ベルダンにおける、ある姉弟の日常

 朝ベッドから起き出すと、吐く息が少し白い。冬がやって来たのだ。

 起きたら雨戸を開けて、今日の天気を確認する。空には雲一つないけれど、それなのに、いや、それだからだろうか、とても空気がひんやりとしている。

 隣のベッドで眠る弟を寝かせたまま、私は寝間着から着替えると部屋を出た。


 太陽が昇る直前に起きるのは、この家に来る前からの私の習慣である。

 一階にある暖炉に残った熾火に薪を足して、かまどにも火を入れた。昨日くんでおいた水を湧かして、朝食を用意しなければならない。


 最近背が伸びて、台所を使うのがかなり楽になった。踏み台に乗らなくても、普通に手が届く。私はパンと卵を焼いて、それから野菜も炒め始める。弟は野菜を嫌うけれど、ちゃんと大きくなるためには野菜も食べなければならない。

 卵と野菜、これは、この家に来るまではほとんど食べた事が無かった。


「……おはよう、おねえちゃん」


 目をこすりながらふわふわした声を出して、弟が二階から降りてきた。

 私は弟におはようの挨拶を返すと、テーブルに食器を並べ始める。

 弟もすぐに手伝い初めて、朝食の準備は整った。


「いただきます!」


 二人で元気よくそう言って、食事を始める。お腹いっぱい食べる頃には、暖炉の熱も家の中に行き渡って、ぽかぽかとした気分になる。

 今日も一生懸命働こう。ごちそうさまと言いながら、私は弟と微笑み合った。


 食事が済むと、片付けを弟に任せて、私はお店の開店準備を始めた。

 準備と言ってもそんなにやることはない。商品棚の状況を確認して、家の前をほうきで掃いて、お店の看板を丁寧に拭く。

 「アルフェのお店」と書かれた銅の看板が、今日もピカピカになったことに満足して、私は家の中に戻った。


「リアナちゃん、おはよう!」


 まだ朝も早い時間から、このお店にはお客さんがやって来る。扉を開けてベルを鳴らしたのは、よく顔を知るおじさんの冒険者の人だ。

 このお店で一番多いお客さんは、冒険者の人たちである。お店が冒険者組合のすぐ裏にあるし、置いてある商品もほとんど冒険者向けの物だからそうなっている。


「これをもらうよ。今日も頑張ろうぜ!」


 毒消し用の薬草と包帯を買って、本日最初のお客様はお店を出て行った。

 今日は東の湖の方に、仲間の人と毒ガエルの退治に行くのだそうだ。こんな風に、冒険に出発する前の冒険者の人たちがやって来るから、このお店は午前中のお客さんが多いのだ。

 弟に商品の整理を手伝ってもらいながら仕事をしていると、午前中のお客さんは一段落した。次にお客さんの波が来るのは夕方だ。それまでは結構余裕がある。弟を遊ばせて洗濯などの家事をしていると、お店のお客さんではない人がやって来た。


「リアナちゃん、リオン君、こんにちは」


 のほほんとした表情で笑ったのはマヌエラさんだ。弟は早速駆け寄って、マヌエラさんのエプロンを掴んで大声ではしゃいでいる。私は弟を怖い顔でたしなめた。


「いいのよ、リアナちゃん」


 自分にまとわりついている弟の頭を撫でながら、マヌエラさんは言った。

 マヌエラさんは、この町の冒険者組合のギルドマスターをしているタルボットさんの奥さんだ。タルボットさんとは凄く年が離れた可愛い女性で、組合の人たちはいつも、なぜこの人がタルボットさんと結婚したのか、意味が分からないと言っている。

 何か強引な手段をタルボットさんが使ったと主張している人もいたが、私は知っている。実はマヌエラさんの方が、タルボットさんを好きになって奥さんにして下さいと押しかけたのだ。


「お昼はまだよね? 一緒に食べましょう」


 そう言ってマヌエラさんは、家から持ってきたというバスケットを取り出した。

 こんな風に、マヌエラさんはよく私たちの家に来て昼食を食べる。今日のようにお弁当を持ってきてくれることもあれば、この家のキッチンでマヌエラさんが料理することもある。夜に来る時はタルボットさんが一緒で、そういう時には四人で食べる。

 弟はマヌエラさんのことを凄く気に入っていて、彼女が来ると、決まって今のようにはしゃいでいる。


「じゃあ、また来るわね。風邪をひかないでね?」


 昼食が終わり、外まで見送ると、マヌエラさんは手を振って帰って行った。

 

 冒険者の人たちやマヌエラさんのように、私たちのことを心配してくれる人が、この町には沢山いる。それはとてもありがたいことだ。

 タルボットさんには一度、うちの子どもにならないかと言われた。タルボットさんとマヌエラさんには、子どもがいないから、と。

 でも、私は断った。凄く嬉しかったけれど、断った。


 私はこの家で、アルフェさんの帰りを待っていたい。


 弟だけでもタルボットさんにお願いしようとしたけれど、弟も私と一緒にお姉ちゃんを待つと言ってくれた。

 アルフェさんは、今どうしているのだろう。病気にならないで、元気でいてくれているだろうか。


 私は三年くらい前まで、弟とお父さんと三人で暮らしていた。

 お父さんは昔は優しかったけれど、お母さんが出て行った頃からお酒を飲むようになり、私と弟をぶつようになった。

 家にお金が無くなっても、お父さんは働こうとしなかった。だから私は生活の足しにするために、結界の外の森に薬草を採りに出かけたのだ。


 そして、そこで魔物に襲われて、そして、アルフェさんに助けられた。


 お父さんから引き取られて、アルフェさんと一緒にこの家で暮らしたのは、一年にもならない短い間だった。

 でも、お店を始めたアルフェさんの手伝いをして、アルフェさんが冒険者として採取してくる色々な物を売って、その時はもの凄く楽しかった。


 だから、アルフェさんが突然いなくなったのは、もの凄く悲しかった。

 タルボットさんも、冒険者の人たちも、マキアスさんとテオドールさんも、皆悲しんでいた。


 どうしてアルフェさんがいなくなったのか、大人の人たちは私たちに教えてくれなかった。教えてくれないんじゃなくて、もしかしたら、大人の人たちにも理由が分からなかったのかもしれない。

 でも、昔お母さんが出て行った時とは違う。いなくなりたくて、アルフェさんはいなくなったんじゃない。私たちを、置いて行きたくて置いて行ったんじゃない。私には、それだけは分かっていた。


 だから、私はこの家で、アルフェさんが帰ってくるのを待っていたい。


「いってきます!」


 午後になると、弟が外に遊びに出かけた。最近、近所に弟と遊んでくれる友だちができたのだという。

 この町のこの家の辺りは、子どもが一人で出歩いても安全な所なので、夕方までなら外で遊んでもいいと弟には言ってある。


 午後のこの時間は、お店も暇な時間だ。

 日によっては食材を買いに出かけたりもするけれど、今日は何となくカウンターに座ってぼうっとしていた。


「リアナちゃん、こんにちわー」


 夕方近くなって、マーガレットさんがお店にやって来た。マーガレットさんは私よりいくつか年上のお姉さんで、アルフェさんと同じように、女性なのに冒険者をやっている。アルフェさんと一緒に冒険に出かけたこともあるそうだ。


「今日はこれを買い取ってもらえる?」


 そう言ってマーガレットさんがカウンターに置いたのは、数種類の薬草と魔物の一部だ。

 このお店で売る物は、以前はアルフェさんが全て仕入れていた。でも、今はアルフェさんがいないから、代わりに冒険者の人たちが収集してくる素材を買い取って、主にそれを販売している。

 夕方にこの店に来るのは、冒険帰りの冒険者がほとんどだ。


 これは一束につき銀貨二枚、これは一個につき銀貨三枚と、私は手早くその品々を鑑定していく。商品の目利きや商売のやりかたは、空いた時間に、この町の商会長の娘さんであるローラさんが教えてくれる。

 今回の合計は、しめて銀貨三十五枚と銅貨十一枚だった。

 本当ならもっと値切ってもいいのだけれど、マーガレットさん相手にそう強くは出られない。普通のおじさん冒険者相手なら、買い取り金額を三分の二にまで持っていく自信がある。


「うん、それでいいわ」


 マーガレットさんが満足そうに笑う。マーガレットさんは、最初は幼馴染みのお兄さんたちに誘われて嫌々冒険をしたのだそうだけれど、今ではマーガレットさんの方が一人で冒険に行くくらい、冒険者というお仕事にはまってしまったのだそうだ。


「ウィルもジェフも、最近付き合いが悪いのよ」


 革の防具を着けて弓を持った姿は、私の目から見ても格好いい。

 マーガレットさんの幼馴染みのウィルヘルムさんは、彼女に危険なことをしてもらいたくないと思っているようなのだけれど、中々うまくいかないものだ。

 マーガレットさんが帰ってからも、素材を売りに冒険者の人が何人か来た。その人たちの応対をしていると、遊びに行っていた弟が帰ってきて、また私の手伝いをしてくれた。


 日が沈むと、お店を閉める。

 一日の精算をして、商品棚の在庫を確認する。冒険者の人たちから買い取れないような物は、ローラさんの商会を通して仕入れることになる。


 ローラさんは、この町ではとても偉い人だ。そんな人が私たちのお店を気にしてくれるのは、やはりアルフェさんのお陰だ。

 アルフェさんは、アルフェさんのお師匠様と一緒に、難しい病気にかかったローラさんを助けるため、伝説の魔物を倒し、伝説の薬草を採取してきたのだ。


 アルフェさんのお師匠様。

 私もアルフェさんに道場に連れられて、お会いしたことがある。

 とても筋肉のついた大きな人で、凄く凄く強かったのだそうだ。

 アルフェさんがお師匠様に向ける目は、他の人に向けるものと全く違っていた。


 アルフェさんがいなくなった日、町には不思議な事が起こった。

 その日の全く同じ時間に、町の人全員が完全に眠っていたのだ。仕事をしている人も、ただ歩いていた人も、私も店番をしながら、どうしてか眠ってしまった。


 アルフェさんとお師匠様の道場は、滅茶苦茶に壊されていた。

 とても大きな音がしたはずなのに、皆が眠っていたせいで、それを聞いた人は誰もいない。


 道場に残されていたという大量の血は、誰のものだったのか。

 アルフェさんではない。

 なら――


 アルフェさんと同じ日に、アルフェさんのお師匠様もいなくなった。

 それからずっと、ローラさんがもの凄く哀しそうな目をしているのは、どうしてなのだろうか。

 私には、色々と分からないことがある。


「ごちそうさまでした」


 夕飯を食べ終わると、私は弟と暖炉の前で過ごした。

 弟もこの二年で、だいぶ大きくなってきた。彼が大人になったら、どんな人になるだろう。どこかで影響されたらしく、剣術道場に通いたいと言い出した弟の話を聞きながら、私はそんな事を考えた。

 まだ早すぎる想像だろうか。


 夜更けになり、弟は先に眠った。

 私も火の始末を確認して、それからベッドに入る。


 暗闇の天井を見上げながら、私はお父さんの事を思い出した。

 私たちがいなくなって、一人になってしまったお父さんのことを、私は一度見に行った事がある。

 お父さんは昔働いていた工房で、汗まみれになってふいごをふかしていた。


 話したいと思ったけれど、今話したらだめだと思った。

 お父さんにとっても、私にとっても、また会うためには時間が必要だ。


 でもきっと、お父さんは昔のお父さんに戻ってくれる。その時私はそう思った。


 そんな事を考えたりもするけれど、今の私は、とても幸せだ。

 毎日お腹いっぱい食べることができて、毎晩ちゃんと眠ることができて、いつも色々な人とお喋りすることができる。

 これが幸せでないと言える人は、誰もいない。


 ただこの幸せを与えてくれた人が、この家にいない。それはとても寂しくて悲しい。


 騎士のマキアスさんが言っていた。

 必ずアルフェさんは、この町の、この家に戻ってくると。

 私はそれを信じている。弟も信じている。


「……明日は、お姉ちゃんが帰ってきますように」


 だから私は毎晩と同じように、神様にそう祈りを唱えて、目をつぶった。

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