第207話

 大きい。

 屋根の上から見ると、魔獣の大きさがさらに良く分かる。怒り狂った魔獣は、その口や尾を叩き付けて、目に付いたものを手当たり次第に破壊している。

 まずは冷静に、アルフェは魔獣の動きを見、人の流れを観察した。


 衛兵をはじめ、港に居る人間たちは、必死にそこから逃げようとしている。堤防の上に居る人々も同じだ。魔獣は今の所、彼らを追おうとはしていない。とにかく、船や建造物を破壊するのに夢中になっている。

 港地区以外の市街に住む人々は、避難するべきかどうかを迷っているようだ。他の建物の屋根の上には、アルフェ以外にも大勢の野次馬がいるが、彼らは呆然と、破壊の様子を見守っている。窓を吹き飛ばして壁を上ってきた少女にも、気付いた者はほぼ居ない。


 アルフェは少し助走を付けると、屋根の上を跳び伝い、港を目指した。


「うわあッ!」

「な、何!?」


 最短距離だ。多少野次馬を驚かせたとしても、最短距離で敵に向かう。謎の少女の出現に、何人かが気付き始めた。あれは何だと、屋根の上を指さしている者も居る。

 一際大きい魔獣の咆吼が響くと、市民は一斉に耳を塞いでうずくまった。彼らが目を開けると、少女の姿は、既にはるか前方にあった。

 表に出ている人々の全てが、魔獣、もしくはアルフェに注目していた。どうしようも無く目立っている。明日にはきっと都市中の噂になる。だがしかし、それを考えるのは後にしよう。開き直ったアルフェは、むしろ不敵に微笑んでいた。


 港に近付くと、伝う建物が無くなった。アルフェは今立っている建物の屋根の端に立って、足を止めた。

 魔獣は今も暴れ続けている。港には、瓦礫に足を取られたり、腰を抜かしたりして逃げ損ねた人も多い。早くしなければ、もっと犠牲は増えるだろう。だが、大型船よりも巨大な魔獣と、一体どうやって戦うべきか。


「…………」


 アルフェは破壊され、傾いている船のマストに視線をやった。

 距離はあるが、体重操作と瞬発力の強化を組み合わせれば、あれを踏み台にして魔獣の頭に取り付ける。

 そして取り付いたら、後はどうするか。でこぼこした魔獣の皮膚は見るからに硬く、分厚そうだ。小柄なアルフェの腕を目一杯突き入れたとしても、肉や内臓に届かせるのは難しいかもしれない。

 ならば、硬い相手に対する常套手段として、目を狙うか。それは有効かもしれないが、それでは命を奪えない。例え盲目にする事が出来たとしても、魔獣はそのまま、この都市が更地になるまで暴れ続けるだけではないか。


「――ふ」


 アルフェは笑った。そういう懊悩は後回しにしようと、さっき決意したばかりではないか。

 敵に取り付いて、取り付いた後の事は、後で考えればいい。


「私は、武神流総師範コンラッドの、一番弟子です」


 建物の反対側の端まで引き下がりつつ、アルフェは自分にしか聞こえない声でつぶやいた。


「お師匠様の技は、無敵です」


 集気法で、周囲のマナを取り込めるだけ取り込んだ。硬体術で最大限に防御を高め、屋根に両手を突いて、腰を高く上げた。


「あんな雑魚ごときに、“私たち”は負けません」


 そして、きっと魔獣を見据えたアルフェは、魔力を放出し、己の身体を全力で加速させた。



 魔獣の暴れている地点ではなく、少し離れた建物から爆発音がした。

 それに気付いた市民は、反射的にそちらを見た。

 背の高い石造りの住居の屋根が、半分ほど、最上階ごと吹き飛んでいる。飛散した瓦礫が、他の建物の屋根や通りに降り注いだ。


 一体、何が起こったのか。その時、港の中を魔獣から逃げ惑っていた船員の一人は、空を覆うような魔獣の巨体の上に、何かが飛んでいるのを見た。

 鳥ではなく、魔物でもない。それは、紛れもなく人間だった。

 細い身体と長い髪、あれは少女なのだと、船員は理解した。

 しかし、どうして少女が空を飛ぶのだろう。彼が場違いな事を考えたところで、少女の姿は魔獣の陰に隠れた。


 魔獣の動きが変わったと、遠くから見ていた人々全員が思ったのは、港の船員が見失った少女が、魔獣の頭に跳び乗ったからだ。

 魔獣は自分の頭の上に何か違和感がある事に気が付き、暴れるのをぴたりと止めた。首を高く持ち上げて、魔獣は左右を見回している。

 少女は魔獣の頭頂で仁王立ちしている。船を飲み込む魔獣の巨体と比較して、少女の姿は余りにもちっぽけだ。それなのに、やけに自信に溢れているように見えるのは何故なのか。魔獣がゆっくりと首を回すたび、彼女の灰色の髪が風になびいた。

 しばらくすると、少女は少し膝を折り、左手を魔獣の表面に添えて、右手をぐっと持ち上げた。視力の良い者には、彼女の右手が拳の形に握られているのが見えた。


「えっ?」

「うわっ」

「何?」


 その時に声を出したのは、都市の中でも、多少は魔術に通じた人々だった。

 なぎ倒された監視塔から川に落とされ、浮かんでいる樽にしがみついていた魔術士。自身の住居の窓から、家族と一緒に魔獣の様子をおののき眺めていた魔術用品店の店主。それ以外にも、生まれつき魔力を見る素養のある人間が、我知らず声を上げた。

 彼らの目には、ずくん、と、少女を中心に空気が渦を巻いたように感じられたのだ。それは、アルフェの身体、アルフェの拳に蓄えられた膨大な魔力が、大気のマナに作用して、まるで空間を歪めたかのように映ったためである。

 恐るべき魔力の高まりがもたらした異様な気配は、都市の野次馬たち全てを黙らせた。母親の胸で泣いていた赤子すら、泣くのを忘れて、少女の姿に見入っている。


 静かだった。


 ――くたばれ!


 そして、少女の小さな唇が、そんな乱暴な言葉を紡いだように見えた。


 音も無く、拳が振り下ろされる。魔獣の頭にそれが命中した瞬間、まるで都市の時が静止したかのようになった。



 まずは人々の網膜に、映像が届いた。

 高く上がっていた魔獣の頭は、少女の拳に叩き付けられ、一瞬で地面にへばりついた。魔獣のあごを中心に、港の石畳に蜘蛛の巣のような地割れが発生した。

 次に、音と衝撃が届いた。

 港に近い建物の窓ガラスは一斉に割れ、それより離れた場所でも、人々は互いにかばい合いながら身を伏せた。


「うわああああああ!!」

「きゃああああ!!」


 何が何だか分からないという悲鳴が、都市のあちこちから巻き起こったのはその後だ。


「アルフェ!」


 アルフェが魔獣に対し、初っ端に渾身の一撃を見舞ったところで、フロイドが港に走り込んできた。


「負傷者を!」


 アルフェは大声で叫んだ。今の一撃は魔獣に確実な損傷を与えたが、まだ死には程遠い。アルフェの足の下にある魔獣の頭が、既に動き始めている事からも分かる。

 だが、フロイドには加勢してもらうよりも、犠牲者を減らすために、そして自分が思い切り戦えるように、怪我人を運び出してもらった方が有り難い。決して足手まといだとか、お前の協力は不要だと思っているのではないのだと、アルフェは弁明したかったが、その暇は無かった。


「分かっている! ゲートルードは怪我人の治癒に当たる!」


 フロイドは立ち止まらず、瓦礫となった倉庫の方に走り去った。

 少し微笑み、その背中を見送ったのは僅かな時間で、アルフェは表情を引き締めて、足元の深緑色の身体を見た。きっともう、フロイドを始め、周りの人間を巻き込むかどうかを考える余裕は無い。

 現在のアルフェに可能な限りの、完璧な一撃をお見舞いした。それでもこの魔獣は、まだ生命力に溢れている。周辺の情報に気を配る力さえ、これから始まる戦いの中では邪魔なのだ。


「はああああああああ!!」


 一撃目は動きを止めるため、衝撃力を重視して撃ち込んだ。次は、脳に直接揺さぶりをかけていく。アルフェは気合いを溜めると、魔力を乗せた双掌打を敵の頭頂に放った。持ち上がりかけていた魔獣の頭が、再び地面に縫い止められた。そして彼女はその攻撃を、何度も何度も繰り返す。周囲の石畳は最早粉々に砕け、砂利と変わらなくなっていた。

 魔力の大盤振る舞いだ。こんな戦い方をしたら、きっと十分もかからず動けなくなる。それでも、アルフェは短期決戦を狙っていた。この魔獣に今の自分が勝つとしたら、それしか方法は無いのだと。


 この魔獣は、どこからやって来たのだろう。元々この魔獣は、レニ川をさかのぼったはるか上流の、大山脈に生息していた魔獣の一体だ。人が足を踏み入れる事すら適わない大山脈。そこには、伝説に謳われた魔物が数多く実在している。

 かつて彼女の師が戦った多頭の龍には劣っても、この鰐のような魔獣は紛れもなく、一つの都市を軽々と滅ぼす力を持っていた。

 一度人間を敵と認識してしまった以上、ここでこの魔獣を逃すことは、将来、大きな悲劇を生み出す事を意味している。


 アルフェはそれを理解していたのだろうか。だが、どうあっても自分がこの魔獣を倒しきる。現在の彼女の思考は、それで染められていた。時間を稼ぐとか、打ち払うとかいう事を考えて、どうにかなる相手では無いからだ。

 アルフェは一撃一撃に、魔力の他に、魔獣に対するありったけの殺意を込めて放った。


「ぐぅッ――!? ――あっ」


 しかし、彼女の攻撃の威力は、繰り返すたびに段々と衰えていった。反対に、魔獣はそれに慣れてきたようだ。魔獣は勢いよく首をもたげると、アルフェを頭上に跳ね飛ばした。

 ポーンと、まるで放り投げられた鞠のように、少女の身体は都市の鐘楼よりも高く上がった。

 息を呑んで戦いを見つめていた市民たちは、回転しながら落下し始めた少女を見て、両手で己の口や目を覆った。あの高さから落下した人間がどうなるのか、そんな事は考えずとも自明だったからだ。

 それどころか、魔獣は少女を地面に落下死させて、それで良しとは考えなかったようだ。大きな口を空に向けて、魔獣は少女の身体をかみ砕こうとした。


「な、め、るなあッ!!」


 空で叫んだアルフェの声が、都市全体に響いた。きりもみしながらも、彼女は魔獣が口を閉じる瞬間、相手の上顎を、グリーブを履いたかかとで蹴り飛ばしたのだ。

 不安定な体勢で放ったその蹴りは、魔獣に有効な損傷を与える事は出来なかった。しかし、アルフェは敵に噛みちぎられる事だけは回避した。落下の軌道が蹴りの反動で斜めになり、彼女は生き残っていた倉庫の煉瓦壁に激突した。


「ぐううううう!」


 まるで獣のようなうなりを上げて、アルフェは即座に立ち上がった。身体の痛みは忘れる事が出来る。どこかが折れていたとしても、戦っている内に治せる。魔獣の口が太陽を遮り、彼女の上に影を作った。下顎で、アルフェを倉庫ごと押しつぶそうとした魔獣の攻撃を、彼女は両手を上げて受け止めた。


「ぐ、ぎいいいいいい!!」


 奥歯が粉砕しそうな勢いで、アルフェは歯を食いしばって魔獣の重量に耐えた。それは、貨物を満載した大型商船を持ち上げるに等しい行為である。避けようと思えば攻撃を避けられたはずの彼女が、こんな無謀をしたのは何故か。


「ひいい!」


 倉庫に隠れていた船員が、アルフェの側で腰を抜かしている。他にも、その場には何人か人の気配があった。


「ぬうううううう!!」


 逃げろと言う余力もない。少しでも気を抜けば押しつぶされる。魔力を全開に放出して、アルフェは耐えるしかなかった。

 しかし、駄目だった。このままでは魔力が保たなくなる。他の多くの人間を助けようと思うなら、この命は見捨てるしかない。魔獣から手を離して、その瞬間に自分だけ横に跳ぶ。アルフェが割り切ろうとした時、フロイドがやって来た。


「馬鹿野郎!!」


 フロイドは素早く船員を担ぎ上げ、他にも倉庫内に隠れていた人間を叱咤し、外へと導いた。アルフェは彼らに目を向けることも出来なかったが、それでも、彼女の手にはさっきよりも力が戻り、瞳にも光が宿った。


「うあああああああああッ!!」


 戦いの中ですら成長する彼女は、腹の底から叫ぶと、かつて無い力で魔獣を横倒しにした。

 しかしそれは、ただ横倒しにしただけであり、何かの攻撃になったという訳では無い。魔獣はゆっくりと体勢を立て直し、引き換えに、アルフェは魔力のかなりの部分を浪費してしまった。


「――――!!」


 一瞬、朦朧としたアルフェに隙が出来た。アルフェが我に返った時、既に魔獣の刺々しい形をした尾は、彼女の身体の真横にあった。

 幾つかの建造物を破壊しながら振り抜かれた尾撃を受けて、人間としての原型を保っていること自体が奇跡に近い。アルフェは五体満足だったが、それでも、彼女の身体は放物線を描いて真横に大きく飛び、大河の中に落ちて沈んだ。

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