第143話

「お兄ちゃん、あの黒髪の人、大聖堂でも見たよ」


 サンドライト家の夕食の席で料理を取り分けながら、ステラがマキアスにそう言った。

 マキアスが訓練所でシモンやランディと会う数日前、彼は帝都の実家に帰っていた。ステラは久しぶりの兄との食卓のため、無い料理の腕を振るった。その結果、悲惨と形容するしかない晩餐が完成したのだが、その事を予想していたマキアスは、あらかじめ外で出来合いの食物を買っておき、それもテーブルの上に並べたため、辛うじてバランスを取ることに成功していた。

 食事中にステラが話題にしたのは、この帝都における、兄妹の共通の知り合いであるメルヴィナの事だ。


「メルヴィナさんが? 魔術の勉強かな」

「そうかも。フードを被ってたから、最初あの人だって分からなかったよ」

「そうか……。まあ、あの髪だからな。目立ちたくなかったのかもな」


 ステラの創作料理を食べきるのに悪戦苦闘しながら、むべなるかなとマキアスは言った。

 黒い髪の人間が不吉だという迷信は帝国内に未だ根強く、教会の中ではそれがより顕著だ。そんな場所で髪を人に晒したくないという彼女の気持ちは、容易に理解できる。


「いっそ、切ったり染めたりしないのかな。そうすりゃ別に、誰にも何も言われないだろうにさ」

「お兄ちゃん、そんなこと女の人に言っちゃだめだよ。テオドールさんも怒るよ」

「どうして」

「君はそのままでいいんだ、くらい言ってあげなきゃ」

「そういうもんなのか」

「そうだよ」


 マキアスの親友の名前を引き合いに出し、ステラは彼を叱った。

 今彼らの話に出てきたテオドールは、少し前までは、たまにこの家にも顔を見せた。皇帝の血を引くというテオドールの本当の身分を、ステラは知らない。だから彼女は純粋に、テオドールのことをただの兄の友人と考えている。


「結局お兄ちゃんはさ、そういうところが分かって無いよね。女心がさ。テオドールさんを見習ってよ」

「ふん、好きに言えよ。――それに、そういうことをメルヴィナさんに言うのは、俺以外に居るから、別にいいのさ」

「え、何、その話」

「さあね」

「そこまで言ったんなら聞かせてよ!

「嫌だね。何しろ俺は、分かって無い男だからな」

「あー! そういうこと言うんだ! ケチ!」


 世の中の兄妹が、皆こんな感じなのかは分からない。だが、両親を小さい頃に亡くしたこの二人にとって、この世に残った肉親は、唯一お互いだけだった。彼らが今居る家は決して立派ではないが、若い二人には広すぎるくらいだ。

 だから彼らは、こうやって賑やかに話すことで、二人だけの食卓を精一杯に明るくしていた。

 ところで、マキアスがステラにほのめかした話というのは、メルヴィナに次いでヴォルクスを訪ねて来た青年の事だ。メルヴィナはこの帝都で、誰かが来るのを待っていると言っていた。先日、ついにその人間がやって来て、マキアスは、ヴォルクスによってその男に引き合わされた。

 クラウスと名乗る、マキアスやメルヴィナと同年くらいの青年がそれだ。

 その青年は、留学しているメルヴィナの付き人のようなものだと、ヴォルクスはマキアスに説明した。やけに物腰が丁寧だというのが、マキアスのクラウスに対する初対面の印象だったので、それは納得だった。


 ――付き人ってことは、もしかしたらメルヴィナさんは良い家の娘さんだったのかな。


 従者がいるという事は、メルヴィナはそれなりの家――貴族か、少なくとも富裕な商家の令嬢という事になる。ただメルヴィナについて、何となくマキアスは、彼女が平民の出のように思っていたので、少し意外な感じがした。

 帝都に到着して以来、クラウスという青年はメルヴィナの従者として、常に彼女の三歩後ろを歩いている。メルヴィナとクラウスは、当然のことながら、帝都に来る前からの長い関係のようだ。

 以前は常に手持ち無沙汰そうにしていたメルヴィナだったが、クラウスが来てから本格的に彼女の勉強が始まったようで、神殿騎士団以外にも、帝都の大聖堂に頻繁に出入りして忙しそうにしている。

 それまで、メルヴィナはしばしばマキアスの訓練を見学していたのだが、クラウスが来てからは、それもぱったりと途絶えた。治癒術の手ほどきをするというメルヴィナとの約束も、中途半端に終わった形になる。

 正直に言えば、マキアスの中には、折角彼女と打ち解けたところなのにという思いが僅かにある。あの、最初はおどおどとしていたメルヴィナが、ようやく普通に会話に応じてくれていた所なのだ。そんな風に、下心とは別の、言ってみれば小動物に対する庇護欲のようなものをメルヴィナに感じていた。


「……ステラ、ちょっといいか」


 だがマキアスには、メルヴィナの事を考える以前に、目の前に控えた重要な課題があった。今はそれを、妹に伝えなければならない時だ。彼は今までの雑談の内容をすっぱりと忘れて、表情を引き締めた。


「何? 急に真面目な顔して」

「兄ちゃんな、これからしばらく、家に帰ってこれない」

「……いつもそうじゃない」


 マキアスは、ステラが怒ると思っていたが、彼女は寂しそうに笑っただけだった。何も事情を説明せずとも、彼女は彼女なりに、兄のやろうとしていることが、兄にとってどれだけ大切なのかを理解し、受け止めようと思っているのかもしれない。今の笑いは、抑えきれない寂しさが出てしまったという感じだった。


「危ないところに行くの?」

「危なくはないって。でも、ちょっと長くなるかもしれないからさ」


 マキアスは嘘をついた。

 今から彼が向かうのは、訓練所で鍛えているより、余程危険を伴う場所だ。基礎訓練もそろそろ終わりだと言って、ヴォルクスが、マキアスにそこに行くように命じた。


 ――実際に場数を踏まないと、強くなれるものもなれないからね。


 相変わらず簡単な調子で、ヴォルクスはそう言った。


 ――竜窟に潜ってくるんだ。……かなり奥に行ってもらうぞ。


 竜窟。その名前を聞いて、マキアスには訓練時代の悪夢が蘇った。

 神殿騎士団の騎士候補生は、帝都の騎士団本部で基本的な訓練を行う。だが、ダミーや人間同士でたたき合っていても、腕を磨くには限界があった。神殿騎士は、魔物や死霊を相手に戦うことも多い。人間同士では、そういう経験が全く身につかないからだ。

 それに、訓練は所詮訓練だ。実戦に勝る経験は無い。

 しかし帝都は結界の中心にあり、魔物と戦える場所など、当然存在しない。そこで騎士団が使うのが、竜窟と呼ばれる魔穴だった。そのダンジョンは、帝都の港から、船で数時間の場所にある。その海の上に浮かぶ小島に、魔物が大量に潜む大洞窟への入り口があるのだ。

 基礎訓練が仕上がる段階になると、騎士候補生たちはチームを組んで、その竜窟に潜らされる。暗くて深い洞窟の中を、数日かけて探索するのだ。その時点では、比較的浅い場所の探索に限られる。それでもしばしば死人を出すことがあると言えば、どれほど過酷な訓練かは想像できるだろう。

 候補生が立ち入る事を許されていない、いくつかの封印で区切られた奥に進めば、より一層の危険が待ち受けているはずだ。しかも、「かなり」奥とヴォルクスが言う以上、どんな目に遭うことになるか。


「ちゃんと帰ってくるから、心配するなって」


 だが、マキアスがステラに投げかけた、この言葉は嘘ではない。少なくともマキアス自身は、絶対に妹の元に帰ってくるつもりだった。


「……うん、分かった」


 ステラが笑顔を見せたのは、そんな兄の気持ちを汲み取ったからだろうか。


「でも、出発する前に、もう一回会えないかな」

「ん? ああ、騎士団本部に来てくれるなら……。どうした?」

「渡したいものがあるの」


 その夜の会話は、それで終わった。

 そして数日後、マキアスを尋ねて、ステラが騎士団本部を訪れた。


「はい」

「なんだ、これ」

「お守り」


 ステラがマキアスに手渡したのは、小さな布の袋だった。掌に収まる大きさで、触った感じ、中に何か硬い物が入っている。マキアスは素直に礼を言った。


「……ありがとう。開けていいのか?」

「いいよ」

「……これって」


 中に入っていたのは、透き通った翠色の宝石だった。翠の光は、森の中の木漏れ日のようにほのかに揺れている。宝石自体、どこで手に入れたんだと言いたくなるような代物だったが、それ以上に――


 ――なんて魔力だ。


 マキアスは目を疑った。

 この宝石の中には、恐ろしい程に濃密な魔力が凝縮されている。最高位魔術に匹敵する量と密度だ。そして、マキアス自身も使い手だから分かるのだが、この魔力の形は、癒しの力だった。


「エウラリア様にいただいたの」

「お前、それは――」


 ずいぶんな無理をしたものだと、マキアスは言葉を詰まらせた。

 エウラリアと言えば、総主教と並ぶ神聖教会の重要人物、聖女エウラリア以外にこの世に居ない。世界最高の治癒術の使い手にして、聖女の称号が持つ印象通りの、博愛的な人物。

 位階的には、パラディンよりも上に位置する。マキアスの身分なら、会えばひざまずいて頭を垂れなければならない。

 いつの間にとか、どうやってこれをとか、そんな事を聞くのをマキアスはやめた。これをこうして用意して来るくらい、自分は妹に心配をかけているのだ。


「ありがとう」


 ならば、そう言うのが、兄としての務めだ。


「あと、これも……。エウラリア様のものがあるから、要らないかもって思ったけど」


 はにかみながらステラが差し出したのは、煎じた薬草だった。

 こちらの方は、さっきの「お守り」に比べれば、ひどくありふれたものだ。この二つを並べるのは、ステラは照れくさかったのかもしれない。だがマキアスにとっては、むしろこの薬草の方が、はるかに心を打った。

 マキアスは、ステラの後頭部にそっと手を回し、彼女の額を自分の胸に押しつけた。


「お兄ちゃん……?」

「……俺は、お前を心配させてるな」

「……私も、家出した時に、お兄ちゃんに心配かけたから。その時のこと、まだ、謝ってなかったから。……ごめんなさい」

「いいんだ。お前が無事だったんだから。それでいいんだ」


 ステラの亜麻色の髪を撫でながら、マキアスは、自分が妹に伝えなければならないことがあることに気が付いた。彼は、ステラの耳に染み入るような声で囁いた。


「ステラ、俺は今、やりたいことがあるんだ」


 今までは適当にぼかしていたが、はっきり伝えておくべきだ。マキアスはそう思った。


「お前も知っている、アルフェという娘の事だ。俺は、あいつの力になりたい。そのために、俺は自分を鍛え直している。あいつには今、助けが必要なんだ」

「……うん」

「でも、今の俺じゃ、それはできない。今の俺は、弱すぎるから。だから、鍛えなきゃならないんだ」

「……」

「そのために、お前に心配かけるのは、すまないと思ってる。でも俺は騎士として、あの娘や、あの娘を待っている奴らを、助けてやりたいんだ。だから、強くならなきゃいけないんだ……!」


 ステラはマキアスの胸に額を当てたまま、分かったと言った。


「私だって、アルフェちゃんは友達だから。……でも、無茶しないでね」

「少し、するかもしれない。でも、お前が心配しているようなことには、絶対にならないから」


 ステラを胸から離すと、マキアスは努めて明るい笑顔を見せた。

 それで一応は気が済んだのか、ステラは教会の治癒院に帰っていった。


 マキアスは、妹に話せて良かったと思った。最近の自分は、自分一人で思い詰めて、無闇に己を痛めつけ、それでどこか自己満足をしていた気がする。しかし今日ステラと話せたことで、何か目の前が開けたように感じられるのだ。

 ヴォルクスに課せられた竜窟探索の試練も、この感じならやれる気がする。出発の前に、大きな勇気をもらった気分だ。

 マキアスは、妹にもらった品々を懐に入れ、確かな足取りで歩き出した。


「…………げっ」


 しかしそこに折り悪く、マキアスの気分に水を差す人間が現れた。

 あの桃灰色の髪は、パラディンのロザリンデ・アイゼンシュタインだ。そして珍しいことに、ロザリンデは彼女の方から、マキアスに話しかけてきた。

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