第120話

 木剣を持ったヴォルクスが本気を出せば、マキアスは一合も合わせられない。いや、本気どころか、彼がほんの少しその気になるだけで、マキアス程度は手もなくやられてしまう。例え向こうが丸腰だったとしても、その結果はおそらく変わらない。

 マキアスには、相手をしてくれているヴォルクスが、マキアスをうっかり潰さないように、最大級の手加減をしているというのが分かっていた。それでも稽古が終わるころには、マキアスの精神と肉体の双方は、立ち上がれないほどに削れている。


「今日は、このくらいにしておこうか」


 その日も、ヴォルクスがそう言った時には、既にマキアスは大の字になって、地面でみっともなく喘いでいた。


「うん、少しずつ剣筋が鋭くなってるよ。私も何度かひやりとした」

「はっ、はい……! ありがとう、ございます……!」


 息も絶え絶えに礼を言いつつ、ヴォルクスの言葉は嘘だとマキアスは思った。少なくとも後半部分は、完全なるお世辞だ。


「また、よろしくお願いします……!」


 しかし、寝返りを打って這いつくばりながらもそう言えただけ、今日はまだましなのかもしれない。昨日までは、声を出す事すら出来なかった。


「うん」


 涼しい顔をして木剣を置くと、ヴォルクスはそのまま訓練所を出て行った。軍団長は様々な仕事を抱えていて、非常に多忙だ。それなのに自分に付き合ってくれているヴォルクスの背中に、感謝のまなざしを送りつつ、マキアスはまた地面にへばりついた。


「…………大丈夫、ですか?」


 しばらくすると、むさ苦しい訓練所に似つかわしくない、か細い声がマキアスの頭上から降ってきた。

 この声はメルヴィナだ。彼女とマキアスは、数日前にヴォルクスによって引き合わされた。


「大、丈夫です……」


 上体すら起こせないくせに、マキアスは見栄を張ってそう答えた。実際、見栄を張れるだけの余力は残っていたとも言えるかもしれない。

 帝国流の魔術を学びに北方大陸から留学し、帝都に滞在しているメルヴィナは、もう一人、ここに誰かが到着するのを待っているのだという。他にすることが無いからと、彼女はマキアスが訓練している風景を、いつも遠くから眺めていた。

 初対面の時、訓練を見学しないかと誘ったのはマキアスのほうだったが、弱い男が一方的に叩きのめされる風景を見て、彼女は一体何が面白いのだろうか。


 ――違う、そうじゃないだろ。


 マキアスは心の中で、自分を戒めた。どうも最近、思考が自虐的だ。

 自分だって、ただ叩きのめされているわけではない。団長の動きから、確実に学んでいる。一朝一夕で簡単に強くなれるはずがないのは端っから承知していた。ならば、自虐的になっている暇すら、自分には惜しい。

 四肢に力を込めて、マキアスは立ち上がった。


「ほんとに大丈夫です。平気です、このくらい」

「……そうですか」


 もう一度繰り返したマキアスの強がりに、メルヴィナは短く返した。その声と表情からは、彼女の感情は読み取れない。


「つっ……」


 マキアスは一瞬、痛みに顔を引きつらせた。ヴォルクスは、稽古だからと寸止めしたりしない。容赦なく体に当ててくる。特に最後に胸に食らった一撃は、骨に響くほどのダメージがあった。

 思わず痛みが声に出たので、マキアスはメルヴィナの顔色を盗み見た。彼女はマキアスとは、別の方向を眺めている。恥の上塗りは、しなくて済んだようだ。

 ごまかすように、マキアスはメルヴィナに聞いた。


「寒くなかったですか」

「……はい」

「メルヴィナさんの出身の北大陸ってのは、ここよりもっと暑いんですよね。こっちの冬は平気ですか」

「……はい」

「え、と……。なら良かったです。あ~……」

「……」


 そして、一瞬で話題は尽きた。

 マキアスの妹のステラや、副官のカタリナのようにお喋り過ぎるのも困りものだが、この娘のように無口過ぎるのも、マキアスの口下手にとってはまた困る。何せこの娘ときたら、自発的に口を開くことは本当に全く無い。マキアスが質問すれば返事をするが、それも「はい」か「いいえ」くらいだ。この無口さで、よく今まで教会でやってこれたものだと思う。

 ひょっとしたら、自分が特別嫌われているのか。

 己がテオドールのように女性に好かれる質ではないと知っているマキアスは、ちらりとそう考えたりもしたのだが、好かれたり嫌われたりするほどのやり取りすら、この娘とはしていなかった。

 それに、少なくとも嫌われていない証拠に――


「俺は、もう少し訓練していきますが、メルヴィナさんは……」

「……良ければ、見学させてください」


 この通り、メルヴィナはまだマキアスに付いてくるようだ。マキアスには、彼女が何を考えているのかが、いまいち分からなかった。

 青天井の剣術場から、基礎訓練室に二人は移動した。ここには基礎体力を鍛えるための器具が色々と置かれている。この時間、利用している騎士はほとんどいなかった。

 大部屋の隅に陣取ると、若い娘の前だというのに、マキアスはためらわずに上着を脱いで上半身裸になった。このあたりが、彼が妹に、女性への配慮に欠けると言われる所以だろうか。しかし、メルヴィナは特に動じた様子もない。


「おっと……」


 裸になった自分の胸の一部が青黒く変色しているのを見て、マキアスは治癒術を唱えはじめた。生傷の絶えない騎士団では、この技能は役に立つ。そもそも彼の家系は治癒の才能に長けた者が多く、マキアスの両親も、病で死ぬ前は治癒官として教会で働いていた。


「ふう」


 彼が治癒術を施した肌が、“青黒い”から“薄赤い”くらいに変わっている。


 ――ん?


 そこでマキアスは気が付いた。メルヴィナの黒い瞳が、自分の方をまじまじと見つめている。その目線はマキアスの胸の辺り、すなわち、今しがた治癒術を施した部分に注がれていた。


「治癒術に興味があるんですか?」

「え……」


 マキアスが聞くと、メルヴィナははっと顔を上げた。

 意表を突かれた様子の彼女と目が合って、マキアスは思い出した。ヴォルクスは、メルヴィナが帝都に魔術の勉強にやってきたと言っていた。魔術に関心があって当然なのだ。


「そう言えばメルヴィナさんは、どんな魔術を研究してるんですか?」


 だからこの話題なら、彼女も食いついてくれるだろう。マキアスが質問したのは、そんな軽い気持ちからだった。


「あ……、いえ、わた、私は……」


 しかしメルヴィナは、不自然なほどにうろたえ始めた。自分の聞き方が、何かぶしつけだったのだろうか。マキアスはそう考えたが、思い当たることはない。


「私は……。私の、術は……」


 それなのに、メルヴィナの様子はますます妙になっていった。彼女は祭祀服の裾を握りしめて、今にも泣き出しそうにうつむいている。まるでマキアスに、後ろめたい何かを糾弾されてでもいるかのように。


「い、いや、俺は別に、困らせるつもりじゃ……。すみません。あの、ええっと……」

「…………」


 そしてメルヴィナは、完全に沈黙してしまった。

 聞いたら不味いことだったのだろうか。そうだったに違いない。北方の魔術事情には詳しくないが、何かのっぴきならない理由があって――。ぐるぐると思考するマキアスの前で、数分後、メルヴィナはようやく口を開いた。


「…………あの」

「は、はい」

「……破壊術や、変性術などを、少々」

「あ、そ、そうですか」


 意を決した表情で述べるには、至極普通の回答だ。あのうろたえようは、一体なんだったのか。


「破壊と変性ですか。俺は、そっちの方は全然からきしで……」

「……私も、本当に、少しなんです。……マキアスさんの治癒術の方が、私は、いいと思います」

「そ、そうですか?」

「はい。……うらやましい、です」

「うらやましい……? そんな風に言われたのは、初めてだな」

「本当です」


 妙な一幕があったものの、メルヴィナの喋りはさっきよりも滑らかになっている。泣かせてしまうかと思っていたマキアスは、その反動でかなり気が緩んでいた。


「ああ、そうだ。じゃあ、今度俺が教えてあげますよ。メルヴィナさんに」

「え……?」

「いや、だから、治癒術を。俺が、メルヴィナさんに」

「本当、ですか?」

「ええ、訓練の休憩時間にでも」


 初歩を教えるくらいなら、自分でもできる。あくまで訓練の合間という縛りだが。


「……じゃあ、もし、マキアスさんの都合が合えば」

「はい、喜んで」

「ありがとうございます」


 メルヴィナが本気にしたのか、それともただの社交辞令だと受け取ったのか、マキアスには分からなかった。しかしこの娘がこんなに明るい顔をしているのは、二人が会ってから初めてのことだ。

 良かった。これで訓練に集中できると、マキアスが笑いながら訓練器具を手に取った時、


「――げ」


 部屋の入り口に立つ、妹のステラの姿が目に入った。


「ス、ステラ……」

「……?」


 ステラは笑顔だったが、あれは明らかに怒っている。手招きをするステラを青ざめた表情で見やるマキアスを、メルヴィナはきょとんとした顔で見上げていた。

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