第119話
「ステラさん。……ステラさん!」
「え?」
「ステラさん、大丈夫ですか?」
「あ、は、はい、すみません。大丈夫です」
「本当ですか? 帰ってきてから、ずっとそんな調子ですが。そんな事では――」
ステラに話しかけた年配の女性治癒官は、手に白いシーツを持ったまま眉をひそめている。帝都の大聖堂付属の治癒院に所属している、治癒士ステラ・サンドライトは、調薬の途中で手を止めて、完全に固まっていた。それを女性治癒官は見とがめたのだ。
「大丈夫です。すみませんでした。申し訳ありません」
ステラが何度も繰り返すと、その治癒官は渋々といった感じで彼女から離れていった。治癒官の姿が見えなくなったのを確認すると、ステラは大きくため息をついた。
その背後から、ステラに話しかけた者がいる。
「やっぱり、大丈夫じゃ無いんじゃん」
「きゃっ。……ゾフィ」
背中からステラを驚かせたのは、ステラと同年代の、活発そうな女子だった。彼女もここで働いている治癒官で、帝都におけるステラの友人の一人だ。名前を、ゾフィ・コレルという。
「家出が失敗したからって、ちょっと引きずりすぎじゃない?」
「違うって、家出じゃないって言ったでしょ」
「家出じゃなきゃ、なんなのよ」
ステラの隣に座りながら、ゾフィは言った。
ステラはついこの間までおよそ一年も家を出て、帝国諸領を回り、様々な場所で治癒を施してきた。ステラがエアハルト伯領で兄マキアスに発見され、彼の部下の手によって連行されるように帝都に帰還したのが、秋の初め頃である。それから数ヶ月、冬になってもどこか気の抜けた様子の友人のことを、ゾフィは純粋に心配していた。
「いい加減、諦めなさいよ」
ステラが教会での生活に不満を抱いている。それは前々からゾフィも承知していた。端的に言うと、教会による治癒の施療費は高額で、貧民にはとても払えないと言うのが、ステラの主な不満点だ。
それは教会財政の立て直しを図るために、現在の総主教が決めた方針だ。教会も組織である以上、そこに属している自分たちは、組織の長の決定には逆らえない。ゾフィをはじめ多くの人間は、少なくとも表面上はそうやって納得しているのに、ステラは異を唱え続けていた。
そして異を唱えるだけでなく、実際に家まで飛び出してしまうとは。あの時は、ステラの友人たちは全員、度肝を抜かれてしまったものだ。
「お兄さんだって任務から帰ってきたんでしょ。しばらく大人しくしてなさいな」
干した毒消しの花を、ゾフィはひらひらとステラの目の前で振って見せた。
「うん……。でもねゾフィ、そのお兄ちゃんが問題なのよ」
「おっと」
これはやぶ蛇だったかな、とゾフィは思った。ステラが兄マキアスのことを“お兄ちゃん”と子どもっぽく呼ぶ時は、彼と何か喧嘩をした時と相場が決まっていた。しかしまあ、家族の不満を聞かされるくらいでステラの気が晴れるならと、ゾフィは相談に乗ってやることにした。
「はいはい。お兄ちゃんがどうしたの?」
「お兄ちゃんったら、先月帝都に戻ってきたんだけど、それから全然家に戻ってこないの。ずっっと騎士団に泊まり込んでるんだよ?」
ステラの説明によると、彼女の兄マキアスは、一月ほど前に神殿騎士団の任務を終えて、帝都に帰ってきた。サンドライト兄妹の家は帝都にある。彼らの両親は既に亡くなっているから、兄妹のみの二人暮らしだ。
これまで、外での任務が無く帝都に居る間は、マキアスは定期的に家に帰り、ステラの様子を見に来ていた。しかし今回はいつもと違って、一度ステラの顔を見たっきり、マキアスはずっと騎士団本部に泊まり込んでいるのだそうだ。
「たまには帰ってこないと、心配するからって言ってあるのに!」
「それ、あんたが家出した時に、ここに怒鳴り込んできたお兄ちゃんも、同じようなこと言ってたわよ」
「う……」
ぷりぷりと怒るステラに対して、ゾフィが言葉で水をかけた。
「似たもの兄妹ね。仲良くって羨ましいわ」
「うう……」
「さ、分かったら手を動かしましょ。あんたがいくら治癒術の天才でも、薬は必要なんだから」
そう言うと、ゾフィは手に持った薬草を乳鉢に投げ込む。
ごりごりと薬草をすり始めた友人を見て、ステラも作業を再開した。
ステラの家は、帝都のミュリセント大聖堂から近い場所にある。そこは住人の半数くらいが教会関係者で占められた町で、ステラは毎日そこから大聖堂の治癒院に通っていた。
夕方になり、ステラは家に帰ってきたが、今日も兄が戻っている気配は無い。ゾフィはああ言っていたが、それでもステラは兄の事が気がかりだった。
――アルフェというその娘が、何かを知ってるはずだ。俺は、そいつを追う。
そう言ってエアハルトで別れた兄が、数ヶ月経って帰ってきた。
――お、お兄ちゃん……? アルフェちゃんは……?
唐突に家に現れた兄に、恐る恐るステラがそう尋ねると、彼は一瞬凄い顔で歯を食いしばり、一言だけ答えた。
無事に生きていた、と。
「アルフェちゃん……」
そもそもどうして兄がアルフェのことを知っていたのか、そして、どうしてあれほど顔色を変えて、アルフェの行方を追う必要があったのか、ステラはまだ聞かされていない。
アルフェはエアハルトから姿を消す直前、傭兵隊長リグスの命を奪った。その場に居合わせた魔術士のリーフによると、リグスのほうが先にアルフェを殺そうとして、アルフェに返り討ちにされたのだという。
意味が分からない。彼女に人殺しなどできるわけがない。
リーフの話を聞いてそう思いかけたステラの頭に、アルフェと出会った時のことが浮かんだ。
一人で百体以上のオークを倒したアルフェ、一緒に開拓村を守るために戦ったトランジックを、賞金首だという理由で殺そうとしたアルフェ。そういう彼女を、ステラはいつの間にか忘れていた。
妹の勘として、帰ってきた兄が騎士団に泊まり込んでいる原因は、間違い無くそのアルフェなのだと思う。兄はどこかでアルフェに会って、そしてそこでまた、何かがあったのだ。帰ってきた時に見た兄の顔は、二人の両親が死んだ頃の彼を、ステラに思い出させた。
――明日、こっちから様子を見に行ってみようかな。
兄は騎士団に自分が顔を見せることは嫌がるけれど、向こうが帰ってこないのだから仕方が無い。それに、もしかしたら兄の友人であるテオドールにも会えるかもしれない。そうすれば何か事情を教えてもらえるかも……。
「うん、そうしよっと」
思いついたら、あれこれ悩む前に行動しよう。家出を決意した時と同じ調子で、ステラは一人でうなずいた。
そしてその次の朝、ステラは本当に騎士団本部の要塞ワルボルクにやって来ていた。彼女は兄のために用意した、着替えなどの差し入れを大量に抱えている。
一般人なら要塞内に入ることは難しかっただろうが、ステラはここに所属する騎士の妹だし、そもそも彼女自身が教会に属している。入り口の衛兵は、彼女を止めなかった。
勝手知ったる……と言うほどではなくても、何度か来たことはあった。兄の宿舎の位置も承知している。ステラは、まずはそこを目指して歩いた。
大荷物を抱えるステラを、不審そうに見る騎士もたまにいたが、彼女の着る教会の治癒官の制服に気付くと、そういう者も納得したような顔をしていた。
「失礼しま~す」
ノックすると、ステラは鍵の無い宿舎の扉を開いた。中には誰も居ない。部屋の住人は、あいにく全員出払っているようだ。ステラは室内に漂う空気の男臭さに、眉をひそめた。
宿舎における兄マキアスの部屋は一人用ではなく、最大で四人が使う相部屋だ。それでも、訓練生以外は宿舎暮らしを強制されていないし、休暇や要塞外での任務もある。誰も居ないのは珍しい事ではない。
兄の名前を刻印したプレートがはまっているベッドの上は、着替えなどがぐちゃぐちゃに散乱していた。
「はぁ、これだからお兄ちゃんは……」
ステラはそう言いながら、大げさにため息をついた。
持ってきた大袋に汚れた着替えを放り込み、新しい下着などをベッド下の物入れに配置していく。この辺の手際は、治癒院でみっちり鍛えられている。
「よし!」
ベッドメイクまで完了すると、ステラは満足そうに手をはたいた。彼女の早業によって、マキアスのベッドだけでなく、他の三つのベッドまでもが完璧に整えられている。
この部屋でやるべき事は終わった。次に考えるのは、ベッドの主はどこに行ったのかということだ。
「いや~、疲れた疲れた~。……うおっ!?」
ステラが思案していると、騎士の一人が独り言を言いながら部屋の中に入ってきた。彼は自分たちの部屋の中央で、腕を組んで仁王立ちしているうら若き乙女を見て、大層びっくりしたようだ。
「だ、誰だ!?」
訓練終わりと見えて、その騎士は上半身裸だった。彼は両手で自分の胸を覆い隠すようにしながら、ステラの素性を訪ねた。これも仕事柄、異性も含めて、ステラは他人の裸を見慣れている。恥じらう騎士とは対照的に、彼女の方は平然とした顔で頭を下げた。
「あ、すみません。お邪魔しています。私、マキアス・サンドライトの妹のステラです」
「妹? マキアスの?」
「はい、兄がいつもお世話になっております」
「いや、まあ。へ~、君があの……」
そう言って、騎士はステラをまじまじと見た。マキアスに、天才的な治癒の才能を持つ妹がいるという話は、騎士団の中でもそれなりに有名だった。
「兄に会いたいのですが……、どこにいるかご存じでしょうか?」
「ああ、あいつならきっと、訓練所の方にいるよ。最近は夜まであそこで訓練してる。……うわ、ベッドが奇麗になってる! 誰が――君がやってくれたの? ありがとう」
「どういたしまして。訓練所ですね。ありがとうございます、行ってみます」
騎士訓練所は、この宿舎と同じく要塞の外郭にある。そこまでなら、ステラの身分でも入ることができるだろう。兄の居場所を確認したステラは、様変わりした自分たちの部屋に驚く騎士を置いて、宿舎を出ようとした。
「あ、そうだった! これ、差し入れです。皆さんで食べてください」
その前に、自分の持っていた包みの事を思い出したステラは、それを半裸の騎士に押し付けると、今度こそ兄の所に向かうために、小走りで去っていった。
「くそっ、いいなぁマキアスの野郎! 俺の妹と取っ替えてくんないかなぁ!」
部屋に取り残された騎士は、彼の実家にいる、兄を兄とも思わない己の妹の顔を思い出し、自分が上半身裸であることも忘れて、半ば本気でそう言った。
そして、己がステラに押し付けられた包みを見て、ひょっとしたら今回のやり取りが恋愛に発展する可能性は無いかとまで、速やかに妄想した。
「何が入ってるのかな……?」
あの溌剌として可愛らしい娘は、皆さんで食べてと言っていた。するとこれは食べ物だ。要塞の食堂で出る食事は、基本的に家畜の餌のように無味乾燥である。そんな環境下で、若い娘の手料理ほどに、心を潤す物があるだろうか。何ならマキアスや他の騎士に知られる前に、自分ひとりで食ってしまおう。
騎士に求められるのは、迅速な決断力と行動力である。そう考えた彼は、手に持った包みをしゅるりと解いた。
「……何だこれ?」
中に入っていたのは、焼き菓子……のような黒い何かだった。
そう、ステラは生来、料理が壊滅的に苦手なのだ。隠さずとも、この差し入れの存在をマキアスが知れば、どうぞ食ってくれと向こうから願い出てきたはずである。
「…………ぶほっ! ごほっ!」
それでも彼はとりあえず一口かじってみて、その物体の焦げ臭さと粉っぽさに盛大にむせた。
やはり、これは皆で仲良く分け合おう。騎士に求められるのは、団員同士の連帯である。宗旨を変えた彼は、そっと包みを元に戻した。
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