ハサミと染髪剤

第191話

 最近、帝都の様子が騒がしい。

 ステラがそう思い始めたのは、春になる前に起きた地震あたりからだったろうか。


 ステラ・サンドライトは、一人で家の中にいた。彼女の兄のマキアスは、騎士団の任務で帝都の外に出かけている。帰りはいつになるか分からないと、マキアスは言っていた。

 ステラの兄が仕事で家を空けるのはいつもの事だ。ただ、今回は少しいつもと様子が違った。


 ――詳しい事は教えてやれないけど、この任務は、絶対にあいつのためになるんだ。


 アルフェという名の、失踪してしまった兄妹共通の友人のために、どうしても帝都を離れる必要がある。本当なら、アルフェがこの件に関わっている事すら口外できないのだが、ステラに何も教えずに出て行く事は出来なかった。マキアスは、そんな風に言っていた。


「お兄ちゃん……」


 アルフェのためにと口にする兄は、彼女に対して明らかに特別な感情を抱いていた。

 二人きりの家族である兄が、自分以外の誰かに向けた、そういう強い想いを持った事に、ステラは妬いていない訳ではない。しかし、これは兄にとって喜ばしい事だ。その感情が恋と呼べるものならば、妹として応援したい。ステラはそう考えていた。

 しかしそうは言っても、兄の任務の内容がどんなものなのか。その任務は危険ではないのか。ステラには、心配する事が沢山有る。

 たまに彼女が兄の事をつぶやくのは、その心配がつい声になってしまうからだ。


「よし」


 それでも生きている以上、時間は普通に流れている。日々の暮らしの細々とした事も、ステラは考えなければならない。

 まずは洗濯をして、それから市場に行って今日の夜と明日の朝に食べる食材を調達しなければ。小さなかけ声をかけた彼女の頭は、もう既に家事に切り替わっていた。


「皇帝が選ばれるとどうなるんだ? 出店税が安くなるのかな?」

「あたしは、今さら王様なんて要らないと思うんだけど」

「王様じゃなくって皇帝だよ。俺たちが要るとか要らないとか言える人じゃないだろ。なんてったって皇帝なんだから」

「そもそもさ、皇帝って何する人なの? 元老院の貴族様たちじゃだめなわけ?」


 洗濯を終えたステラが食材の買い出しに向かうと、途中、パン屋の店先で、店主の男と常連の主婦が話をしていた。

 ステラが最近、帝都が騒がしいと感じる理由の大半がこれだ。治癒院でも町の通りでも、右を向いても左を向いても、どこに居ても「皇帝選挙」に関する噂が聞こえてくる。

 たまに、今こそ皇帝を選ぶ時だと高らかに宣言している人も居たが、大半の帝都民はこうやって、良く理解出来ないという風に議論をしている。


「やっぱり、皇帝なんて要らないよ。総主教様だっていらっしゃるんだから、それで良いじゃないか。あたしはそう思うね。――おや、ステラちゃんじゃないか」

「ああ、ステラちゃん。こんにちは。パンが入り用かい?」


 主婦がステラの姿に気付くと、パン屋の主人も笑顔でステラに声をかけた。ステラは彼らに挨拶を返して、パンを一本頼む。


「これだけで良いのかい? いつもより少ないけど。お兄ちゃんはこれだけじゃ足りないだろ」

「いえ、兄がまた留守にしてるので、私の分だけでいいんです」


 ステラは大人ぶった話し方をしたが、パン屋の主人は、ステラがマキアスの後ろを、お兄ちゃんお兄ちゃんと呼びながら付いて歩いていた頃から知っている。主人はちょっと笑って、注文された品を棚から出してきた。


「マキアスはまた任務か。騎士が忙しいのは分かるけど、ステラちゃんに心配かけたらいけないなあ」

「そうそう。神殿騎士だって、ずっと帝都で働いている人も居るんだろ?」


 そう言うパン屋の店主も、店主の言葉に同意した主婦も、目の前のステラが一年以上も家出した時には、近所と一緒になって大騒ぎをしていた。しかし、まるでそんな事は忘れてしまったかのように、彼らはステラの肩を持った。

 主婦は大きな声で店主に言った。


「そうか、マキアスちゃんも所帯を持てばいいんだよ。お嫁さんがいれば、騎士団の偉い人だって無理は言わないんじゃない? もういい年じゃないか、マキアスちゃんも」

「え、ええっ?」

「なるほどなあ。子持ちだったりしたら、きっと帝都で働けるよな。でも、騎士団は男ばっかりだろうし、出会いが無いんじゃないか? 奥さんは良い人知らないかい」

「ちょ、ちょっとおじさんったら。兄はまだ――」

「あたしの近所に、丁度いい感じの娘さんがいてさあ。あ、それで言ったらステラちゃんのお相手も――」


 店主と主婦に挟まれながら、彼らの世間話の良いダシにされて、数十分後にステラはようやく解放された。

 ステラたちの家は、一応は貴族の端くれに属するはずなのだが、近所に住む人々にとってはこんな扱いだ。ステラとマキアスも、彼らが平民だからと、特に分け隔てをして付き合った記憶は無い。ステラたちの両親の時代から、サンドライトの家はそんな感じだった。

 パン屋と主婦の攻撃からほうほうの体で逃げ出して、ステラは市場にやってきた。そこでも彼女の知り合いが、あちこちで気安く声をかけてくる。彼らの一人一人と言葉を交わしながら、ステラは必要なものを買い集めた。


「あれ?」


 夕暮れ時になり、ステラがようやく家に戻ってくると、玄関の扉の前に、誰かが立っていた。その人影は、ステラの家の中の様子をうかがうように、二階の窓を見上げている。


 ――誰?


 ステラに、あんな知り合いは居なかった。近所の人間でもない。彼女は荷物を抱えたままで眉を寄せて、遠くからその人影を見つめた。

 人影は、途方に暮れたように左右を見回し始めた。すると、ステラの視線と、その人影の目線が合った。


 ――……え?


 その男は、ステラの方に向かって歩いてきた。

 ステラは思い出した。そう言えば最近、皇帝選挙に関する噂の影に隠れて、帝都でおかしな事件が頻発しているのだという。誰かと誰かが真剣で喧嘩をしただとか、誰かが急に行方不明になったとか、とにかく物騒な話ばかりだった。

 目の前の男も、そういう事件に関わる不審者かもしれない。兄と同じくらいの年格好の、地味な感じに見える青年だが、人は見かけによらない。ステラは、荷物をぎゅっと抱きしめた。


「すみません、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「は、はい」


 ステラの数歩手前で止まり、その青年は礼儀正しく辞儀をした。その仕草があまりに丁寧だったもので、それだけでステラは警戒を緩めてしまった。


「あのお屋敷は、サンドライト様の邸宅だとうかがったのですが、本日はお留守なのでしょうか」

「はは?」


 ステラは奇妙な返事をした。

 ステラたちの家は、お屋敷でも邸宅でも無い。お留守にはしていたが、様付けで呼ばれるような家柄でも無かった。もしかしたら、自分の知らない高位貴族のサンドライト家が、この近辺にあったのだろうか。一瞬、ステラはそんな風に考えてしまった。


「あ、あの、私がサンドライト家の者です。ステラ・サンドライトと申します」


 だが、そんな訳はない。この青年はやはり、自分の家に用が有って訪ねて来ていたのだ。ステラが名乗ると、青年は一瞬だけ目を丸くした。


「あなたは、どちらの方でしょうか?」

「ああ、申し訳ありません。名乗るのが遅れました。私は、クラウスと申します。あなたのお兄様の…………友人です」

「は?」

「え?」

「い、いいえ、何でもありません。そうですか、兄の……。という事は、騎士団の方ですか」


 マキアスには、同年代の友人がまともにいない。それを何となく知っていたステラは、少し微妙な空気を作ってしまった。だが、これだけ礼儀正しく名乗る以上、相手は騎士団の所属か、それに近い人間に違いない。

 クラウスと名乗る青年は、ステラの問いに曖昧な答え方をした。


「神殿騎士ではありませんが、今はあちらに御厄介になっております」

「そうですか。兄がいつもお世話になっております。」


 クラウスが丁寧な喋り方をするので、ステラの口調もついそれに引っ張られてしまう。


「あ、すみません。お客様をこんな所に立たせてしまって。どうぞ、狭い家ですけど。お茶とお菓子でも出しますから」

「い、いえ。そこまでの事では――」

「どうぞどうぞ」


 クラウスが辞退する様子を見せているのに、さっきこの青年を警戒した事を完全に忘れて、ステラは彼を家の中に迎え入れた。


「何もありませんけど――」


 クラウスを居間に座らせると、ステラは台所をひっくり返し始めた。湯を沸かし、茶を入れて、菓子も用意する。滅多に来ない来客に、ステラは慌てていた。


「ど、どうぞ! 大変お待たせしました!」


 ステラが茶と菓子を勧めると、クラウスはその勢いに圧倒されて、少し上体を後ろに引いた。しかし、勧められたものを断るのは礼儀にもとる。頂きますとクラウスは言った。


「――ごふっ!」


 菓子に一口付けただけで、クラウスは盛大にむせた。この菓子は、ステラが手作りしたのを取っておいたものだ。薬湯などなら上手く作れるのに、通常の料理となると、ステラは壊滅的だった。


「こ、これは……」


 マキアス以外の普通の人間なら、一口で断念してしまうところだ。だが、クラウスは悲壮な顔になりはしたが、もぐもぐと良く噛んで嚥下した。


「お、俺もこれまで、色々なものを口にしてきたのですが、これは――」


 兄以外に手料理を振る舞う機会など滅多に無い。その兄も、自分の料理をいつも無表情に食べて、感想すらまともに言わない。ステラは、クラウスの言葉に耳を大きくした。ステラの笑顔にクラウスは一瞬躊躇し、そして、彼なりの感想を述べた。


「これは実に、個性的と言うか……。端的に言って、前衛的と言うか……、攻撃的と言っても良い。毒では無いようだが……。あ、いや」


 婉曲な言葉を並べた後、クラウスは結局、結構なお味でしたとだけ言った。ステラはそれを聞き、すっかり上機嫌になってしまった。


「そうですか? なら良かったです」

「え、ええ」

「お茶もどうぞ」


 次に茶のカップに口を付けると、そこでもクラウスは、死にゆく戦士のような悲壮な表情になった。それはすぐに愛想の良い笑顔に変わる。しかし、彼のこめかみには一筋の汗が浮いていた。


「とても……素晴らしいと思います。茶葉からこんな――ゴホッ、こんな味が引き出せるとは、俺は今まで知りませんでした」

「そ、そうですか?」

「恐らく、帝国でも唯一無二でしょう」


 流石にそれは褒めすぎだとステラは思った。しかし、悪い気はしない。

 さて、ステラは礼に則り、家の者として客人に茶を振る舞った。普通なら次は、用件は何かとなるところだ。だが、クラウスは少し逡巡した後、予想外の提案をした。


「あの、もし良ければ、俺に茶を入れさせてもらっても構いませんか?」

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