第97話

 メリダ商会のゲイツと約束した日は、まさに今日だ。

 今日の夕刻、アルフェとゲオ・バルトムンクが用意する闘技者との戦いが行われる。

 アルフェは朝から仮宿の中で、じっと座って精神を集中していた。


「……よし」


 彼女が身につけるものなど、大して無い。いつも町中で行動する時より短いスカートを履いた彼女は、修理から帰ってきたグリーブを脚に取り付けた。金具の緩みがなくなっている。あの鍛冶屋は、いい腕だったらしい。


 ――お師匠様のマントは……。


 彼女が冒険に行くときに羽織るマントは、コンラッドが愛用していたものだ。端がボロボロにすり切れているものの、それは彼女に勇気を与えてくれる。少しだけ迷ったが、町の外に出るのではない。今日は置いて行こうと決めた。


 ――……行ってきます。


 マントを軽く抱きしめて息を吸い、そのあと丁寧にたたんで仕舞った。

 ここの所、一人の時のアルフェは、どうかするとこういう甘えた行動を取ってしまう。だがしかし、それで心が落ち着くのも事実なのだ。


 外に出ると、アルフェはいつもの歩調で目的地に向かった。

 アルフェが要塞島に続く石橋まで来ると、欄干にもたれかかっていたフロイドが身体を起こした。彼は無言のまま、アルフェの三歩先を行くようにして歩きはじめる。


「勝ったとして、ゲイツに何を聞くつもりなんだ?」


 橋を渡りきったところで、二人は初めて会話を交わした。


「主にドニエステ王国の話です。……それと、ラトリア大公領の現在の状況を」

「ほう」


 この試合の報酬は、ゲイツが元締めとなっている情報屋組合から情報を得るということだ。

 行き来が遮断されているアルフェの故郷の話も、彼らからなら聞き出せるかもしれない。他にも教会に関する話など、聞きたいことは多い。


「あんたはもしかして、ラトリアの生まれか」


 フロイドが聞く。

 話す必要のない事を、つい口にしてしまった。今の質問も無視していい。だが、あまり臆病になってしまうのも問題だと思い直し、アルフェは肯定した。


「……そうです」

「なるほど、故郷の事が気にかかるか」


 それでフロイドは黙った。

 再び彼が口を開いたのは、闘技場の前まで来た時だ。


「良い馬がいるな」


 何かと思えば、フロイドは厩舎に目を向けている。馬が好きな男だとアルフェは思い、彼を促した。


「置いて行きますよ」

「今行く。……しかし、あの紋」

「紋?」

「紋章だ。貴族もこんな所に来るんだな」

「貴族……」


 全て帝国貴族は、自分の家を表す紋章を持っている。手近な例だと、エアハルトは“一角の白馬”で、バルトムンクは“盾と鎚”である。

 しかし、八大諸侯や皇帝家の紋章を記憶している者はそれなりにいるものの、多数ある貴族家の紋章を全て頭に入れているのは、専門の紋章官くらいだろう。

 フロイドが注目した白馬の馬具には、二輪の桃百合の紋章が付いている。それが誰を意味するかは、アルフェは知らなかった。対してフロイドの方は、それが記憶の片隅にあるようだ。


「桃百合……? どこか、名の知れた家だったはずだが……」


 フロイドは首をひねっている。だが、すぐに思い出すのを諦めたようだ。


「いや、すまん。行こう」


 そして二人は、ゲイツに指定された裏口から闘技場に入った。


 ――……何?


 入った瞬間、アルフェは気付いた。


 ――何か居る。


 それは前回ここに訪れた時には、感じなかった気配だ。


 ――とても、恐ろしいものが。


「どうした、あいつが待ってるぞ」


 フロイドはまだ気付いていない。

 しかしここに満ちている気配は、あの大聖堂の魔獣よりもさらにおぞましい。


「何か、います」

「何だと?」

「……強い」

「本当か? …………だめだ、俺には分からん」


 フロイドもかなり鋭敏な感覚を持っているはずなのに、この男が全く気付かず、アルフェだけがここまで重苦しい圧力を感じることなどあるのだろうか。

 危険な気配は、悪寒となってアルフェの背中を襲っている。


「……大丈夫です。依頼主の所に行きましょう」


 嫌な予感がするからといって、引き返すことはできない。アルフェたちはゲイツの待つ貴賓室に向かった。


「よし、時間通りだ」


 ゲイツはそう言ってアルフェたちを出迎えた。

 だが、その顔は前回とは少し様子が違う。どこか何かを気にしているような、自信のなさそうな調子だ。


「どうした、何かあったか」


 それにはフロイドも気がついたようだ。フロイドに問われて、ゲイツは苦しそうに舌を鳴らした。


「いや、ちょっとな。……アルフェ、あんたの対戦相手の事なんだが」

「……?」

「ちょっと不味いことになったかもしれん」

「不味いこととは、どういうことですか」

「……ゲオの爺さんが出してきそうなのが、“血槍”のグイードだと前に言ったな」

「はい。……違うのですか?」


 アルフェが眉をひそめる。フロイドは腕を組み、むむと唸って横を向いた。


「そのグイードが死んだ。誰かに殺られたんだ」

「それは……」


 アルフェがフロイドの方を見ると、フロイドは更に顔を横に向ける。アルフェはしばらくその様子を観察すると、短いため息をついた。


「仕方ないですね」

「そうだな、仕方ない。すまんな」

「仕方なくはねぇだろう。……ん? フロイド、どうしてあんたが謝る」

「何でもない。で、あいつが死んだからどうした」

「グイードが死んでも、爺さんの方に特に動きが無かった。新しい冒険者を手配するでもなく……。奴はそもそも、前から別の駒を用意してたみたいだ」


 その別の“駒”が問題であると、ゲイツの目が語っている。


「……で、どんな奴なんだ。まさかまだ分からん何てことは無いんだろ、情報屋」

「……隠してもしょうが無いから言っとく。最近爺さんの所に、神殿騎士が出入りしてた」

「神殿騎士……」


 アルフェの目が、少し光った。


「ただの神殿騎士じゃない。パラディンが、この町に来てる」

「なっ――!」

「……?」


 アルフェよりも驚いたのはフロイドだ。組んでいた腕を拡げて、彼は珍しく動揺している。


「パラディン……。そうか、桃百合の紋章……! 神殿騎士団のアイゼンシュタインか!」

「よく知ってるじゃねぇか」

「パラディンがゲオ・バルトムンクの手駒だと? 冗談を言うな!」


 神殿騎士団のパラディンについては、アルフェも知識としては持っている。

 神殿騎士団の最精鋭で最高戦力。比較対象がユリアン・エアハルトなのだから、その強さは推して知るべしだ。

 フロイドも、アルフェの前はユリアンに仕えていた。ユリアンの強さ、従ってパラディンの強さについては、アルフェよりも身にしみて分かっているだろう。

 わめくフロイドを余所にして、アルフェはゲイツに聞いた。


「その方が、今日の私の相手なのですね」

「……そうだ。間違い無い」

「そうですか」


 それで悪寒の理由が知れたと、むしろアルフェはすっきりとした気分だった。


「そうですかじゃないだろう。相手がどんな奴か分かってるのか!」

「ユリアン・エアハルトに互する強さを持つ、と」

「っ――そうだ!」


 ユリアンの名前を出すとフロイドは突然苦々しい表情になり、その後でアルフェの言葉を肯定した。


「いや、違う。ユリアン・エアハルトは、ほとんどのパラディンよりもまだ上だろう。だが、あいつらが危険な奴らな事に変わりは無い! あんたでも勝てない!」

「落ち着いて下さい」

「どう落ち着けと――!」

「落ち着きなさい、フロイド」

「――うっ。…………すまん」


 普段は自分の強さに自信を持ち、斜に構えた態度を崩さないフロイドが、これ程に動揺する。なまじ彼がユリアン・エアハルトに仕えていたからこその話だろう。


「醜態を、晒した」


 深く恥じ入った様子のフロイドは、唇を噛んでうなだれた。


「構いません。……ゲイツさん、確認しますが、私たちは殺し合う訳では無いのですよね」

「ああ」

「負けても死なないと」


 ゲイツはうなずいた。アルフェはフロイドを見たが、彼はまだうなだれている。


「相手が相手だ、勝ってくれとも言えねぇ。情報を掴めなかった、俺たちの負けだ」

「負ける気はありません」


 フロイドが顔を上げ、アルフェを見た。

 そうだ、負ける気は無い。しかし勝てるとも思わない。今の自分がユリアン・エアハルト級の強さに相対した時、それでも勝算があると思う程、アルフェはうぬぼれていない。


 ――……でも、負ける気は無い。そうしないと、強くなれないから。


「頑張ってきます」


 棒立ちの男二人を置いて、アルフェは貴賓室を出た。



 闘技場の人間に案内されて、アルフェは地下に降りた。

 そして薄暗い通路を抜けると、彼女はいくつもの扉が並んだ広い空間に出た。扉は一つ一つが鋼でできていて、頭の位置に格子窓が開いている。


「この先だ」


 ここまで案内してきた人間はそう言って、アルフェを置いてどこか別の所へ行った。ここからは一本道のようだから、それでも迷うことはない。

 試合までには、まだもう少し時間がある。通路の両脇にある扉には、中に生き物の気配があるものとそうでないものがある。この中に、闘技場で戦う人間が入っているのだろうか。


 扉の一つの前で、ふとアルフェは立ち止まった。

 そこからは、人間とは違う魔力の気配が濃密に漂ってくる。


 ――魔物がいる……。


 これは結界の外で感じる、魔物の気配だ。


「誰だ」

「――!」


 部屋、というよりも、牢獄と呼ぶにふさわしい空間の中から、アルフェに問いかける、太い落ち着いた声がした。魔物だと思ったが、人間だったようだ。


「何の用だ。……お前は、闘技者か?」


 いや、この気配は間違い無く魔物だ。

 ならばどうして、人間の言葉が聞こえるのだろう。


「この気配は……、何だろうか」

「……え?」

「恐ろしい人間がいる。……はじめは、お前がそうなのかと思った。だが、違ったようだ」


 アルフェは通路の奥に目を向けた。その先には、闘場に続く扉がある。


「恐ろしい人間……」

「お前は、女なのか。その声はそうだろう」

「……」

「子供のように聞こえる。……ここの人間は、ついに女子供を見世物に使うのか」


 声の主が心を痛めているということが、声色から伝わってくる。アルフェは声の主に問いかけた。


「あなたは……、何ですか」

「何に思える」

「人間じゃない……。……魔物?」

「魔物ではないよ。私はオークだ」


 その言葉を聞いても、アルフェは驚かなかった。会話の途中から、何となくそんな気がしていたからだ。この強力な気配からして、オークを自称する声の主は、前にアルフェがここに来た時に見た、あの灰色のオークなのだろうと。


「……叫ばないな。そんな人間は初めてだ。驚かないのか……?」

「……オークが喋ることには、驚きました」


 しかも、とても流暢な喋りだ。声だけでは、人間と聞き分けられなかった。


「五年も人間に飼われていれば、嫌でも覚えるさ」

「五年……。五年間も、ずっとここに?」

「ああ。……山の景色が恋しい。ここからは、その窓の外しか見えないからな」

「窓の……――――つッ!?」

「……どうした?」

「いえ……」


 頭――というよりも、目の奥に走った痛みに、アルフェはよろけた。

 扉に手をついて倒れるのを防いだアルフェを気にして、中の気配が動くのを感じる。


「何でも、ありません」


 そうだった。今の自分はとんでもない強敵との戦いを控えているのだ。それなのに、当たり前のように魔物と会話をしている。


「もう、試合が始まります」

「……」


 アルフェはまだ、頭痛をこらえて目を押さえている。

 通路を闘場に向かって歩きだしたアルフェの背後で、窓の格子を掴んだ灰色の手の主が、じっと彼女の背中を見ていた。



「あいつと話をしてたのか」


 闘場の扉の前にいる男が、アルフェに話しかけた。

 この男は、今しがた行われた通路でのやり取りを見ていたようだ。アルフェはまだ足取りがおぼつかないものの、男は気にせず言葉を続けた。


「喋るオークなんて珍しいだろう。奴隷の中でも、あいつくらい人間の言葉を使える奴は、他にいない」

「……」

「それだけで十分見世物にできるんだが、反抗的でな。いたぶって客に喜んでもらうしかないのさ」

「……」

「あの狭くて臭い独房の中で、もう五年だ。逆に良く生きてると感心するよ。だがまあ……」

「……」

「あんな化け物は、檻の中に入れておかないと危険だからな」


 そこまで口にしたところで、白く細い腕が男の首に伸びて、呼吸ごと彼の言葉を止めた。


「ぐ――!? げ――!?」

「違うの……」


 ――……わたしは、なにもしていない。


「わたしは……、違うの……」

「や、め。……何、を!」

「私は、わたしは――、ばけものじゃないの……!」


 ――……なのに、どうしてみんな、わたしをここから、だしてくれないの?


「――! あん、たの、ことじゃ……!」


 壁に押しつけられた男は、アルフェの腕を掴み、腹を蹴り上げて何とか拘束から逃れようとしている。

 震えるアルフェの目は、男のことを見ていない。彼女の目は、どうしてか涙で潤んでいた。瞳の碧の中に、魔力の光が見える。


 ――【鎮まれ】


「あ……」


 突然、男の首を締め上げていたアルフェの手が緩んだ。どさりと、男の身体が地面に落ちた。


「え……」


 辛うじて明朗になったアルフェの視界に、現在の状況が飛び込んでくる。

 這いつくばって嘔吐いている男と、扉を挟んだ闘場から聞こえてくる喚声。


 ――そうだ。


 頭痛はまだ続いている。その中で、アルフェが思い出せたのは一つだけだ。


 ――戦わないと……。


 そうだ、戦わなければ。自分は、戦わなければならない。

 アルフェは男を無視し、自ら扉を開け、闘場に進んだ。

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