生まれ変わるなんて、そう簡単にはできないから

第174話

 星の無い夜空、おびただしい死者の群れに覆い尽くされた原野。その中を、一人の男を背負った青年が歩いている。


 ――死ぬな、ウェッジ。死なないでくれ。


 背中の男の名前を呼びながら、青年は死人の波をかき分ける。

 死なないでくれ。頼むから死なないでくれ。皆、自分のせいで死んでしまったから、せめてお前だけでも死なないでくれ。青年は己の生き死にを忘れて、強く願った。

 しかし、彼の背中に居る傷だらけの男は、だらりと両腕をぶら下げて、ぴくりとも動かない。きっともう、男は死んでいるのだ。


 ――ウェッジ、死ぬな。


 だが、青年はそれを認めようとしなかった。

 青年の身体のあちこちに、死者たちの手がすがり付いてくる。幾つかの手は、背中の男を自分たちの仲間に引き入れようと、強い力で青年から引き剥がしにかかる。


 ――うわああああッ!!


 滅茶苦茶な叫び声を上げて、青年はその手を振り払った。


 お前のせいだ。お前のせいで俺たちは死んだのだ。お前の無謀な計画のせいで、お前の埒も無い妄想に付き合わされて。無能な弟のくせに、優秀な兄を見返してやろうなどと考えたから、死の床にある父親に、せめて最後に認められたいなどと思ったから。

 青年には、死者たちの呻きがそんな風に聞こえていた。

 お前のせいだ。俺たちが死んでしまったのは、みんなお前のせいだ。

 この声に耳を塞ぐには、両手を使わなければならない。だが、青年の両腕は、今は背中の男を支えるために使われている。唇を噛みしめて、青年は死者たちの恨みの声に耐えた。


 ――うッ!?


 一本の手が、青年の顔半分を覆った。左目に、指が深く食い込む。激しい痛みを感じたが、それでも青年は足を前に出した。


 ――ぐうッ……!


 青年の視界は半分になった。潰れた片目から、まるで涙のように血が零れる。


 ――……クルツ。


 その時、青年の耳元でか細い声がした。


 ――……俺は、もうだめだ。置いて行け……、クルツ。


 声がしたという事は、背中の男はまだ生きている。

 僅かだが、青年の心に気力が戻った。青年は男を支える手に、力を込めた。


 ――……馬鹿野郎。


 己の言葉に耳を貸そうとしない青年を、背中の男は罵った。


 真の暗闇の中、青年の身に着けている鎧だけが、ほのかな光を放っている。この鎧はエアハルト伯家に伝わるものではなく、亡き青年の母が実家より持参して、死の床で、幼い彼のために遺したものだ。

 その鎧には、身に着けた者を邪悪から守る加護の魔術と、子供を案じる母の祈りが込められていた。


 ――すまない、ヘルムート。すまない、リグス。すまない……。


 すまない、許してくれ。私が悪かった。私が浅はかだったのだ。どうか許してくれ。

 いつの間にか青年は、死者たちへの懺悔を口にしていた。

 地方貴族のヘルムートが、心の中で自分を見下しながら、保身のために自分を利用していた事は理解している。傭兵団長のリグスが、本当は自分を嫌いながら、ただ金のために自分に雇われていた事も知っている。

 だがヘルムートは、自分が兄よりも優れていると、嘘でもそう言ってくれた。金だけの縁だったとしても、リグスは最後まで自分を守ろうとして、決して裏切らなかった。

 自分の計画に付き合って、その結果、この地獄に巻き込まれてしまった彼らに、青年はただ詫びるしか無かった。そして、自己嫌悪に押しつぶされそうになりながら、それでも青年が足を止めないのは、鎧越しの背中に、一つだけ命の温もりを感じていたからだ。


 ――母上。


 自分はここで死んでもいい。いや、やったことの責任を問えば、自分はむしろ死ぬべきなのだ。だからどうか、それでもどうか、どうかせめて、この男だけは助けて欲しいと、青年は祈った。

 神に祈ったのではない。神など居ない。そんなものはこの世のどこにもいないのだと、彼は今日知った。だから青年は、亡き母に祈った。かつて青年の母は、最期の息を引き取るその瞬間まで、彼を案じていた。その母の面影を思い浮かべながら、青年は祈りを唱えた。


 ――母上、どうか。この愚かなクルツに、どうか力を。


 青年の鎧が放つ輝きが、強さを増していく。その光を恐れ、亡者たちは青年から手を離した。そして、光はやがて青年たちを包み込み、彼らをどこか彼方へと運び去った。








 星が見える。


 涼やかな夜風が吹き、それに乗った虫の声が聞こえる。


 いつの間にか青年は、今まで彼らが居た荒野とは全く違う、星の見える草原にたどり着いていた。燃えさかる兵営も、歩き回る死者の群れも、周囲のどこにも見当たらない。

 その事に青年が気が付いたのは、歩く体力を使い切って、彼が地面に倒れ込んだ時だった。



「まずは弓兵を揃えるんだ」


 トリールの西方に位置する、何も無い草原。冬の終わりの夕暮れ時、その草原の中に、ぽつんと焚き火の明かりが灯っていた。

 焚き火の前には、見張りらしい槍を持った男が座っており、焚き火を取り囲むようにして、三つのテントが張られている。テントの一つの中では、先日発足したばかりの小さな傭兵団の団長と副長が、小声で話し合っていた。


「バリケードを作って、後ろから弓で撃つ。弱い魔物の集団なら、大抵これでどうにかなる。それと、俺がお前の側についてなきゃならないから、新しい斥候役が必要だな」

「ふむ……それよりもまず、治癒術を使える人間が必要では?」


 団長の名前はクルツで、副長の名前はウェッジ。帝都で傭兵団を旗揚げした彼らは、傭兵としての初仕事をこなすため、はるばるこの地までやって来ていた。

 そしてこの仕事が終わったら、新しく団に加えるべきなのはどういう人材なのか。二人が話しているのは、そんな話題だった。


「治癒術? 馬鹿、そんなもん贅沢品だよ。専門の治癒士を雇ってる傭兵団なんて、よっぽどの大所帯だぞ。しかしまあ……確かに、薬草の知識がある人間くらいは欲しいな。それと、大工仕事が得意な奴も」

「……むう」

「どうした?」

「いや」


 クルツは憮然とした表情をしている。希望を語るのは自由だが、現実は希望よりもはるかに厳しい。冷静に自分たちの状況を眺めてみると、今この野営地に居るのは、クルツたちを含めてたった五人だった。


「まさか、三人しか集まらないとは思わなかったのだ……」

「またそれか。あんな演説でそれだけ集まれば上等だろ。俺とお前を入れれば五人だ。五人いりゃ、十分働けるさ」


 クルツは不満そうだったが、ウェッジはむしろ手応えを感じていた。

 貧しい辺境の民のために戦う、金は二の次だと、傭兵にあるまじき演説をぶち上げて、それでも三人集まったのだ。上等を通り越して、僥倖とさえ言える。

 金のためではなく、志のために。甘ったれた世間知らずにしか吐けない、青臭い言葉だ。クルツはそれを、軽い思いつきで言ったのかもしれない。だがその言葉こそ、ウェッジが彼を見捨てずに付いて来た理由だった。


「もうここまで来たんだ。いつまでもウジウジしてんじゃねぇよ。傭兵らしく、胸を張れ」


 乱暴な言葉遣いではあったが、ウェッジはクルツを励ましていた。

 根拠の無い自信だけが取り柄のクルツが、彼にしては珍しくしょげていたのは、人が集まらなかった事について、クルツなりに、団長としての責任を感じていたのかもしれない。だが、ウェッジに言われて、クルツはぐっと顔を上げた。

 満足そうにウェッジは頷いた。

 エアハルト伯の御曹司だった頃の彼は、自慢の金髪を、専属の理髪師の手によって一分の隙も無い髪型に整えていた。しかし今は乱れ放題で、背中に届くほど襟足が長くなっている。そしてそれ以上に、彼の容貌に大きな変化をもたらしていたのは、失った左目を覆う黒い眼帯だった。

 だがそのお陰と言うべきか、堂々として黙ってさえいれば、クルツも一端の傭兵に見えないことはなかった。


「それはそれとして、ひもじいな。腹が減った」

「おいおい……」


 それでも人間の本性というものは、ちょっとやそっとでは変わらないのかもしれないクルツの口から出て来たのは、彼らしい暢気な言葉だ。

 ウェッジは呆れて、自身の禿げ頭を掻いた。


「貧しさに耐えるんだろ? 一食抜いたくらいで文句言うな」

「分かってる。言っただけだ。他の団員の前では口にしない」

「よし、それでいい。食糧だってギリギリなんだからな。この仕事が終わるまで、最大限節約するぞ」

「ああ」


 新しい傭兵団の経済状況は逼迫していた。それこそ、武器以上に大切な食糧まで切り詰めなければならないほどだ。しかしそれを悟られないよう、せめて新しい三人の団員には食事を与えて、クルツとウェッジはこっそりと夕食を抜いた。気を抜けば腹が鳴りそうだが、やはり二人は胸を張ってごまかした。

 それから二人は、狭いテントの中で地図を拡げて、目先の仕事の話をすることにした。


 彼らが居るこの場所から、ずっと南東に行ったところでは、トリール伯とノイマルク伯の軍勢が正面から衝突している。

 八大諸侯同士の戦争。傭兵にとっては華の舞台と言うべきだが、彼らの仕事はその戦争とは全く関係が無い。

 いや、関係が無いというのは語弊があった。

 この戦争によって、トリールとノイマルクの軍勢は、互いの領境に集中している。その結果、本来ならば領内の治安維持に当てられていた兵の数は減った。そうなるとまず切り捨てられるのは、優先順位の低い辺境の村だ。

 ただでさえ魔物の危険に晒されている村々が、領主からの援軍も期待できなくなるとすれば、軍の衝突の裏で潰れる村も、一つや二つでは済まないだろう。そしてそんな村の一つから、クルツたちは今回の仕事を受けて来ていた。


「しかしまさか、記念すべき初仕事が羊泥棒の相手とは」

「もっと派手な仕事があると思ってたのか?」

「そうは言わないが」

「ふう……。まあ、地味なのは認めるがな」


 仕事の内容にまで文句を付けかけたクルツを、ウェッジはにらみつけた。しかし彼は、すぐに柔らかい表情になって、クルツの言い分を一部認めた。

 なんだかんだ言って、クルツはついこの前まで八大諸侯の御子息だった。だから、彼が知らない常識や平民たちの現実というものを、根気強く教えてやるのは自分だろうと思い直したのだ。


「ここらの農民にとって、家畜は下手すりゃ命よりも大切だ。羊が一頭減っただけでも、次の冬を越せるかどうかが変わってくる。まして羊泥棒が魔物なら、味を占めて何度だってやって来るんだ」

「そうか……。羊一頭でも、農民たちにとっては死活問題か」

「そうだ」


 ウェッジが真面目な顔で頷くと、クルツもまた真剣な表情に戻った。


「分かった、ウェッジ。もう愚痴は言わない。俺は、民のために戦うと決めたから」


 ウェッジは微笑んだ。クルツは最近、この「民のため」という言葉を、しきりに口にする。それは、今は何の中身も持たない、空虚な妄言なのかもしれない。しかしそれに中身を与えられるかどうかも、これからの自分たちの行動にかかっているのだ。

 だからこそ。


「まずはこの五人で、きっちり初仕事を成功させるぞ」

「ああ、ウェッジ」


 荒唐無稽な夢かもしれない。だが、一度死んだと思った命だ。夢にかけてみるのも一興だと、ウェッジは思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る