第206話

 アルフェが川の魔物に足止めを食らい、都市ブラーチェに滞在してから三日目の朝、それは現れた。

 町の者でまず気が付いたのは、堤防に築かれた監視塔に詰めていた衛兵だった。


「来た、来たぞ! 例の奴だ!」


 水鳥が一斉に飛び立ち、川霧の中に、巨大な影が垣間見えた。水面すれすれを、細長い影が身をくねらせて泳いでいる。町中に、非常事態を告げる鐘の音が響いた。

 都市の参事会は、魔物が現れた際の対処について、帝都の元老院から命令を受けていた。即ち、魔物をこれ以上、下流へと進ませてはならないと。つまり、帝都の盾となって魔物を止めろというのが指示の中身だ。


「持ち場につけ! 矢を忘れるな!」


 都市ブラーチェには、魔物に対する備えが無かった。そもそもここは結界の内側であり、そんな事を考える必要が無かったからだ。市民の中にも、今まで魔物を見た事すら無いという者は多い。

 それでも、元老院からの命令は命令だった。衛兵は港や堤防に配置され、長弓やクロスボウで武装している。急ごしらえではあるが、大型の船舶に大きな網を取り付けて、魔物を拘束する用意もしてあった。

 帝都は防衛を命じるだけでなく、援軍も寄越すと言っていた。それまでは、都市の戦力でなんとかなる。もしくは、都市の戦力だけで魔物を討ち取る事すら可能かもしれない。参事会がそう考えたのは、やはりこの町が、魔物に慣れていなかったからだ。何しろ、以前に魔物が出現したのは、町の長老が子供の時の話で、しかもワイバーンの幼体が上空を通り過ぎただけだったのだから、仕方無いというものではあるが。

 だが今回の魔物は、結界内に入り込む際、都市ポロンの頑丈な水門を破って来たのだ。小物で有るはずが無かったと、町の人間が気付いたのは、川霧が晴れ、魔物の姿が見えてからだ。


「どこ? 魔物ってどこに見える?」

「あれじゃ無いか? いや、あれは流木か?」


 警報の鐘が鳴った際は、市民は屋内に閉じこもらなければならない。そのはずなのだが、物見高い連中が何人も屋根に上って、手をかざして魔物の姿を探している。彼らは、この事態を見世物か何かと勘違いしているようだ。


「きっとあれだよ! ほら、あれ。何か黒いのが、堤防の、近く、に…………」


 彼らの暢気そうな顔も、川から頭を出したそれを見て、一斉に引きつった。


「な、何だよ、あれ」


 その魔物は、無数に牙の生えた細長い口と、人間で言う手足の位置に生えた、四つのヒレを持っていた。ウロコのような、イボのようなものに全身が覆われており、尻尾は胴体よりも長い。全長はどれくらいかというと、口が中型船を一呑みにできそうなぐらいだと言えば、想像が付くだろうか。

 北方大陸に棲むと噂される、鰐という生物を途方も無く巨大化し、醜悪にしたような姿。邪竜の一種だと言われても、そこで見ていた者たちは信じただろう。少なくとも、並の手段でどうにかなる相手ではないと、恐らく全員が悟った。


「放て!」


 しかし、堤防に並べられた弓隊は、隊長が発したその号令に従い矢を放った。放って置けば、あるいはその魔物は、町から離れてどこかに行ったかもしれないのに。

 ばらばらと矢が飛んだ。敵の図体が大きすぎるので、狙いを付ける必要も無く、ほとんどの矢が相手に命中した。


「う……」

「そ、そんな……」


 したのだが、全て魔物の皮膚にはじかれてしまった。

 魔物はそれで、川縁に沢山の小さな生き物が居ることに気が付いた。魔物が首を上げると、川面に大きな波が生じた。

 縦に割れた緑色の瞳が、堤防の弓隊や、港の船を順番に見た。

 そこに、ようやく堤防の見張り台に到着した魔術士が、火球の呪文を唱えた。人の頭部ほどの大きさの火球が、立て続けに二つ、首を挙げた魔物の側頭部付近に飛んでいく。その魔術も的を外すことなく命中し、魔物の表面で爆発した。

 それでさえ、魔物は何の痛痒も感じていないようだ。


「……退却だ」


 弓隊の隊長がつぶやく。がばりと、魔物は大きな口を開いた。


「退避!! 退避しろ――!!」


 弓隊の隊長が叫ぶ前に、兵の半分は駆け出していた。残りの半分も、退避命令を聞いてようやく我に返り、武器を捨てて走り出した。


「うわあああああ!!」


 彼らがいる堤防に向かって、魔物は口の先から突っ込んだ。津波のように水が弾け、石と土で固められた堤防が、魔物の口にえぐられた。それだけで、十数人くらいは命を落としてしまっただろうか。

 その魔物は、川縁にいる生物たちを敵と認識した。堤防に大きなあごを叩き付け、上に残っていた人間たちをはたき落とすと、彼は今度は、自身の背後に回り込むように移動している大型船に目を付けた。

 耳をつんざく咆吼が響き、その直後に木材が粉砕される轟音が響いた。二隻あった大型船の内一隻が、船体を真っ二つに折られ、木屑をまき散らして沈んでいく。


 それは、結界の外でも滅多に見られない、前代未聞の強力な魔獣だった。



「どうする、アルフェ」


 フロイドの声は緊迫している。ゲートルードも、目を見開いて眼下の光景に言葉を奪われていた。

 アルフェたちは三階建ての宿の窓から、川に出現し、暴虐を尽くす魔獣の様子を眺めている。今、魔獣によって二隻目の船が木っ端微塵になったのを目撃し、アルフェはぎっと奥歯を噛みしめた。


 正直、侮っていた。


 まだ遭遇もしないうちから、精々己の力でなんとかなる相手だろうと、敵の力を低く見積もっていた。大抵の相手には勝てるようになったからと、知らず知らずのうちに慢心していた。

 しかしあれは、そんな浮かれた気分でどうにかなる魔獣ではない。アルフェがこれまで戦ってきた魔獣の中にも、あれほどの怪物は居なかった。新しく購入した魔物図鑑の中にも、どこにも書かれていなかった。


「戦います」


 それでも、アルフェは即座にきっぱりと答えた。凜とした彼女の横顔を見て、男たちは息を呑み、それから頷いた。


「斬り甲斐のありそうな相手だ」

「私は魔術で支援します。あれに、私の技量が通じるかは分かりませんが」


 フロイドとゲートルードがそれぞれに言った。だが、アルフェは首を横に振った。


「私独りでやります。手出しは不要です」

「な……! いくら何でも、それは」


 いかに強い相手との戦いを求めるといっても、それは無謀というものだ。フロイドは主を諫めようとした。


「二人は、彼らをお願いします」

「彼ら?」


 フロイドは窓の外に顔を向けた。そこには港に暴れ込んだ魔獣が居て、他にフロイドたちの相手になりそうなものは存在しない。


 ――いや。


 違う、そうではないとフロイドは思った。港や堤防の上には、逃げ惑っている衛兵や市民がいる。川面にも、船の破片にしがみついている生存者がいる。

 彼はもう一度、アルフェに目を向けた。


「頼みます、フロイド」


 アルフェの目は澄んでいる。明確な言葉にはしていないが、彼女はフロイドに、あの人々を助けろと言っている。


 ――そうか。


 こんな時だというのに、なぜかフロイドの顔には笑みが浮かんだ。


「お任せ下さい! 行くぞゲートルード!」


 胸に手を当て返事をし、ゲートルードを引き連れて、彼は宿の階段を走り下りていった。

 アルフェは部屋に、一人残った。港で暴れ狂う魔獣は、停泊している船や倉庫をなぎ倒し、怒りを発散しているように見えた。結界の中に入り込んだせいで、あの魔獣はずっと、地下の巨獣の威圧感を浴びて、怯えていたのだろう。

 アルフェは編み込んでいた髪を解き、令嬢風の服をかなぐり捨てると、素早く防具を身に着けた。

 グリーブを履き、ブレーサーを身に着けたところで、彼女は少し動きを止めた。


 ――……私は一体、何をしたいの?


 ただでさえ、師の仇を討つ最中に寄り道をしている。そして今、更にそこから寄り道をしようとしている。鍛錬のために強い敵と戦うと言っても限度がある。ならばどうして、自分はこんな風に。


 ――教えてやろう。それは、偽善と言うのだ。そうやって、お前はあの親子も助けられなかった。空しいことではないか。誰かを殺すくせに、誰かを助けようとする。お前のしようとしている事は、そもそも矛盾だらけなのだ。


「――ふん」


 あの幻術士が囁いた気がしたが、アルフェはそれを鼻で笑い飛ばした。彼女はブレーサーをしっかりと手にはめると、拳を握りしめた。

 今のアルフェには、幻術士の囁きよりも、ずっとはっきりとした声が聞こえるからだ。

 それで良い、難しいことは考えるなと、己の心の中に居る大切な人が、満足そうな笑顔で頷いている。あの雑魚に俺たちの技を見せてやれと、腹の底からの大声で、アルフェをたきつけている。


「……はい」


 それで良い。それだけで良い。


 あの人が喜んでくれるなら、それで良いのだ。


 誰かを助けたいと思ったら、その声に従えばそれで良いのだ。


「はい、お師匠様!!」


 アルフェは息を吸い込み覚悟を決めると、はめ殺しの窓を思い切り蹴破って、屋根の上に跳び乗った。

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