕にアピールする彼女は華奢な体系に似合わず、全く息が上がっていない。


「待って……ください……よ」

「ったく、男の子らしくない……」


 僕は例外ですよぉ……。


 なんとかチカさんに追いつくと、彼女はスマホを動かし、耳に当てていた。


「……」

「スズミさんにかけてるんですか?」


 チカさんは頷くが、


「……っ! 静かにして」


 彼女は右手で僕を制止した。何事かと思い、僕はチカさんの顔を見る。


「耳を澄ませてみて。スマホの音、聞こえない?」


 言われたとおり、右耳を立てて周りから音を引き寄せようとする。


 ピピピ……


 微かだが、高い着信音がどこからか聞こえてくる。

 茂みの奥、木の裏……どこだ? 

 一瞬、僕の目は緑色の光を点滅させる黒い長方形の物体をとらえた。僕の足はすでに動いていた。


 その物体を拾い上げて、画面を見る。


あま千夏ちか


 チカさんの名前だ。

 僕はその画面をチカさんに見えるように向けた。


「これ、スズミさんのですよね」

「間違いないわね。きっとここにいたのよ」


 チカさんは通話を切ると、僕のもとに歩いてきた。

 確か、最後にスズミさんとSENNでやり取りしたのが二時間ほど前。今頃彼女は……。


「ここから頂上ってどれくらいかかりそうですか?」

「走って二十分くらいかな……」


 すごく嫌な予感が僕の全身を駆け巡った。無性に急ぎたくなった。

 スズミさん、どうか無事でいてくれ……! 

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