第224話
「ゲートルードさん、アルフェ様は、何か有ったんでしょうか? 一昨日から、少し様子が変ですが……」
「そうかもしれません。ですが、心配は無用です」
「そうなんですか……?」
「ええ。私には分かりませんが、フロイドさんがそう言っていたので、事実でしょう」
「フロイド様が……」
アルフェが帝都の隠れ家にしている家の裏庭で喋っているのは、ゲートルードとノインである。彼女らの前には、洗い物が詰まった洗濯籠が置いてある。
ノインは、先日アルフェたちが路地裏で命を救った、暗殺者ギルドから抜け出そうとした女だ。年齢は二十代の終わり頃で、女性にしてはやや長身の身体に、少し浅黒い肌をしている。怪我が癒え、体力も回復した彼女は、質素な侍女なお仕着せを着て、家事などの雑用をこなしながら、この隠れ家の厄介になっていた。ゲートルードは執事のような格好をしているから、二人の姿は、外目からは使用人同士の何気ない会話にしか映らない。
フロイドやゲートルードが心配要らないと言うのならば、きっとそうなのだろう。心配は無用だとゲートルードに言われて、ノインは頷いた。
ノインを襲っていた追っ手を叩きのめしたフロイドの女主人であり、この家にかくまってくれたアルフェは、地方の商家の令嬢であるということだが、本当かどうかは分からない。
しかし、ノインにその辺りの事情を詮索するつもりは無い。彼らに命を救われたのは事実なのだから、その恩は返さなければならない。雑用程度で返せるはずの無い恩だが、命じられれば喜んで引き受ける。家事をこなす彼女は、そんな事を考えていた。
「“下水の住人”についても、ご安心下さい。絶対に、悪いようにはなりません」
「――え? あ、は、はい」
ゲートルードは、沈黙するノインの横顔を見て、彼女が自分の抜け出てきたギルドについて考えていると誤解したようだ。
本当ならば、ノインは第一にその事を恐れなければならない。しかし、アルフェとフロイドが何とかすると言ったことについて、なぜか彼女は、一片も疑いを抱いていなかったのだ。不思議な話である。だが、きっと問題は無いのだと、信じる以前にノインは納得していた。
ゲートルードが庭から立ち去り、ノインは洗い物を干す作業を再開した。
◇
――パラディン第七席のシモン・フィールリンゲルが、地方任務から帝都に帰還……。私が一昨日見たのは、この人のようですね……。
一方のアルフェは、今日は外に出かけることはせず、書斎に籠っていた。書斎のテーブルの上に散らかっているのは、本やゲートルードが集めて来た情報を書き留めた紙片、それから例の、帝都で発行されている新聞である。
神殿騎士団本部でパラディンを目撃した彼女は、改めて、神殿騎士団の組織や重要人物について、確認してみる気になったらしい。
現在の神殿騎士団の頂点にいるのは、総長のカール・リンデンブルムである。年齢は三十代後半と、歴代総長に比べると明らかに若い。リンデンブルムは、過去にも何名かの騎士団総長を輩出した名門である。その家柄が彼の出世を後押ししたのは間違い無いが、カール本人の才覚も、十分に優れたものであるようだ。
パラディンを殺し、結界と大聖堂の秘密を知ったアルフェに刺客を送ったのは、この総長カールの命令だろうか。刺客の襲撃は、今は止んでいる。外出する時には、アルフェは普段から髪を染めて変装するようにしたし、そもそもブラーチェの街で怪物に呑み込まれて死んだように見せかけたのが、功を奏したのかもしれない。
総長の下に、二人の軍団長がいる。第一軍団長のヴォルクス・ヴァイスハイトと、第二軍団長のアレクサンドル・ゴッドバルト。二人はそれぞれ、パラディン筆頭と次席でもあるそうだ。
――ヴォルクス・ヴァイスハイト……。
あのパラディンたちを束ねる男というのは、いったいどんな人間なのだろう。組織の長である騎士団総長よりも、アルフェの興味は、むしろそちらの方にあった。
ヴォルクス・ヴァイスハイトの年齢もカールと同じ。二人は同期なのだと、ゲートルードは情報に注釈を付けている。ちなみに、第二軍団長のアレクサンドルは五十歳で、二人よりもかなり歳を取っている。かつてはこのアレクサンドルがパラディン筆頭だったが、いつしかヴォルクスに取って代わられたのだという。
「…………」
一昨日、アルフェは騎士団本部を偵察し、そこで二人のパラディンの姿を見た。青年のほうは、第七席のシモン・フィールリンゲル。帝都で指折りの美青年としても、その名と顔を知られているらしい。
そしてもう一人は、唯一の女パラディンである、末席のロザリンデ・アイゼンシュタインだ。
――やっぱり、あの距離から私は見えなかった。見えない……はず。多分。
遠眼鏡越しに騎士団本部を観察していたアルフェは、ロザリンデと眼が合ったと感じ、不覚にも木から落下した。
しかしそんなはずは無い。目の良さには自信のあるアルフェが、ゲートルードが遺跡探索時に用いる最新式の遠眼鏡を使って初めて、どうにか表情が確認できる距離にいたのだ。しかもアルフェは、木の葉の陰に紛れていた。あの後、アルフェは念のために、肉眼で別方向から自分がいた丘の上を眺めてみた。だが、何か道具を使わないと、とても丘の上にいる人間の姿は見えないという事が確認できた。だから、ロザリンデと眼が合ったのは偶然だ。そうに違いない。
アルフェは以前よりも強くなった。シモンもロザリンデも、自分よりはまだ実力が上だと感じるが、決して届かない存在だとは思わない。しかしロザリンデに対しては、アルフェはそういったものとは別種の、身の危険のようなものを感じてしまう。
彼女に一度、あの闘技場で敗北しことが、忘れられない恐怖として身体にすり込まれてしまったのだろうか。だとすれば情けない話である。ふるふると、背中に感じた寒気を振り払うように、アルフェは首を振った。
「第三席のランディ・バックレイと、第六席のケルドーン・グレイラントも帝都に……」
つとめて気を紛らわすために、アルフェは他のパラディンの情報についても確認した。やむを得ぬ任務で現地を離れられない者以外、パラディンたちは続々と帝都に戻ってきているようだ。皇帝選挙が神殿騎士団にとっても一大事であるのが、そのことからだけでも分かる。
「――ん。どうぞ、開いています」
ノックの音がして、アルフェは思考を中断して顔を上げた。入ってきたのはフロイドだ。
フロイドは部屋に立ち入ってアルフェを見るなり、眉を潜めて険悪な表情をした。
「なんて格好だ」
その時のアルフェは、椅子の上に膝立ちになり、テーブルに両手を突いて書類を眺めていた。言われるとおり、ちょっと行儀が悪過ぎたかもしれない。
「ちょっと薄着過ぎるんじゃないか」
姿勢を整えるアルフェに対し、フロイドは彼女自身が考えたのとは別の部分に苦言を呈した。上着は薄手のシャツ一枚だけで――、とにかく、部屋着と言い訳するにしても、アルフェは確かにだらしない格好をしていた。
「暑いからです。仕方有りません」
「仕方無いことは無い。窓を開ければいい」
「そうすると、風で書類が散るんです」
「カーテンも閉め切っているから、薄暗いし。目を悪くする」
「……最近、ますます小言っぽくなってませんか?」
「誰のお陰でしょうね?」
そう言いながら、フロイドはアルフェの許可を取らずにカーテンを開け、窓を開けた。空気の籠っていた部屋に、外気が流れ込んでくる。飛びそうになった紙を、アルフェは慌てておさえた。
「その姿勢もどうかと思う」
テーブルの上で四つん這いになったアルフェを、真横に来たフロイドが見下ろした。
「何の用ですか?」
「実はロザリンデ・アイゼンシュタインが、この家を訪ねて……。嘘だ、冗談だ。流石に今のは洒落になってなかった。調子に乗った。申し訳有りません」
アルフェはフロイドには、自分が騎士団本部で見たものについて教えてある。それを悪い冗談に使われて、アルフェはふくれっ面をした。主人が本当にへそを曲げかねないと悟ったのか、フロイドは慌てて、ここに来た本当の理由を喋った。
「実際、俺が来たのはそいつと無関係じゃないんだが……。――今度は本当だ。これを見て欲しい」
疑わしげな視線を向けるアルフェにフロイドが手渡したのは、またしても新聞だった。新しい。日付に寄れば、まさに本日販売されたばかりのものだ。
「右下だ。ぜひ貴女の感想を聞いてみたい」
フロイドの言葉に従って、アルフェは紙の上で視線を動かす。わざわざそのために来るほど、興味深い記事が載っていたというのだろうか。紙面には、こんな文字が躍っている。
――特報、この度、栄光ある神殿騎士団パラディンのシモン・フィールリンゲル卿が、同じく神殿騎士団に属するディートリヒ・アイゼンシュタイン卿の御息女と婚約したことを発表した。アイゼンシュタイン卿の御息女であるロザリンデ嬢は、女性の身でありながらパラディンの一人として――
あのロザリンデ・アイゼンシュタインが、同僚の騎士と婚約した。
「とても良いお話じゃないですか!」
記事を読み終わったアルフェは、明るい顔で、心の底からの感想を述べた。
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