第159話

「…………?」


 不思議な匂いがして、アルフェは鼻をひくつかせた。パッサウの市門が見えてくる前に、アルフェはその匂いに気付いた。どう形容したら良いのか分からない、とても独特な、嗅いだことの無い匂いだ。

 森の空気のように、生き物の気配を感じさせるが、それとは全く別物の匂い。

 戸惑ったアルフェの耳に、フロイドが答えをつぶやいたのが聞こえた。


「潮の匂いがするな」


 これが海の匂いなのだ。

 アルフェは歩きながら少し首を伸ばしたが、まだ視界に海は入らなかった。


「あなたは、海を見た事があるのですか?」

「旅をしている間に何回か。俺の出身はハノーゼスの山奥ですが、船に乗って、東方諸王国にも行ったことがある」


 アルフェが質問すると、御者台の上で、前を見たままフロイドが言った。

 海は水が塩辛く、波があり、泳いでいる魚も湖や川とは違う。図鑑でしか見たことの無いその景色を、アルフェは頭に思い描いた。

 市門をくぐると、匂いはいよいよはっきりとしてきた。白い漆喰で塗られた民家の軒先には、木の棚に赤黒い水草のようなものが干されている。ほのかに桃色がかった大きな巻き貝なども吊されていて、内陸の都市とは明らかに雰囲気が違う。オールや網のような道具も、軒先に立てかけられていた。

 冒険者組合の建物は、どこの都市でも市門の近くにある。アルフェたちはまずそこに立ち寄って、運んできた品物を納めた。


「ありがとう、これが報酬よ」


 受付の職員は、珍しく若い女性だった。日焼けの跡が染み込んだような、浅黒い健康的な肌をしている。僅かな銀貨と銅貨をフロイドに渡すと、女性は言った。


「お兄さん強そうなのに、こんな子供のお駄賃目当てでお仕事?」

「移動のついでだ」

「あら、そう。その可愛い子は? 妹?」

「ああ」


 フロイドは肯定した。兄妹と見られたら、敢えて否定したりはしない。事前にそう打ち合わせてある。似ていないわねと、女性は笑っている。


「この町には泊まっていくの? もう日が暮れるけど」

「そうだな……、どうするか――」


 フロイドはさり気なくアルフェの顔色をうかがい、それから頷いた。


「――折角だから泊まっていくか。手頃な宿はあるか?」

「向かいが良いよ。冒険者慣れした宿だから」

「お勧めに従おう」

「ご飯はここで食べたら? この町の名物を、このあたしが料理してあげる」

「なんだ、威張れるような腕なのか?」

「言っちゃなんだけど、あたしの料理は絶品よ?」


 フロイドと受付の女性が話している間、アルフェは依頼が張り出された掲示板を眺めることにした。この町で積極的に仕事をこなすつもりは無いが、冒険者としての習い性のようなものだ。

 魔物が絡んだ依頼の数はそれ程多くない。今回アルフェたちがこなした商品輸送の依頼や、商家の用心棒が大半だった。護衛依頼の中に商船の護衛が含まれているのは、少しだけ港町らしい。

 バルトムンクでも、川を行き来する船の護衛が定番の依頼だったが、魚の種類が違うように、川を行く船と海を行く船は、形などが異なっているのだという。

 そして残りは、顔料に加工される貝殻や、漁師が採らない珍しい魚といった各種素材の収集。アルフェがそういった依頼の方を、魔物の討伐依頼よりも長時間眺めていたのは、やはり気が弱っている証拠だろうか。


「武具を扱っている店はどこにある?」

「隣が鍛冶屋だよ。この建物と繋がってるの。ほら」


 フロイドと女性の話が、再びアルフェの耳に届いてきた。それに釣られて女性の指さしている方向を見ると、開け放たれたドアがある。その奥が鍛冶場になっているのだろう。


「ヨハンっていう、あたしの幼馴染みがやってるの。ご贔屓に」

「ふうん……、そっちのほうの腕は?」

「あたしは冒険者じゃないから良く分かんないけど、評判は良いよ。帝都で十年くらい修行して来たし。お客さんが自分の目で確かめてみたら?」

「そうさせてもらうよ」

「うん。でもあいつ、今日は寄り合いに出かけてるから、また明日ね。お兄さんたち、宿に荷物を置いたら、ちょっとゆっくりして戻って来なよ。それまでに夕飯を作っとくからさ」

「分かった」


 フロイドと受付の女性の会話は、それで終わった。アルフェはカウンターに近寄ると、女性に話しかけた。


「あの……」

「ん? なあに、妹さん」

「海は、どちらに行けば見られますか?」

「ああ、海が見たいの? そうか、お客さんたち、内地の人なんだね」


 健康的な外見に似合って、女性は明るい声で良く喋った。


「妹さん、名前は? あたしはイルゼ」

「アルフェです。あれはフロイドといいます」

「よろしくね。……ん? 『あれ』? お兄さんの事を『あれ』なんて呼んだらダメだよ」


 気を付けますとアルフェが言うと、イルゼはさも可笑しそうに笑った。


「あははっ、面白い子なんだね。表の通りに沿って歩けば海だけど、もう暗くなるから、今日は止めておきなよ。夜の海は怖いものが出るから、近寄っちゃいけないって言うでしょ」


 その忠告に、アルフェは曖昧な微笑みを返した。

 それからイルゼに勧められた宿に部屋を取り、黒馬のイコをそこに預けると、アルフェたちは冒険者組合に戻った。


「パッサウ名物の魚貝尽くしで~す!」


 幾つもの皿を同時に運んできたイルゼが、料理を次々とテーブルに並べていく。

 彼女が腕によりをかけたという海鮮料理は、確かに美味だった。イルゼが自分たちに、これほど手間をかけてくれる理由をフロイドが尋ねると、ちょうど他の冒険者が出払っていて暇だったからだという答えが返ってきた。

 実際、彼女の言葉通りに組合の建物は閑散としていた。その中で、中央の広々としたテーブルを占拠する形で、アルフェたちは食事をしている。


「いつもこうじゃないんだけど、商船の関係とか、トリールの戦争とかで、たまたまね。戦争は終わったみたいだし、あっちに行ってた人たちも、じきに戻ってくるんじゃないかな」


 パッサウの冒険者組合は、商船ギルドが運営を兼ねていた。イルゼの父親は、商船ギルドの顔役の一人なのだという。

 イルゼは給仕の仕事をしながら、彼女自身も料理を口に運んでいた。


「お兄さんは行商人じゃなくて冒険者なんでしょ? 妹連れで冒険者してるなんて、珍しいね」

「よく言われるよ」

「何それ、カッコつけちゃって。それにしてもアルフェちゃん、よく食べるねぇ。そんなに細いのに、どこに入ってくの?」


 その後も、会話というより、イルゼが一人で盛り上がる感じで、その日の夕食は終わった。


「先に戻っていてください」


 夕食後、既に日は完全に落ちていたが、アルフェはフロイドを先に宿に帰すと、イルゼに教えられた通り、表通りを海に向かって歩いた。

 星と月明りだけを頼りに暗い道を進むと、ざあざあという聞き慣れない音が聞こえてきた。都市に入る前からずっと感じていた匂いが、濃くなっていく。

 そして、街並みが開けたとアルフェが思った先に、海があった。


「…………」


 果てしなく黒いというのが、アルフェが生まれて初めて見る、海の感想だった。

 アルフェがたどり着いたのは、煉瓦造りの倉庫が並ぶ、中規模の埠頭だった。波が埠頭に跳ね返って、ちゃぷちゃぷと音を鳴らしている。桟橋の向こうで、海の水以上に黒く見えているのは、係留されている商用の帆船だ。

 夜中だが、港には何人か、荷揚げ人足や衛兵らしき人間がいた。アルフェは彼らを避けるように、暗い海を横目に埠頭を歩いた。


 ――……砂?


 舗装された道が途切れると、足元が細かい砂になった。砂浜というものだ。アルフェはこれも、体感するのは初めてだった。

 砂浜にはぽつぽつと、数人乗りの漁船が放置されている。人の気配がしなくなったので、アルフェは改めて、ゆっくり海を眺めることにした。

 海は、やはり黒かった。海の水は奇麗な青、または明るい緑だと聞いていたのだが、光の無い夜に見るとこんなものなのだろう。沖の方には、船よりもずっと大きな影が見える。何だろうと考えているうち、あれが島というものだろうかとアルフェは思った。川の中州とは、ずいぶんと感じが違う。そして天上には、一面に星が瞬いている。時折、その中の幾つかが流れて、黒い海の中に吸い込まれていく。


 ――この風景は、あの深淵に似ている。


 アルフェは、キルケル大聖堂の地下で見た巨大な空間を思い出した。切り立った崖と、その向こうに広がる、どこまでも底の見えない暗闇。暗闇の奥から感じる、根源的な恐怖。それと同質のものを、彼女はこの海に感じたのだ。

 この海は、北大陸に繋がる内海である。ここを西にずっと進み、帝都の北西にある海峡を越えると、内海から外海へと出ることになる。

 内海は外海と違って波が穏やかで、それ以上に、船舶の航行を脅かす水棲の魔物が出ない。それは結界があるからではなく、単に海というのがそういうものだからと本で読んだ気がするが、ひょっとしたら違うのかもしれない。


 ――この海の底にも、もしかしたら……。


 この黒い海の深みにも、大聖堂の地下にいた巨獣と同じような、果てしなく強大な生き物が眠っているのかもしれない。それどころか、眠らずに起きていて、今も自由に泳ぎ回っているのかもしれない。

 幻術士ディヒラーは、あのとき、結界と大聖堂の真実を己の目で確かめて、狂ったように笑っていた。あの男は、ずっと焦がれていた世界の真実を目にすることができて、さぞ嬉しかったのだろう。それを明らかにするために、ベレンを罠にかけ、クラリッサとイエルクの命を奪う事も厭わなかった。ディヒラーにとっては、その目的を達成することが、あの家族の命よりもはるかに重要だったのだ。

 アルフェもそうだ。

 師の仇を討ちたい。いや、もっと単純に言えば、ただ己の憎しみを晴らしたい。怒りに任せて、コンラッドを殺した魔術士の身体を引き裂いてやりたい。そう願っている。そしてその身勝手で独善的な目的を達成するために、人間、魔物を問わず、多くの命を奪ってきた。コンラッドが、そんな生き方をアルフェに望まなかった事など、百も承知で。

 お前は優しい娘だと、死の間際にコンラッドがアルフェに伝えた言葉を、彼女は皮肉にも、ディヒラーの幻影の中で思い出した。思い出したと言うより、意図的に目を背けていた事に気付かされた。

 コンラッドは息絶える前にアルフェに感謝し、自分の技を世の中に残してくれと、間違った事に使わないでくれと、ただそれだけをアルフェに願った。アルフェは海を見ながら、唇を引き結んだ。

 今もアルフェには、すぐそこの波打ち際に、あの深淵の側で転げまわりながら笑っていたディヒラーの姿が見える気がする。


 ――私が、あなたに似ている? 私が、あなたと同じ?


 己のために、他人の生命や幸福を踏みにじる。それを喜びと感じる、ひどく浅ましく、醜い姿。


「それくらい……言われなくたって、知っています」


 しかし、どんなに目を逸らし耳を塞ごうと、それが自分の姿なのだ。

 アルフェは暗闇の中で、拳を握りしめながら俯いた。

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