第183話

「お嬢様宛てのお手紙を、お預かりしています」

「……ありがとうございます」


 滞在している宿の従業員、デカムが差し出した封書を、アルフェは受け取った。デカムが部屋から去ると、アルフェは早速、その手紙の封を切った。

 彼女の元に、手紙はいつも唐突に届く。その度に胸を騒がせてきたアルフェだったが、今回の彼女には、差出人の予想が付いていた。


 ――ゲートルード博士。


 ただ、彼が帰ってきたと、文面には記されている。

 情報屋組合の長、ゲートルード。自身の本職は情報屋ではなく、歴史学者であると嘯く、白髪の老人。アルフェが待っていた男が、ようやく帰ってきた。

 情報屋組合の構成員には、アルフェが彼を待っているという事は伝えてあったが、当たり前のようにアルフェたちの宿泊先を突き止め、この手紙を送りつけてくるあたり、やはり一筋縄では行かない、食えない人物である。

 手紙を受け取ったアルフェは、即座に出かける支度を調えた。時刻は遅く、晩餐も既に終えたところだったが、それは些細な事だ。アルフェはフロイドを連れて、ゲートルードの家がある、中州に向かう橋を渡った。


 バルトムンクの中州は、要塞島とも呼ばれる、歓楽施設や闇市場の集合区画だ。ここには、アルフェがかつてパラディンと戦った地下闘技場や、魔女ネレイアが入り浸っていた酒場などがある。

 しかし島の面積の約半分は、アルフェが足を踏み入れた事のない、貴族を相手取る高級娼婦から銅貨で春をひさぐ女まで、各種の商売女が雑多にひしめく色街だ。その街が、既に日の落ちた大渓谷の底に、淫靡な灯りを浮き上がらせていた。


 あの宿にいる間は貫くつもりだった、このお嬢様然とした格好は、やはりここに来る前に着替えておくべきだった。橋を渡ったアルフェが、まず一番に思ったのがそれだった。彼女は気配を殺しているつもりなのに、既に周囲を歩く男たちの視線が痛い。

 気配を消してどうにかなる範囲を大きく超えて、身なりを整えたアルフェの容姿は、男の視線というものを引きつけずにはおれなかった。

 特に、この要塞島に居るのは、溜め込んだ様々な欲望をはちきらせた傭兵や冒険者ばかりだ。魔物すら恐れないアルフェが一瞬だけ硬直してしまったのは、別の種類の恐怖が、彼女の足を竦ませたからだ。


「――っ!」

「……どうしました?」


 アルフェには現在に至るまで、他人――特に異性から向けられる視線の中で、とても苦手なものが一つあった。それは具体的にどういう種類の視線なのか、そしてどうして恐れる必要があるのか。それを彼女に教える人間は、これまで存在しなかった。だからその視線を向けられると、彼女は理由もなく攻撃的になる。

 そして一人二人ならまだしも、これだけまとまった数の視線を向けられる事は滅多に無い。そうなると彼女は、攻撃的を通り越して臆病になる。


「――何でもありません。行きましょう、フロイド」


 だが、アルフェはそこで感じた恐怖を耐えた。彼女が胸を張って腕を組んだのは、身体の震えを外に出さないためだった。その目がいつもより鋭く、冷淡な表情になって見えたのは、怯えの色を誰にも見せないようにするためだった。

 そうした事で、一見すると高慢なすまし顔の御令嬢の外見が完成したのは、何かの皮肉のようだった。

 ゲートルードの家の方角に向かって歩くと、やがて喧噪は遠くなった。ゲートルードの住宅は、色街と闇市場の中間に位置するのに、どうしてか奇妙に静かな一角に存在する。アルフェはそこで、ようやく自身に向けられる視線が途切れたのを感じて、息を吐いた。


「……だめだ、出てこないな。留守なのか」


 ゲートルードの家には、先日訪れた時には付いていなかった明かりが、柔らかく灯っている。整えられた植え込みには、淡い色の春の花が咲いていた。

 フロイドが扉を叩いても、家の中から反応は無い。アルフェたちはゲートルードに招かれたのだ。明かりも付いているのだから、留守というのはおかしい。だが、家の中に人の気配は感じられない。

 アルフェは嫌な予感がした。もしや、何者かがアルフェたちの先を越して、ゲートルードに危害を加えたのでは無いか。


「なら――」

「ああ、今晩は」


 しかし、いっそ扉を蹴破れと、アルフェがフロイドに命じかけた時、横合いから声がかかった。


「いい夜ですね、アルフェさん。すみません、少し散歩をしていました」


 植え込みに舞っていた蝶が、初老の男の前を横切った。

 まるで昨日別れた知り合いに会ったように、ゲートルードはアルフェたちを出迎えた。



「先日はせっかくお訪ね下さったのに、留守にしていて申し訳ありませんでした。実は、帝国中部を回って本を集めて来たのです」


 ゲートルードは変わっていなかった。

 アルフェたちを自宅に招き入れると、彼は客人に茶を勧める前に、アルフェの前に本を積んだ。厚さ、大きさはまちまちだが、どれも古い本である。特別な魔術書――などではなく、都市の年代記や、誰かが書いた私的な日記のようだ。植物や、料理について書かれたとおぼしき本もある。

 ゲートルードは、帝国中部を旅していたと言った。帝国中部というと、トリール伯領やノイマルク伯領のある一帯だ。


「トリールとノイマルクにまで、足を伸ばしてきました」


 果たして、彼はアルフェが考えた通りの事を口にした。


「戦火で貴重な史料が焼かれてしまう前に、集められるものを集めておきたいと思ったのですが……、意外と早く戦争が落着したので、私も安心しました」

「ゲートルード博士」


 だが、このままいつまでも歴史や研究の話をされても仕方が無い。


「どうしました?」

「本題に入らせていただきます」

「ええ、どうぞ」


 アルフェに話を中断させられても、ゲートルードに気分を害した様子は無かった。ゲートルードは柔和に微笑んだ。


「今夜は、歴史の話をしに来たのではありません。情報屋組合のマスターとしてのあなたに会いに来ました」

「そのようですね。私は歴史の話をしたかったのですが」

「それはまた今度。――これを見てもらえますか?」


 アルフェは四角い木のテーブルの上に、こつりと金属の棒を立てた。これはこの間、アルフェを狙ってきた暗殺者が使用した凶器だ。


「ああ」


 それを見て、何もかもを分かっているという風に、ゲートルードは頷いた。


「中々、珍しい品ですね」

「これを使う者に、心当たりが?」

「お話ししても良いのですが」


 教えるのはやぶさかでは無い。だが、知識には対価が求められる。ゲートルードはそう言いたいようだ。

 それは以前にゲートルードがアルフェに語った事であり、情報屋の基本理念だ。今度はアルフェが頷いた。


「今から私が教えてもらう事に対し、私も全て、知識で博士にお返しします」

「……知識で?」

「ええ」

「貴女は、どんな知識を私に語ってくれるというのですか?」


 しばし沈黙した後、アルフェはぽつりと、「大聖堂の奥」とだけ言った。

 その単語を聞いて、今まで余裕を持っていたゲートルードの表情が変わった。彼は目を血走るほどに見開き、テーブルの上に片手の爪を立てた。


「まさか」

「教えて下さいますね」


 その一言を発しただけで、駆け引きで優位に立ったのをアルフェは感じた。

 アルフェの予想は正しかった。目の前に座っている老人は、あの幻術士ライムント・ディヒラーと同種だ。ゲートルードはこの世の理を知る事に対して、並々ならぬ執着を持っている。教会が秘匿している大聖堂の秘蹟の間、その更に奥にあるものについての知識を得るためならば、大抵のものは引き換えにするだろう。


「どこでそれを。――いや、貴女は、本当にそれを?」


 ゲートルードの動揺ぶりは哀れな程だ。対するアルフェは無表情のまま、確信を持った瞳で彼を見つめている。


「そんな、まさか。有り得ません。教会があれほど秘匿しているものを、まさか。一体、どうやって」

「私が知りたい事を教えて下さるのならば、私も博士に、全てを語りましょう」


 ゲートルードはテーブルに爪を立てたまま、苦しそうに呻いた。この場の言葉によるやり取りで、彼は自分がアルフェに勝てない事を悟ったのだ。

 教えてくれと懇願するのは、私では無くお前の方だ。まるでアルフェの目がそう語っているように、ゲートルードには見えていた。


「分かり、ました」


 そしてゲートルードは、アルフェの前にがっくりと頭を垂れた。



「この暗器自体は、裏側の世界で頻繁に用いられるものです。はっきり言って、それ程珍しい品ではありません」


 ゲートルードは、アルフェの最初の質問に答えていた。アルフェはテーブルを挟んだ対面に座り、ゲートルードの語るに任せている。

 ゲートルードは少女にひれ伏してしまった。そして一度ひれ伏してしまった以上、今まで彼が保っていた余裕のある態度は、どこかへ行ってしまった。少女に聞かれるまま、彼は己が知る事を少女に伝える以外に無くなったのだ。


「ですが、先端に塗られている毒物は別です。この毒の製法を知る者は、帝国でも限られていると聞きます。一つは、帝都の暗殺者ギルド」


 そこでフロイドが顔を動かした。「一つは」という事は、他にも候補が存在するという事か。ゲートルードは続けた。


「もう一つは、神殿騎士団です」


 アルフェも僅かに眉を動かした。アルフェを暗殺しようとしたのが神殿騎士団である可能性については、アルフェたちも考えていた。だが、それは何者か――それこそ暗殺者ギルドに依頼するなどして、間接的に実行されたのだと思っていた。

 アルフェたちの思考を読み取ったのか、ゲートルードは詳しい解説を挟む。


「神殿騎士団は、教会の敵となる者を排除するのが務めです。それは表立って行われる事もあれば、闇の中で行われる事もあるのです。暗殺者ギルドの発足よりも先に、帝都には神殿騎士団の暗流が存在しました。――いやむしろ、神殿騎士団の暗部から、暗殺者ギルドが派生したのではないかというのが私の推測ですが、それはまだ研究中です。判断するには史料が足りません」


 いったい、どういう“史料”を元にして、ゲートルードはここまで調べているのか。それは不明だが、彼の語っている事に偽りは無さそうだった。

 神殿騎士団の暗殺組織は確かに存在し、暗殺者ギルドに勝るとも劣らない手練れを揃えている。そして彼らに命令できるのは、騎士団総長その人のみなのだそうだ。


「パラディンの中の一人が、秘密裏にその組織の長を担うのだという話もありますが、これは不明確な情報です」

「……“これ”は、神殿騎士団と暗殺者ギルドの、どちらのものだと思いますか?」


 ゲートルードの話が一段落すると、アルフェはテーブルの上の凶器をあごで示した。そこまでは自分にも判別が付かないと、ゲートルードは首を横に振った。


「どう考えますか、フロイド」

「俺はやはり、神殿騎士団の差し金だと思います」


 アルフェが聞くと、フロイドが小声で彼女に耳打ちした。


「んん……」

「まだ、王国である可能性を捨て切れないと?」

「どうでしょう……私にも分かりません。――あ」


 ゲートルードは、二人の様子を意外そうな顔で見ている。前にこの家を訪れた時と比較すれば、二人の距離感は、外から見ても大分変化していただろう。

 特にやましい事は無いが、ゲートルードの視線に気付いたアルフェは、こほんと軽く咳払いした。フロイドはフロイドで、彼女から離れて部屋の隅に行く。


「次です。帝都の状況、特に選帝会議の噂について、あなたの知りうる限りを」


 と、アルフェは生じた微妙な空気を誤魔化すように、質問を続けた。

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