第124話
冶金の都、火と鉄の町。それはどちらも、ノイマルク伯領の首都ブレッツェンを指す言葉である。
ノイマルク東部の鉱山地域で産出された各種鉱石は、大部分が一度、この都市に運ばれる。ここで鉱石は製錬され、地金や武器、農具や日常の道具などになって、各地域に輸出されていくのだ。
遠目からブレッツェンを眺めると、いつ見ても、赤い煉瓦造りの煙突から上がった幾筋もの煙が、空に向かってたなびいていた。それだけで無く、都市の中は煙によって、薄くもやがかかったようになっている。その煙のほとんどは、鉱石を溶かし、鍛えるために燃やされた石炭や木炭から出ているのだ。
ノイマルクを統治するノイマルク伯ルゾルフは、都市ブレッツェンの中央、深い堀に囲まれた城の中に住んでいる。
領境のグロスガウ砦から、夜通し馬を走らせたベレンは、軍監が命令を伝えに来た翌々日には、既にブレッツェンに着いていた。途中で馬を取り替えたものの、一頭は潰れてしまった。
たった数日とは言え、ベレンが前線にいないということは、ノイマルク軍にとって大きな隙になる。トリールの女伯ヨハンナが知れば、どんな行動をとってくるか分からない。だからベレンはすぐにでも主君の用を済ませ、さっさと砦に戻りたかった。
「入るがいい」
城に入ったベレンが、ルゾルフの私室の扉を叩くと、そんな言葉が帰ってきた。ルゾルフ本人の声ではなく、ベレンも知る近臣の一人――宮宰の声だ。
「失礼します」
ベレンが扉を開けると、優雅なハープの音が、彼の耳に入った。
「筆頭将軍ベレン・ガリオ、お呼びに従い参上しました」
「早かったな、将軍。だが、伯はあの通りお忙しい。少し待ってもらおう」
「は……」
老いた宮宰の言う通り、確かにルゾルフは忙しそうだった。ベレンよりも一回り年嵩の、立派な口ひげとあごひげを蓄えた伯は、豪勢な騎士服を着て、これも豪勢な鞘の剣を杖代わりに立ち、静止したまま宙をにらんでいる。
彼の背後には赤い幕が掛かっていて、その前にいるのは……画家だ。
「ルゾルフ様、もう少々胸を張って、拳に力を込めて頂けますか。――ああ! 素晴らしいですね。大変素晴らしいです」
ルゾルフの肖像を描いている画家が、伯にポーズの注文を付けている。ベレンは部屋の入り口付近に立たされたまま、ちらりと画家の絵をのぞいた。何割増しかに美化されたルゾルフの姿が、キャンバスの上に英雄的に描き出されている。
美化は肖像画にはつきものだというが、これはちょっとやり過ぎではなかろうかと、ベレンは心の中で眉をひそめた。
至急来いとベレンを呼びつけたはずのルゾルフは、そのまま二時間ほど画家のモデルをやっていた。休憩の時にベレンが話しかけようとしても、宮宰がそれを制止する。仕方がないので、ベレンは伯に付き合って、ずっと部屋の入り口で直立していた。
「どうだ将軍、この絵のできばえは」
モデルを終えたルゾルフの、ベレンに対する第一声がそれだった。ベレンは正直に答えた。
「いえ、私は芸術のことは良く分かりません」
「だが、戦場のことはよく知っているだろう。背景はどうだ?」
「背景……?」
ベレンはもう一度肖像画を見た。この絵の背景は、なぜか室内ではなく戦場である。伯の周りに倒れた敵や、味方を助け起こそうとする兵士などが、ドラマティックに描写されている。
きれいな絵だ。ベレンが抱いた感想は。絵を褒めるものではなかった。
伯の肖像と同じように、戦場の様子もかなり理想化されていると、ベレンは思った。人間を相手にするにしても、魔物を相手にするにしても、戦場というのはもっと陰惨なものだ。
だがしかし、その感想を口にするよりも、ベレンには先に聞くべきことがあった。
「まさか、それで私をお呼びになったのですか?」
肖像画の背景について助言をさせるために、緊迫する前線から最高指揮官を呼び戻した。真実だとしたら、末代まで帝国中の語り草になる頓珍漢ぶりだ。下らない用件であって欲しいと願っていたが、ここまで下らない用件だとは、まさか予想していなかった。
「何を言っている。そんな訳があるか」
しかし、むっとした顔でルゾルフに否定されて、ベレンは胸をなで下ろしかけ――
「キルケル大聖堂にパラディンが現れたという件についてだ。私はまだ、君からその報告を受けていないが、これはどういうことだ? 将軍」
次にそう言われて、やはり絵の話であったほうが良かったと、ベレンはうなだれた。
画家やハープの演奏家を引き下がらせて、伯の私室の中には、ルゾルフと宮宰、そしてベレンの三人だけになった。椅子に座ったルゾルフと宮宰の前にベレンは立立たされ、まるで査問が始まるかのような沈鬱な表情をしている。
「神殿騎士団が俗界諸侯の争いに介入するのは、重大な越権行為のはずだ」
ルゾルフはまずそう言った。
建前上は、全くもってその通りである。教会と神殿騎士団は、基本的に俗界権力の争いに関与してはならない。
「トリールに派遣されたのは少数らしいが、その中にパラディンが混じっているとなると、数の問題ではなくなる。そうだろう、将軍。神殿騎士団はトリールに、万の援軍を送ってきたに等しい」
これもその通りだ。
今日のルゾルフは、いつものように怒鳴り散らさず、落ち着いた声と表情で、確かめるようにベレンに語っている。内容にも、否定するべきところは無い。
「そしてパラディンが駐留しているのは、キルケル大聖堂。あの周辺は本来、我がノイマルクの領地だ。にもかかわらず、トリールの女狐はこれ見よがしにパラディンをあそこに置き、我が方を挑発している。……何か間違っているか、将軍」
「……いえ、違いません」
ベレンは甘かった。
トリール伯ヨハンナが手を打っていたのだ。ブレッツェンに居たルゾルフが、エドガー・トーレスの動向をここまで知っているのは、それが原因だ。あの女は、わざと情報を流してルゾルフを煽り立て、ノイマルク側から神殿騎士団を攻撃するように仕向けるつもりに違いない。
そしてルゾルフは、見事にその挑発に乗って、ベレンに大聖堂への進軍を命じるだろう。つまり、ベレンたちがせっかく進めてきたエドガー・トーレスとの和平交渉も、これでご破算である。
「ルゾルフ様、大聖堂にいるパラディンは、第九席のエドガー・トーレスです」
しかしここで諦めれば、神殿騎士団を見方に加えた、トリールとの全面抗争が待っている。ベレンは主君の説得を試みた。
「一対一で戦っても、勝てるかどうか、私には分かりません」
「ふむ」
「報告を怠り、申し訳ありませんでした。しかし、お知らせするかどうか迷ったのは、それが原因です。トリールには幻術士のライムント・ディヒラーもおります。仮に二人を同時に相手にすることになった場合、私は確実に敗北します。そうなると……」
「確かに、パラディンと正面からやり合うのは、我が軍にとっては厳しいな」
「そうです。仰るとおりです」
ベレンは勢い込んで返事をした。では、将軍には何か考えがあるのかと、伯は柔らかい声でベレンに尋ねた。今日のルゾルフは本当に落ち着いている。
「トリール女伯が何を考えているにせよ、エドガー・トーレスには、こちらと争う意思はありません」
「どうしてそう言える。女狐は、パラディンはトリールの味方だと吹聴しているというぞ」
「それは牽制です。ルゾルフ様も仰られた通り、神殿騎士団が表立って俗界諸侯の争いに加わる事はできません。それをやれば、諸侯の反発は必至です」
こちらさえ大義名分を与えなければ、騎士団が戦闘に加わる事はできないのだ。ベレンはそれを熱弁した。
「しかし、パラディンがキルケル大聖堂に留まるのは、我が軍に対する挑発行為である事は間違い無い。将軍は、指をくわえて見ていろと言うのか?」
「トーレス卿には退いてもらいます。その条件として、トーレス卿はこちらに要求を出してきました」
「要求だと……?」
ルゾルフが鼻孔を膨らませた。これは良くない兆候だ。ここからの言葉選びは、特に慎重にならなければならない。
「トーレス卿は、騎士団総長と総主教から任務を与えられています。それは、トリールの支援ではありません」
「……」
「では、何かと言いますと……」
「言い淀むな将軍、先を言え」
「……はい。先年、領内でパラディンが死亡した事件を覚えていらっしゃいますか?」
「当然だ。……つまり奴らは、またあの件を蒸し返そうとしているのだな」
そう言ったルゾルフの顔が、怒りに赤く染まったように見えた。しまったとベレンは思ったが、怒鳴り声は飛んでこない。一瞬見えた怒りの色は消え去り、ルゾルフは口ひげをいじりながら、何やら考え込んでいる。
「――で?」
「は、はは。その事件の犯人は、まだ見つかっておりません。騎士団には、納得できないものがあるようです。それで」
「再び、我が領内を調査させろと」
「そうです、ですが――!」
ここが踏ん張りどころだと、ベレンは思った。神殿騎士団との敵対を避けるためには、ここで何としてもルゾルフに譲歩させる必要がある。
前回の神殿騎士団による調査の際、ルゾルフは領内に騎士団が入ることを嫌った。これについては、単なるルゾルフ個人の好き嫌いとは言いきれない。教会や神殿騎士団が領内で我が物顔に振る舞うのを、快く思わない領主は多い。
だが、今はそういう事を言っていられる状況ではない。
「ですがお考えを。それで済むなら安いものです。要求を呑めば、エドガー・トーレスとは敵対せずに済みます。騎士団とて、非の無いこちらを一方的に攻めることはできません。そんなことをすれば、周囲の領邦が黙っては――。神殿騎士団のことさえ解決できれば、兵の数はこちらが多い。戦況はむしろこちらに有利――」
「静かにしたまえ、将軍」
「――!」
まくし立てたベレンに対してそう言ったのは、ずっと黙っていた宮宰だ。この老臣も代々の貴族で、兵卒時代のベレンにとっては雲の上の存在だった。兵の前にいるときと違い、こういう人間の前では、どうしてもベレンは萎縮してしまう。
「し、失礼しました」
「ルゾルフ様、将軍はこう言いますが、果たして本当にそうでしょうか」
「ふむ?」
宮宰はルゾルフに顔を寄せていたが、その冷ややかな視線は、ベレンのほうを向いていた。
「神殿騎士団に領内を調べさせて、彼らがそれで満足する保証など、どこにもございません。むしろ何らかの証拠をねつ造し、言いがかりを付けてくる気かもしれません」
「そうだな。その通りだ」
「いや、それは」
反論しようとしたが、ベレンはふと、宮宰の言うことにも一理あると思ってしまった。宮宰の言葉は、成り上がり者のベレンを快く思わないが故の発言だとしても、可能性として、そういうことは考えなければならない。
「それは……そうかもしれませんが」
「将軍。君はパラディンを過剰に恐れるがあまり、判断力が鈍っているのでは?」
「な――」
「それは言い過ぎであろう。しかし将軍、そうなのだ。ノイマルクは私の庭だ。よそ者がそこを土足で調べてまわるということに対して、軽々に許可を与える訳にはいかんな」
伯は怒っていないようだったが、その言い方は断定的で、考えを変える気は無さそうだった。
ベレンは、了解しましたと力なく答えるしか無かった。
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