第142話
最年少のパラディンにして、同時に唯一の女性でもあるロザリンデ・アイゼンシュタインは、男嫌いで有名だ。
この“嫌い”というのが、単なる好き嫌い程度であればいいのだが、彼女の場合は少し違う。ロザリンデの嫌いというのは憎悪に等しい。恐らくロザリンデは、老若問わず、この世の男全てを憎んでいる。
それは、同僚のパラディンであるランディたちとて例外では無い。まあ、ランディは正直、特にロザリンデの嫌いな、だらしないタイプの男だったのだが、それにしてもだ。初対面のパラディン第三席に、ドブで死んだネズミを見る目を向けて、露骨に舌打ちしてくるような娘は、帝国広しといえどそうは居ない。
ランディは、ロザリンデと初めて会った時の事を思い出すと、決まって次のような考えにたどり着く。
こんな娘に、惚れる男がいるのかよ、と。
柔らかく揺れる桃灰色の髪。長いまつげと輝く瞳。出るところの出た娘らしい体つきや、清楚な御令嬢と形容するのが相応しい淑やかな立ち居振る舞い。見た目だけなら、ロザリンデは上々と言える。
ただし、見た目だけなら。あくまでも、見た目だけなら。
尻に手が触れたとか視線が汚らわしかったとかでロザリンデの逆鱗に触れ、ほぼ再起不能になった男は騎士団にも何人か居る。この娘がパラディンで、代々の名家アイゼンシュタインの一人娘でなければ、大問題になったところだ。
ロザリンデの本性を知った上で、これに惚れる者などこの世に存在しない。ランディは、ある時まではそんな風に思っていた。
そう、この世は広い。やっぱり物好きというのはいるのだ。
「ロザリンデさん……」
彼女を見て熱に浮かされたようにつぶやく、ランディのもう一人の同僚がそれだ。
パラディン第七席のシモン・フィールリンゲルは、ロザリンデに恋をしていた。それはもう熱烈にだ。ロザリンデがパラディンになってからしばらくして、シモンは彼女に心を奪われた。
シモンは当然、ロザリンデの男嫌いも知っている。だがそんな事は関係ない、自分の想いの前には些細なことだと、いつだかシモンは言ってのけた。今もシモンは、遠くにいるロザリンデを見つめながら、息苦しそうに片手で胸を押さえている。
「やれやれ……」
ランディは、シモンの趣味の悪さに呆れながらも、憐れみの混じった複雑な視線を彼に向けた。折角、絶世の美青年に生まれながら、あんな女に心を奪われてしまうとは。世の中って奴は理不尽だとランディは思った。
しかしそれにしても、ロザリンデが男とやり取りしている様子を見るのは珍しい。あれは任務上のやむを得ない状況でしか、男と口を聞こうとしない娘のはずだ。
――あれは確か……、ヴォルクスの部下か。
ロザリンデの相手をしている青年に、ランディは見覚えがあった。
「ロザリンデさん。誰なんですか、そいつは」
そうつぶやいて、シモンは拳を握りしめた。その切なそうな目は、早速あの男とロザリンデの関係を疑っているのだろう。
恋は盲目とはよく言ったものである。ロザリンデと話している青年は、どう見たってロザリンデを前にして怯えている。あれが正常な反応だ。恋仲とかなんとか、とにかくシモンが危惧するような関係ではあり得ない。
「お」
ランディの口から、思わず声が出た。
シモンが決意した表情で、運動場を斜めに突っ切るように歩き出したのだ。
「仕方ねぇか……」
ランディはため息をついた。
うっちゃっておけば良いとも考えたが、ここでパラディン二人が痴話喧嘩でも始めたら、それこそ総長から大目玉を食う。少し遅れて、ランディもシモンの後ろを歩き出した。
「ロザリンデさん」
ロザリンデと男に近づくと、シモンが優しく声をかけた。その声と彼の笑顔は、貞淑な人妻であろうと恋に落ちると言われる、一種の凶器だ。ランディもたまに羨ましく思う。
「…………フィールリンゲル卿」
だが、振り向いたロザリンデの顔には、一瞬吐き気を催したような表情が走った。つまり、ロザリンデはいつも通りだ。
「ロザリンデさん、お帰りなさい。任務、お疲れ様でした」
「……ええ。お気遣い、ありがとうございます」
――いや、ありがとうとか嘘だろ。お前絶対、「馴れ馴れしく話しかけるな」としか思ってないだろ。
シモンの心からの労りの言葉に、ロザリンデは極めて事務的な口調で、表面的な社交辞令を返す。ランディは、かみ合わない二人の会話を、心の中で突っ込みを入れつつ、頭の後ろをぼりぼりと掻きながら聞いていた。
今までロザリンデと話していた青年は、パラディン三人に取り囲まれる形になって、見るからに慌てている。こいつにも悪い事をしたなと、ランディは気の毒に思った。
「ロザリンデさんは――」
「お待ち下さい。私とフィールリンゲル卿は、ただの同僚ですよね? もう少し、節度を持った呼び方をして下さいませんか」
今のロザリンデの台詞は、平たく言えば、「気色悪いから名前で呼ぶな」という意味である。シモンはぐっと言葉を詰まらせた。
「まあまあ、アイゼンシュタイン。そんな邪険にしてやるなよ」
「……チッ」
「いや、チッってお前……」
助け船を出したランディに対するロザリンデの態度は、シモンに対するそれよりも、数段厳しかった。ロザリンデはランディを見ると、一度だけ舌打ちをして、彼を視界から消した。
「アイゼンシュタイン卿、僕は――」
シモンはロザリンデの呼び方を、家名に切り替えた。しかし相変わらず、その声には熱が籠っている。
シモンの視界にも、既にランディは映っていない。俺は一応お前らの先輩で、十以上も年上なんだぞと、ランディは拗ねた。そして彼は、同じく二人の視界から消えている、ヴォルクスの部下に声をかけた
「悪いなぁ、変な事に巻き込んじまって」
「バ、バックレイ様。いえ、私は大丈夫です!」
「そんなかしこまるなよ。仲間はずれ同士、仲良くやろうぜ」
ロザリンデに熱く語りかけるシモンを放って、二人はちょっと離れた塀際まで移動した。
「お前は、ヴォルクスの部下だな」
「マキアス・サンドライトです! 本日は、お目にかかれて光栄で――」
「気楽にしろって。あいつらの話が終わるまで、暇つぶしに付き合ってくれよ」
話というよりかは、シモンが一方的に話しかけ、ロザリンデは彼に、爬虫類か何かを見るような目を向けているだけだ。ロザリンデはシモンの声を、人間の言葉として聞いていない。だがここは、後輩の気が済むようにさせてやろうとランディは思った。
「お前、アイゼンシュタインの何なんだ?」
「え?」
「いや、今のは誤解させちまうよな。あの娘が、俺たち以外の男と話すなんて珍しいだろ。だからな、気になったんだ」
真面目な話、ロザリンデと会話を成り立たせる事が出来るのは、総長とパラディンの面々以外には僅かしか居ない。マキアスという青年は事情を説明した。
「先日バルトムンクで、アイゼンシュタイン様の下で任務に就きました」
「ああ、アイゼンシュタインは、バルトムンクに行ってたんだっけか」
「はい。多分それで顔を覚えていただいたのと……。あの、私の妹の事を、聞かれていました」
「妹?」
ちょっと考えて、ランディは思い出した。この若い騎士はマキアス・サンドライトと名乗った。サンドライトと言えば、教会に有名な娘が一人いる。
「ステラ・サンドライトの兄貴か」
「はい」
「なるほどねぇ」
ランディは塀に寄りかかり、どうりでなとつぶやいた。
ステラ・サンドライトは、教会に所属する若い治癒士の中でも、飛び抜けて有望な才能を持った少女だ。そしてついでに、ロザリンデが興味を持ちそうな可愛らしい娘だとも聞いている。ロザリンデが、わざわざこの青年に話しかけた理由を、ランディは理解した。
「お前も災難だなぁ」
マキアスはその言葉を否定せず、苦笑した。
「待って下さい、アイゼンシュタイン卿!」
そこで、悲壮感溢れるシモンの呼びかけが響き、ランディとマキアスはそちらに目を向けた。
「もう少し、お話を……」
「どうせ嫌でも会議で眼を合わせるのですから、その時で良いのでは?」
「ですが……」
丁度シモンがロザリンデに振られたところだ。ランディにとっては、彼らが顔を合わせる度に起こる、いつものことである。
「じゃあな、マキアス」
青年の肩を叩いて、ランディは塀に寄りかかるのを止めた。
「私は先に失礼いたします」
社交辞令と分かる笑みを浮かべ、ロザリンデはシモンとの話を切り上げた。シモンは、これはひょっとしたら泣き出すんじゃないだろうかと、隣で見ていた男二人に思わせる表情をしていた。
しかし今日は、シモンにとって、もっと悪い事が起きた。立ち去ろうとしたロザリンデが、思い出したようにマキアスの方を向き、ああそうでしたと、言葉をかけたのだ。
「お話、ありがとうございました。マキアスさん」
「――!!」
「――!!」
「は、はい。いえ、とんでもないです」
驚愕したのはランディとシモンの両方だった。
ロザリンデが、総長やパラディン以外の男の顔を覚えていて、しかも家名ではなく、名で呼んだ。それに加えて、ありがとうと礼を言った。これは、曲がりなりにも彼女を知るランディとシモンにとって、真夏に雪が降る以上のあり得ない事であった。
「ステラさんに、くれぐれもよろしくお伝え下さい」
例え目当てが、男の妹であってもだ。
ランディですら雷が落ちたような衝撃だったのだから、彼女に恋するシモンにとっては、天地がひっくり返ったようなものだろう。シモンは声も無く、ぱくぱくと口を開け閉めしている。
「おい、お前はもう帰れ」
ロザリンデが姿を消したあと、ランディはマキアスに対し、乱暴な調子でそう言った。だがそれは、むしろ彼を守るためであった。シモンの様子が、明らかにおかしい。マキアスにもそれは分かったのだろう。彼はランディの勧めに従って、そそくさと運動場をあとにした。
「ランディさん! あの男は――ッ!?」
シモンが正気を取り戻した時には、既にランディ以外の姿は影も形も無い。ランディはとぼけた。
「さあなぁ、きっと帰ったんだろ。お前が一時間も突っ立ってるから――」
「逃げたのか卑怯者め!!」
「いや、違う、違うぞシモン。お前の誤解だ。いいから聞けよ。あの男の妹が、アイゼンシュタインのお気に入りで――」
激昂するシモンをなだめすかし、ランディは事情を説明した。その甲斐あって、段々とシモンはわめくのをやめた。だがその代わり、彼はうつむいてブツブツとつぶやき始めた。
「なぜ、なぜですか、ロザリンデさん。僕を差し置いて、あんな男に、君に名前を呼ばれるという栄誉を与えるなんて……。ああ……」
「まあ、気にすんなよ」
「僕なんか、呼ばれたことも無いのに。僕はいつでも、君のことしか考えていないのに……。君のためなら、僕はパラディンの椅子も、騎士の身分なんかもどうでもいいのに……!」
パラディンとして、お前の方が、俺よりよっぽど不真面目な事を言っていると、ランディは複雑な表情をした。だが、これもいい機会かもしれない。ランディはシモンの肩をぽんぽんと叩いた。
「なぁ、前から言おうと思ってたんだがな。アイゼンシュタインはやめておけって。お前なら、他にいい女がいくらでも――」
「ロザリンデさんより素晴らしい女性など、存在しないッ!! ロザリンデさん以外の女など、全て醜い淫売でしかないッ!!」
「――分かった。分かったから落ち着け。な?」
「大丈夫ですランディさん。僕も分かっています。大丈夫です。あんな男なんか問題じゃない。僕たち二人の邪魔をすることなんて、あんな男にはできない。分かっていますよ」
「……お前、血迷って、あの男を刺したりするなよ?」
鬼気迫るシモンの様子に、流石にランディは釘を刺した。女を取り合っての流血沙汰など、そんな面倒な事は御免こうむる。
だが、シモンは笑った。
「いやですねえ、そんな事はしませんよ。分かっています。それよりランディさん、もっといい話があるんです。聞いてください」
「なんだよ」
「今回は、僕も久しぶりの帝都ですからね。機会は逃しちゃいけません。だから先日、アイゼンシュタイン様に会って来ました」
「は?」
いきなりな話である。しかし、ランディは理解した。この文脈でアイゼンシュタイン様とシモンが呼ぶのは、きっとロザリンデの事では無い。
「アイゼンシュタインの親父さんか」
「ええ、そうです」
「どうして」
「決まってるでしょう。そろそろ、僕たち二人の将来について、真面目に話し合う必要があるからです」
「決まってるのか。どうも話が高度すぎて、俺には分かんねぇな。……で、親父さんと何を話して来たって?」
そう聞きながら、ランディは内心で冷や汗を流していた。
――ついにやっちまったか。
シモンは今年で二十五歳。この歳の男が、貴族令嬢の父親に、娘のことで話すことと言ったら一つしか無い。
「ロザリンデさんとの婚約を、正式に申し込んで来ました」
シモンはやり遂げた表情で言った。対称的に、ランディは諦めた顔でつぶやいた。
「……ああ、そう」
「その場での返事はいただけませんでしたが……。僕はパラディンですからね。アイゼンシュタイン様なら、必ず受けてくれるでしょう。見たかあの男め……! お前なんかが、僕とロザリンデさんを引き裂けると思ったのか?」
さっきから見せている、これがシモンの本性である。ロザリンデに惹かれるだけあって、彼も十分に異常だった。
「ああ、それにしてもロザリンデさん。この話を聞いたら、君はどう思ってくれるだろう!」
シモンは恍惚の表情を浮かべ、空に向かって叫んだ。
普通の異常者なら、きっと喜んでくれるとかなんとか言うだろうが、シモンは違う。彼は異常に輪をかけた性癖の持ち主だった。
「ロザリンデさん、きっと君は、心の底から嫌がってくれるだろうなぁ!」
その時の君の顔を見てみたい。その時の君は、どんな目を僕に向けてくれるだろうか。そう言うシモンの顔は輝いていた。
どうして俺の同僚は、こんなにこじらせた変態ばかりなんだ。
ランディは、頭が痛くなる思いだった。
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