帰りたくない!(5)

 モーターボートは夏の朝日にきらめく八百やおの海を進んでいく。さわやかな潮風が私の髪を軽くなびかせ、真珠のような水しぶきがかかる。

 右頬にかかった水に手を当てると、ガーゼの柔らかい綿の感触が伝わった。消毒の嫌な臭いがする。

 傷口が塞いでおらず、冷たさにヒリヒリする。

 私は今、声が出せない。背後にいる私より一回りも、二回りも大きくがっしりとした体格で、最近目撃が増えた熊のような大男が二人。彼らは勝手なことをすれば容赦はしない、と言わんばかりの顔で私を威圧していた。


 声が聞こえる。横目であいつらを見た。


風馬ふうまわかっているだろうな」

「しょ……承知しております。遠井とおい課長」

「本当にあるんだな? 人魚の肉は」

「娘が徹底的に調べあげたんです。間違いないです……!」

「まあ、中学生にしては素晴らしい研究だと思うが」

「で、でしょ……!?」


 あいつ、妙にびくびくし、上司にへこへこしている。余裕がないというけれど、それが理由で私に八つ当たりするなら、会社なんか辞めちゃえばいいのに。


 あんたらのために、調べてるんじゃない。心の中であいつらに向かって吐き捨てた。


 昨日の火祭りで、あいつに捕まってから引っ張られるように家に連行された。そしてあいつとその会社の上司から人魚について色々聞かれた。

 聞かれるだけならまだいい。こいつはまるで拷問のような方法で私に研究内容を問い詰めてきた。答えないと殴る、カッターで切りつける……。今でも頭の中でよみがえる光景。

 実際、傷はついた。頬のガーゼがそれを物語る。一瞬だけど、私の目の前で赤黒い鮮血が飛び散った。

 ……しぶしぶ私は研究を話した。


 両親がいれば、こいつの元で暮らす必要なんてなかった。私には親がいない。彼らはどこにいるかわからない。

 半年前、ふたりが旅行に出掛けたときに突然消えたのだ。だけど消えた場所はしっている。私たちが今向かっている冠島かむりじまの近くに、今も――


 私は気を紛らわすため、目を閉じて空想にふけった。

 記憶が、まるで映画のように鮮明に浮かび上がってくる。

 幼い頃は今よりもっと楽しかった。毎日食事を作ってくれたお母さん、休日に遊んでくれたお父さん――

 スマホの画像欄に幼稚園時代の私と三人で映る写真がある。だけど、もうあの日は二度と戻ってこない。


 モーターボートはほどなくして無人島に接岸した。

 出入り口に立つ私の前にそびえる、大きな森。うっそうとしていて、その森だけ吸い込まれるように暗かった。


「さあ鈴美。早く行け」


 あいつの声がして私は背中を押された。思わずバランスを崩しそうになる。

 なんとか体勢を立て直し、砂浜に着地すると、のそのそとあいつとその上司が降りてくる。


「さあ、場所を案内してくれ。鈴美すずみ

「……わかった」


 私は重い首を嫌々縦に振った。

 それを見た上司は怪訝な表情を浮かべる。あいつは慌てて上司の機嫌を取るように、私に訂正を求めた。


「わかりました、だろ?」

「……わかりました」

「よしよし」


 私たち三人は暗い森の中に足を踏み入れた。


***


 少しでも隙があれば助けを呼びたい。私はあいつらが求めるものがある場所を案内しながら、チャンスを伺っていた。

 無人島のは中央に小高い山がそびえたっている。次第に起伏も大きくなり、夏の蒸し暑さも相まって私たちの体力を奪う。

 だが、私とあいつらでは状況が違っていた。


「風馬、社はまだなのか」

「……は、はい。まだだそうですね」

「まだだと? どれだけ歩くんだ」

「それは……」


 上司の不快感が混ざった声にあいつは機嫌を取ろうと必死だ。

 私はバレーボールで体を鍛えているので、あまり体力を消耗してしないが、大人ふたりは年齢もあって息が上がっていた。


 あいつが知りたい答えを、私は知っている。だから、当然あいつの矛先は私に向けられる。


「なあ鈴美。あとどれくらいかかるんだ」

「……頂上近くだからあと三十分ほどかな」

「なんだと……」


 あいつは一瞬イラッとくるが、すぐに押さえたようだ。思わず私は胸を撫で下ろした。

 私とあいつの会話を聞いていた上司が口を開く。


「三十分か……。遠井、一度休憩を入れないか」

「そ……そうですね」


 その言葉を聞いたとき、私にチャンスが訪れた。今しか、ない……!


 休憩地点を探し、私とあいつらは小さな草原に出た。


「ここで休憩にしましょう」


 あいつは木陰に座り込む。あいつの上司もそれに倣う。

 私はさっそく行動に移した。


「お、叔父さん。私、ちょっとトイレ行ってくる」

「すぐ戻れよ」

「うん」


 私は走りながらも、ウェストポーチからスマホを取り出す。あいつらの姿が見えなくなると、すぐにスマホアプリのSENNを起動した。


スズミ[助けて]


 ふたりに向けてメッセージを送信する。

 お願い……早く、気づいて……!!


 以外にも早く返事は来た。私はすぐに異性の友人に向かってメッセージを送った。

 現在の状況をできるだけ伝える、私はそれで頭が一杯だった。


 足音は確実に近づいていた。端から見れば誰だってわかるだろう――しかし、私は気づけなかったのだ。


「鈴美、何をしてるんだ」


 恐ろしく低い声に私はゆっくり顔を向けた。


 あいつは私の目の前にいた。

 スマホが落ち、メッセージは中断され、私の心臓が止まりかけた。

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