第223話

「おい、あれ見てみろ」


 槍を持った衛兵が、同僚の脇を肘で突いた。

 皇帝選挙が近くなり帝都の人口が増えると、衛兵の巡回頻度が以前よりも上がった。治安維持のための、帝国元老院議会による決定だ。彼も、そうした衛兵の一人である。


「何だよ」


 いきなり小突かれて、同僚は機嫌の悪い声を出した。

 巡回頻度が上がっても、衛兵の数自体が増えたわけではない。従って衛兵たちの勤務時間は以前よりも長く、不定期になっていた。それで俸給が増えるはずもないから、彼が不機嫌なのは当然だった。

 もともと、帝都の衛兵の質は良いとは言えなかった。商店からみかじめ料をせしめたりと、不正に走る者も多い。それが更にやる気を失って、帝都の治安は悪化していた。昼はそれほどでもないが、夜に起こる喧嘩や傷害、強盗や殺人の類いは増える一方だ。

 そして市民がその不満をぶつける先も、彼ら衛兵だった。そうなれば彼らは更に不機嫌になって職務を怠り――と、悪循環ができあがりつつあった。それを思えば、まともに持ち場を巡回しているだけ、あるいはこの二人は真面目なほうなのかもしれない。

 彼らの今日の持ち場は、帝都南東にある丘の周辺だった。

 巨大なる帝都は、その市壁の中に、小さな森や丘さえ持っている。この丘の標高は、内陸にある山々と比べれば低いものだが、その見晴らしの良さから、帝都住民の憩いの場となっているのだ。


「あそこにすげぇ美人が……あれ?」


 午後、その丘のとある公園で、衛兵は一人の美しい町娘の姿を見た……はずだった。


「どこだよ」

「あれ? おかしいな……」


 しかしそれは、目の錯覚か何かだったようだ。衛兵は目をこすると、不思議そうに首を傾げ、歩き去っていった。

 それを、公園に生えた木の上から見下ろしている者がいる。


「…………ふぅ」


 衛兵が見たものは、町娘に変装したアルフェの姿だった。木に登ろうとした瞬間、隠していた気配が漏れてしまったようだ。

 衛兵が行ってしまったのを確認すると、彼女はどこからともなく遠眼鏡を取り出した。それを使ってアルフェが眺めはじめたのは、はるか遠くに見える、神殿騎士団の要塞内だ。


「…………」


 要塞にも防壁がある上に、地形の関係から言っても、アルフェの位置から覗けるのは敷地の一部だ。そこで彼女が探しているのは、友人の神殿騎士テオドールやマキアス、そして、例の従者クラウスの姿だった。

 騎士団本部要塞は、騎士の養成所を兼ねているそうだ。教官らしき者に叱咤されながら、広い砂地の外周をぐるぐると走っている少年たちの姿が見える。かと思えば、別の場所では木剣を持って、互いに打ち合っている青年たちの姿もあった。


 メルヴィナは教会と神殿騎士団に出入りしていた。彼女がほのめかすところによると、クラウスも同様らしい。彼らがそこでしようとしているのは、例によって結界に関わる何かのはずだ。彼らはドニエステ王に命じられて、各地の結界を調べて回っていたのだから。

 ドニエステの結界が、弱まりつつある。ドニエステ王は、それを食い止めたいと思っている。結界について一番詳しいのは、教会に決まっている。だから彼らは教会に潜入した。その辺りの論理に矛盾は無い。


 ――同じ目的のため、お師匠様の仇も、いずれは帝都にやって来る。


 かつてクラウスは、アルフェにそう言った。だから帝都には近寄るなと。


 アルフェは帝都に入る前、その理由を、皇帝選挙に巻き込まれたテオドールが心配だからと言っていた。それはきっと偽りではない。彼女は本心から、かつての友人のことが心配だった。

 だが、それを口実にして、帝都で仇が現れるのを待ちたいという気持ちが、皆無だったとは言い切れるだろうか。


「…………」


 季節は夏である。アルフェが登っている木は、緑の葉を枝一杯に茂らせている。虫も多いが、彼女が気にする様子は無い。遠眼鏡を構えたまま、アルフェは微動だにしなかった。


 ――はぁ。


 一時間以上はそうしていたが、結局、アルフェはめぼしいものを見つけられなかったようだ。肩を落として息を吐くと、彼女は遠眼鏡を下ろそうとした。


 ――……ん?


 と、そこでアルフェは、それまでとは違う何かを見た。

 柱に支えられた屋根だけあって、壁の無い回廊を、一人の青年が歩いている。その青年も神殿騎士のようだが、彼と他の騎士とは、どこか様子が違った。

 何が違うかと問われれば、答えは一つだ。その青年騎士は、他の神殿騎士とは、比較にならないほど強い。暑さの中でもほとんど汗をかいていなかったアルフェの額に、薄らと汗が滲んだ。


「パラディン……!」


 アルフェの口から、思わず声が漏れていた。

 あれはパラディンだ。第何席かは知らないが、絶対にそうだと確信できる。末席のロザリンデ・アイゼンシュタイン。第九席のエドガー・トーレス。アルフェは既に、二人のパラディンをこの目にし、実際に戦いさえしたのだから間違い無い。

 いわゆる美男子というものであろう。遠眼鏡越しでも分かる、非常に整った顔立ちの青年だ。しかしアルフェの目には、青年の周囲の空気が、威圧感で歪んでいるようにさえ見えていた。もしもあれと戦ったら、今の自分は勝てるだろうか。否応なしに、アルフェの脳はそれを考えていた。


 テオドールたちやクラウスの事を忘れ、アルフェの関心は、今や完全にその青年に注がれていた。青年はどこか弾むような足取りで、どこかを目指して歩いている。かと思えば、彼は急に立ち止まり、向きを変えた。


 ――……誰かを、呼んでいる?


 青年は大きく手を振り、遠くに見つけた誰かに向かって、声をかけているようだ。アルフェは慎重に、青年の視線が指す方向に、遠眼鏡を移動させていった。

 すると――


「え? ………………ひッ!!」


 一拍を置いて、今度アルフェの口から漏れ出たのは、紛れもない悲鳴だった。その悲鳴が、そこに映っていた者の耳に入らないよう、アルフェは咄嗟に口を押さえた。そしてそのせいで、彼女はバランスを崩し、木の下に落下してしまった。


「い、つぅ…………」


 不覚にも、受け身を取ることすら忘れてしまい、アルフェは後頭部を地面に強打した。


「……おねえさん、だいじょうぶ?」


 頭を抑え、海老のように身体をよじるアルフェを、公園に遊びに来ていた女児が見下ろしている。木の上から落ちてきた不審者に我が子が近寄らないように、近くにいた父親が、すぐさま女児を抱えて逃げ去っていった。

 それから、アルフェもすぐに痛みから立ち直ると、破損した遠眼鏡を抱え、家の方角に向けて慌てて走り出した。


 遠眼鏡の先に、彼女は何を見たのだろうか。


 それは、一人目の青年とは違う、もう一人のパラディンの姿だった。

 そしてそのパラディンは、何とあの距離から、アルフェと眼を合わせていた。もしかしたら、アルフェが気付く前からずっと、あのパラディンはアルフェの方を見ていたのかもしれない。いくらパラディンが人外の集まりでも、そのような事ができるはずがないのに。

 きっと偶然だと、家に戻りながら、アルフェは心の中で唱え続けた。

 しかし、本当に偶然だろうか。あるいは彼女ならば、ロザリンデ・アイゼンシュタインならば、それができるのかもしれない。その考えがなおのこと、アルフェを正体不明の恐怖に駆り立てていた。



「ロザリンデさん、いったい何を見ていたんですか?」


 パラディン第七席のシモン・フィールリンゲルは、己にとっての愛しい女性、パラディン第十二席のロザリンデ・アイゼンシュタインに、息を弾ませながら尋ねた。

 シモンほどの身体能力の持ち主が、この距離を走った程度で息を弾ませるはずがない。だから彼が息を切らせているのは、ただひたすらに、ロザリンデを目の当たりにした喜びで、心臓が飛び跳ねているからだ。


「…………」


 ロザリンデは少しあごを上げ、どこか虚空を見つめたまま、何も答えない。その儚げな横顔が、なおのことシモンの胸を締め付けた。

 ロザリンデがシモンを無視するのはいつものことだ。例えシモンが帝都一の美男子だとしても、ロザリンデにとって、それは全くの無意味だ。いや、むしろ有害ですらある。男であるというだけで、シモンもロザリンデにとって、害虫以下の唾棄すべき存在に過ぎなくなるのだ。


「ロザリンデさん……」


 彼女の名を呼ぶシモンの切ない声と表情は、帝都にいる一般の婦女子たちの心を奪うには十分であろう。しかしそれも、ロザリンデにとっては発情したゴブリンの鳴き声と大差ない。


「何が見えたんですか? ロザリンデさん」


 それでも、シモンはめげずに呼びかけを繰り返した。

 皇帝選挙のため、帝都外の任務から帰ってきたその日のうちに、愛しい彼女と出会うことができたのだ。運命を感じた青年の前に、怖いものなど何も無かった。


「ロザリンデさん。何が……」

「…………」

「え?」


 そして、シモンの思いが天に通じたのだろうか。ロザリンデの桃色の唇が、わずかに動いた。シモンが耳を澄ますと、熱に浮かされたように、ロザリンデが何かをつぶやいているのが聞き取れた。シモンは周囲の雑音を、全て心から取り払い、彼女の囁きに耳を傾けた。


「め、がみ……さま?」


 女神。どこか遠くを見続けるロザリンデは、確かにその単語を口にしていた。

 女神。それは神聖教会の教義には無い、神殿騎士が口にするにしては不穏な単語だ。

 だが、シモンは確信を持って頷くと、その場に片膝を突き、左手を胸に当て、右手をロザリンデの方に差し出して叫んだ。


「もしもこの世に女神がいるとしたら、ロザリンデさん、それは貴女です!」


 離れた場所には、運悪くこの場に居合わせ、このやり取りを眺めていた騎士見習いの少年たちがいる。彼らは皆、もしかしたらこれから、とてつもなく恐ろしいことが始まるのではないかと、はらはらと成り行きを見守っていた。


 シモンの叫びから三十秒ほどの間隔が開いた。

 桃灰色の髪の少女は、唐突にほっと息を吐くと、今まで見つめていた虚空から目を切り、ゆっくりと首を動かした。そして、まだそこに跪いているシモンを、これ以下は無い冷たい目で見下ろし、ただ一言だけ口にした。


「死ね」


 何事も無かったかのように、ロザリンデはその場を去って行った。遅れて、金縛りに遭っていた騎士見習いの少年たちも、そそくさと逃げ出した。


 一人取り残された美青年は、砂地にへたり込んだまま、絶望に打ちひしがれたように肩を落としていたが、やがて快感に耐えかねたような声を出し、その場で一つ身震いした。

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