第158話
いつであったか、アルフェに対し、フロイドが、必ずしも武具の優劣が戦いの勝敗を分けるとは限らないと言った。名剣を携えたところで、使う者の実力が伴わなければ、どうしようも無いと。
それは事実だったが、「必ずしも」というのがくせ者だった。実力が伯仲した者同士の戦いになれば、当然のことながら、武具の上等さは勝負を左右する大きな材料になる。
それに、武具が圧倒的に優秀だと、「逆転」も起こりうる。実際、完全なる無能のノイマルク伯ルゾルフですら、その鎧の力でアルフェの攻撃を無効化した。武芸の心得が無いはずのトリール伯ヨハンナが突き出した懐剣は、魔力で強化されたアルフェの肌さえ貫いた。
武具が圧倒的に優秀で、使い手も優秀だとどういう事になるだろうか。それは言うまでも無いだろう。相乗効果で、強さは何倍にも高まる。
優秀な使い手の元には、優れた武具が集まるようにできているのか、ロザリンデ・アイゼンシュタインの振るった純白のハルバードも、ベレン・ガリオが遺した大剣も、エドガー・トーレスが使っていたメイスと盾も、全て名だたる名品だった。
この前アルフェは、不法に押し入ったキルケル大聖堂で、大っぴらに顔をさらしたまま、立ち塞がる神殿騎士たちを殺して周り、最終的にはパラディンを殺害してしまった。そこにいかなる事情があろうとも、教会との対立は、今後避けられないと思われる。
そのため、パラディン級の強者に抗い、何よりもいずれ師の仇と戦うことを考えると、武具についてもっと真剣に考慮する必要があるのかもしれない。今のアルフェはそう考えはじめていた。武器を使うのは、コンラッドの教えに反するが、防具については一考の余地がある。
「ということで、この懐剣を売ります。そうすれば、当座の資金になるでしょう」
アルフェは懐剣の刃の方を指に摘まんで、フロイドに見せびらかすようにふりふりと振って見せた。その懐剣は、トリール伯ヨハンナが所持していた、トリール伯家に伝わる宝物の一つだ。柄に宝玉があしらわれている訳でも無い、非常に簡素な造りの品だが、そこには恐るべき魔力が宿っていた。
「本気ですか」
フロイドがそう言うと、アルフェは一瞬停止して真顔になった。が、彼女はすぐに話を再開した。
「もちろん、普通に売れば脚が付くでしょう。ですから、方法を考えます」
「……止めておいた方が良いと思いますが」
フロイドが眉間に皺を寄せた。アルフェは、まさにその懐剣で貫かれた手に、それを握っている。既に傷は痕すら残っていない。少なくとも、身体の表面に見える傷は。
アルフェはまた停止した。そして、フロイド、と彼の名を呼んだ。
「何ですか」
「それはこちらの台詞です。何ですか? その喋り方は」
ノイマルク、トリールの両伯を暗殺し、それらの領邦を離れて以来、フロイドはアルフェに対して、妙に丁寧な言葉遣いをするようになった。この男がそうするようになった原因は不明だが、アルフェには、この言葉遣いが酷く気味の悪いものに感じられてならなかった。
「いつか、グラムが言っていたでしょう」
暗に止めろと要求する意味で投げかけられたアルフェの問いに対し、フロイドは、以前に彼らと共闘した、喋るオークの名前を挙げた。
「主には、丁寧な言葉遣いをした方がいい。そういう事だ」
一瞬だけ、フロイドは以前までのような口調で話した。
「正気ですか……?」
「それは分かりませんね」
真意はともかく、そう言ったフロイドは真剣な顔をしていた。
「不気味だから今すぐに止めろ。そう言ったら?」
「俺には、俺の自由にする権利がある」
「……勝手にしなさい」
「ええ、そうさせて貰いましょう」
フロイドが、自分に対してこういう態度を取る気になった理由について、アルフェには心当たりが無かった。
トリール伯を殺した時、アルフェは不覚にも、この男の前で涙を見せてしまった。泣くつもりなど無かったのに、なぜか涙が溢れて止まらなかった。だがこの男は、弱さを見せたアルフェに幻滅して去って行くでも無く、こうして相変わらず付いて来ている。これは、やはり不可解な男だった。
アルフェはフロイドの言葉遣いを諦めて、話を元に戻した。
「この懐剣を換金するのは、普通の武具屋では無理でしょう。必ず出所が問題になります。いわゆる、『足がつく』というやつですね」
「それ以前にまず、普通の武具屋にそんな金は置いていない」
「ですね」
アルフェは手先で弄ぶように、懐剣を器用にくるりと回転させた。
フロイドの豹変ぶりばかりを問題にしているが、アルフェはアルフェで、その態度に不自然な部分があった。
キルケル大聖堂であれだけの事があったにも関わらず、アルフェは一見、そんな事は無かったかのように明るく振る舞っている。むしろ、ノイマルクを訪れる以前よりも、彼女の口数は多くなり、態度は砕けているようだ。
曲がりなりにも他人に弱さを見せたことによって、彼女が負っていた重荷が少し軽くなり、堅苦しさが取れたのだとしたら、それはそれで良かったと言うべきなのかもしれない。だが、そうではなさそうだ。
今の彼女は、単に自暴自棄に開き直っているだけのように見える。
彼女の前に座るフロイドは、痛々しい物を見たかのように、軽く目をつぶった。
「金を手に入れて、どうすると?」
「お金はいくらあっても困りませんが……まあ、差し当たって防具でも新調しましょうか」
「防具……? ああ、そう言えば、グリーブが壊れましたね」
「……乱暴に扱い過ぎました。……でも、形有る物はいつか壊れます。感傷的になっても無意味です」
アルフェはそう強がって見せたものの、フロイドは知っていた。
ベレンたち家族の遺体を、彼らの領地であるリーネルンまで運び、景色の良い場所に丁重に埋葬した後、アルフェはこっそりと、あのグリーブの破片も土の中に埋めたのだ。それはまさに、彼女が無意味だと言う感傷的な行為だった。
だがフロイドは、そのことを指摘したりはしなかった。
「今の私は丸腰です。あなたには籠手を壊されましたし、胸当ても壊れましたから」
「元から丸腰でしょうに」
「だからこの機会に、少し質の良い物を調達しようと思います」
まだ駆け出しの冒険者だった頃に、アルフェがベルダンで揃えた防具は、最後に残っていたグリーブが壊れたことで、全て失われた事になる。アルフェは今まで、防具を新調する事をためらっていたが、これで強制的に踏ん切りが付けられたようだ。
「しかし、その前には先立つものが必要です」
ベレンがああいうことになった以上、アルフェたちは、彼から正式な報酬をもらう事ができなかった。
あれから、移動がてらいくつかの都市で依頼をこなしたが、それはアルフェたちでなくとも解決できるような、簡単な依頼ばかりだった。報酬額も推して知るべしだ。従って、彼らの貯蓄は目減りしていた。
「それで、その懐剣を換金しようと考えた訳ですか」
「そうです」
「素晴らしい発想だ」
「嫌味を言っても無駄です。――で、換金の方法ですけれど」
「既に案が有ると?」
「はい。先ほど言ったように、正規の商店ではこの剣を買い取る事は不可能でしょう。ですから、まずは盗賊ギルドを探して――」
「おい、ちょっと待て……」
「『地』が出ていますよ?」
慌てたフロイドをアルフェが鼻で笑い、フロイドは咳払いをした。
ちなみに、アルフェの言った盗賊ギルドというのは、彼女の空想の産物でも何でもない。世の中には乞食たちのギルドだって存在するのだ。盗み自体は法に触れるが、盗っ人が寄り集まり、ギルドを作って悪いという法は無い。
ただ、盗賊ギルドは、日の当たる場所で大手を振って生活している人間の目には、触れる機会すらないだろう。
「言いたい事は分かりました。盗賊ギルドの連中なら、盗品も買い取ってくれるだろう。しかし、それは止めておいた方が無難だ」
「なぜ? 我々は十分に後ろめたい事に手を染めました。パラディンを一人と、伯を二人も殺した大罪人です。今さら盗賊ギルドと関係を持ったところで、大差無いでしょう」
「相変わらず、妙な方向に思い切りのいい……。それで、この町という訳ですか」
「ええ。でも、当てが外れました」
アルフェは眉をひそめ、懐剣をテーブルに転がした。
アルフェたちがいるのは、帝都の東にある比較的中規模の自由都市だ。その町の大通り沿いにある冒険者組合の建物で、二人は会話をしている。
この町は交易馬車がかなりの頻度で行き交っていて、経済的にも豊かに見えた。治安も良い。例えばバルトムンクのような荒んだ空気は微塵も無く、一般の市民たちも大手を振って生活しているように見受けられる。盗賊ギルドという雰囲気ではない。
「この規模の都市なら、噂くらいは聞けると思ったのですが」
「あいつらが、そんなホイホイ表に出てくる訳がない」
フロイドは、アルフェよりも旅をしてきた期間がずっと長い。裏の世界にも、どっぷりと浸かってきた。盗賊ギルドだけでなく、暗殺者ギルドの構成員とも接触した事がある。
「それに、情報屋組合ならまだしも、貴女と盗賊ギルドは合わない」
「……? 『合わない』、とは? 言っている意味が分かりません」
「あのギルドは、本当に歪んだ連中の集まりだからだ。貴女はきっと、そういう連中を許せない」
「そんっ――」
フロイドは、まるでアルフェが歪んでいないかのように断定した。
「な…………」
アルフェは言葉に詰まった。何か言い返そうとしたが、上手い返しを思いつかなかったのだ。
ノイマルクを出て以来、フロイドは言葉遣いだけでなく、言う事の中身まで妙に真っ直ぐとしている。アルフェは男のそういう変化にも、大きなやりづらさを感じていた。
「会えば血を見る事になります。今は……、止めておいた方が良いと思う」
フロイドの口調が、妙に優しい。
――まさかこの男は、自分を気遣っているのだろうか。別にそんな、自分は弱ってなどいない。余計なお世話だし、いっそ屈辱的なくらいだ。アルフェはそう思ったが、それを突いて、あの時に泣いてしまったことを蒸し返すのは嫌だった。
アルフェが黙っていると、フロイドは言った。
「その短剣を換金する方法なら、俺にもいくつか案がある」
「……何ですか?」
「まずは、情報屋を通してバルトムンクのゲイツに頼む」
「ああ……」
アルフェは、冒険者の都市バルトムンクに勢力を持っている、メリダ商会の頭取の顔を思い出した。魔物を地下闘技場で戦わせたり、闇まがいの市場を経営したりと、色々後ろ暗い商売を行っていた男だ。
「あの男なら、確かにこの手の物でも買い取ってくれそうですね。……裏切って、私たちを教会に売る危険もあると思いますが」
「その辺りの信用は守る男だと思うが、判断はあなたに任せるしかない」
「そうですね…………」
少し悩む様子を見せてから、却下ですとアルフェは言った。
「あの男をそこまで信用できません。他の案は?」
「このまま北に向かいます」
「北?」
アルフェは首を傾げた。この町は、帝国でもかなり北部に位置する。そして、ここから更に北に向かうと、海がある。
「パッサウという港町がある。トリールのムルフスブルクよりは小さいが。……そもそも、あなたの腕に見合うような魔術の品は、欲しいと思っても在庫が無い。海から物が入ってくる港町の方が、まだ探しやすいかもしれない」
「海……」
海という単語に、アルフェは少しだけ惹かれた。
アルフェはまだ、海を見た事が無い。ムルフスブルクは大規模な港湾都市だったが、その時はトリール伯ヨハンナに対する負の感情で頭が一杯だったから、海を見る余裕など無かった。
「……行ってみるのも良いですね」
遠くを見ながら、アルフェがぼんやりとつぶやくと、フロイドは頷き、馬車を取ってくるために立ち上がった。
◇
フロイドに言われたからという訳では無いが、アルフェは移動のついでに、久々に血の流れない仕事をした。南の自由都市から北のパッサウまで、商品の運搬を引き受けたのだ。
商品とは紙の束だった。出発地点の自由都市一帯の畑では、紙の原料になる、繊維質の多い緑色の植物を栽培している。それらは前年の秋までに収穫され、冬の間に都市の工房で紙に加工される。そして春になると、帝国内外に向けて輸出される。
アルフェたちがパッサウまで運ぶ紙は、船に乗って帝都や北の大陸にまで運ばれるのだという。
冒険者組合は、こうした商人の手伝いのような仕事も、沢山請け負っている。というより、本来はそちらの方が、魔物退治や賞金首の逮捕といった血なまぐさい依頼よりも、割合としては多いのだ。
――こういう依頼を受けるのも、たまには悪くない。
普段の荷物の他に、紙束まで満載した馬車の荷台には、アルフェが乗るスペースは無くなった。だからアルフェは馬車の隣を自分の足で歩きながら、そう思った。ここは帝都を中心とする結界の範囲内に位置するため、魔物の心配も不要だ。
しかし、アルフェの目に映る世界は、これまでとどこか違っている。
キルケル大聖堂のはるか地下で、ライムント・ディヒラーに見せられたものを、アルフェは忘れていなかった。
この穏やかな街道のはるか下にも、あそこに居たような、途方も無く巨大な魔獣が眠っているのだろう。その真実を教会は秘密にして、人々もそんな事は知らず、知ろうともせず、日々の暮らしを送っている。
ディヒラーは、そういう民たちを蔑むような事を言ったが、アルフェはそうは思わない。人間という脆弱な種にとって、この世界で生きる事は、ただでさえ困難だ。知らずにいられるなら、知らなくても良いことはあると思う。
アルフェは、エアハルトで新しい結界を作ろうとして死んだ、あの青年の事を思い出した。クルツ・エアハルト。結界の真の姿がああいうものならば、あの青年が行おうとしていた「秘蹟」というのは、一体何だったのか。
クルツの協力者であった大聖堂の主教や助祭長ですら、結界の真実を知らなかったのだ。偽りの秘蹟に振り回されて、実の兄に命を狙われ、最期に死人の群れに飲み込まれていった彼の事を、アルフェは今さらながら、可哀想な人だったと思った。
アルフェの背嚢には、クルツが秘蹟で使おうとした「遺物」が、小瓶の中に収められている。この、一見ただの灰のように見える何かも、地下の巨獣に縁のあるものなのだろうか。
道の脇には、数羽の蝶が戯れるように飛んでいる。
この蝶もきっと、人間と同じように、巨大な魔獣の縄張りを気にせずにいられる生き物なのだろう。そしてこういう生き方が、悪いものだとは思えない。
これまでのアルフェならば、こんなことを考える余裕がある己を許さなかっただろう。だからやはり、今のアルフェは何となく気が抜けているのだ。
「やあ、いい天気だな。ここからどっちに向かうんだ?」
途中、十台ほどの馬車を引き連れた隊商とすれ違った。先頭にいた護衛の冒険者が、アルフェたちに向かって気軽に手を上げて挨拶する。フロイドがその挨拶に応えた。
「パッサウ? 二人だけで? この辺りの治安は良いが、油断するなよ?」
「大丈夫だ、ありがとう。あんたたちも気を付けてくれ」
「ここに来る途中、崖崩れがあった。この間の地震のせいかな」
「かもな。街道は使えるのか?」
「それは問題無い。近くの村から人足が来て、片付けてたよ」
アルフェとフロイドを、行商の兄妹とでも見たのだろうか。その冒険者は隊商の列から離れて、人の良い忠告をしてきた。フロイドが、それにそつなく応対している。
「多分、日が落ちる前には、パッサウに着けるんじゃないか」
最後にそう言うと、冒険者は隊商の列に戻っていった。
隊商の一番後列には、便乗して移動する平民たちがくっついている。幌馬車の荷台にちょこんと腰掛けた幼い少女が、アルフェに向かって手を振ってきた。無垢な笑顔だ。
「…………っ」
アルフェはそれに手を振り返そうとして、止めた。苦い顔をした彼女は、上げかけた手を下ろし、隊商から目を逸らした。
――お前は、儂と同じだ。
人の心が分からぬ癖に、無理をして人じみた真似をするなと、幼い少女の背後に、アルフェを嘲笑うディヒラーの幻が見えたからだ。
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