第86話
廃都市ダルマキアからバルトムンクに戻るまでの道のりは長かった。
大聖堂に巣くった魔獣から、馬に乗って命からがら逃げたのはいい。だが、そのせいで馬車を荷物ごと失ってしまったのは失敗だった。最低限の道具と食料以外は、全部あそこに積んであったのだ。
「クソ、道が分からん……」
しかも、中途半端に森に入ってしまったせいで、来た時使った街道跡も見失った。廃都市の位置も、バルトムンクのある方向も、今のフロイドたちには定かではない。
「アルフェ、どう思う。どっちに行けばいい」
「とりあえず、東に向かいましょう」
フロイドが自分を担いで撤退したと知った時には、アルフェはかなり憤っていたようだが、怒りを収めると、またいつものように感情の薄い、冷静な娘に戻った。
道を失い、荷物も無くしたと判明しても、特にうろたえた様子を見せない。進むと決めた方角に向かって、ずんずんと歩いている。あの姿を見ると、慌てている自分がアホらしくなるとフロイドは思った。
――しかし、剣を無くしたのは痛かったな。
馬車以外に、来た時と違うことがもう一つある。今のフロイドは丸腰なのだ。彼が、唯一の武器である剣をどこにやったかというと、魔獣に追われた時、敵に向かって放り投げてしまった。
思い入れのある品ではなかった。アルフェに折られた剣に代わって、雇われる時にアルフェから買い与えられた物だ。どこにでもある数打ちで、折られた剣と比べれば、なまくらもいいところだった。
それに、咄嗟にした判断としては、あの行動は正しかったと思う。それほど微妙な差が、あの時の生死を分けた。しかしフロイドは、アルフェを助けるために剣まで投げた自分に、まだ戸惑いを感じていた。
――剣士にとって、剣は命のはずじゃないのか。
剣だけを生きる糧として、剣を磨くために生きてきたフロイドのような男にとっては、余計そうであるはずなのに。なのにあの時のフロイドは、雇い主を助けるために、躊躇無く剣を投げた。
敵前逃亡を提案したこと。気絶したアルフェを助けたこと。そのために剣を投げたこと。どれも、自分の信念と矛盾する行動だと、フロイドは困惑していた。
「……」
「……」
――ブルル。
歩く二人の間に会話は無いので、人の声は聞こえない。聞こえるのは鳥の声や虫の声、そしてもう一つ。
――ヒヒィン。
フロイドが手綱を引いている黒馬のいななきだ。この馬もまた、生き残った。
――ブルル。
「うるさいぞ」
フロイドが抗議すると、馬は彼の肩になれなれしく鼻面をこすりつけてくる。
「おいやめろ」
――ブルル。
「おい――」
「うるさい」
じゃれているフロイドと馬に向かって、前を歩く雇い主が、後ろも見ずにそう言った。すると馬はいななくのを止め、つぶらな瞳でフロイドを見つめてくる。
――なんなんだよ一体……。
馬車で悠々と越えてきた往路と違って、この分だとバルトムンクに帰るためにどれだけかかるかは見当もつかない。それでも今の彼らには歩く以外に選択肢が無く、したがって二人は、雨だれが落ちる森林の中を黙々と歩き続けた。
「食料が尽きました」
そんな風に、アルフェがそれなりに衝撃的な発言をしたのは、歩き始めて二日くらい経った時だった。
「……。そうか」
それは結界の外で迷っている彼らにとっては、かなり不味い事態のはずだったが、アルフェがあまりに平然と、淡々とその事実を告げたので、フロイドはそう返すしかなかった。
しかし、冷静に事実を受け止めたところで、対策を考えなければ飢える。フロイドは親指で、近くで呑気に草を食んでいる馬を指した。
「で、どうする。あいつを食うか?」
残酷なようだが、旅先で食料が尽きた時には当たり前にとられる方法だ。馬一頭を潰せば、その肉でしばらくは食いつなげるだろう。
「食べません」
振り向いたアルフェがきっぱりと否定した時には、この娘にも可愛らしいところがあるのかも知れないと思ったフロイドだったが、
「適当な魔物を狩って、食料にしましょう」
という言葉ですぐに考えを改めた。
「魔物……、ワーグでも食うつもりか? 食えるのか? あれは」
「食べられます。あまり美味しくないですが」
「食ったことがあるのか……」
「冒険者のたしなみです」
「そんなたしなみは、聞いたことが無いな」
皮肉を口にしながらも、仕方ないとはフロイドも思った。飢え死にするよりは、いくらかましだ。
そこから渓谷地帯に出るまでは、三食ほとんどが魔物の肉だった。ちなみに、そうでない時はアルフェが掘り出してきた芋虫などだ。初めてそれを食えと言われた時は、さすがにフロイドも顔をしかめた。
「剣を無くしたのですね」
ある夜、珍しくアルフェの方からフロイドに話しかけてきた。
フロイドが剣を失ったことについては、彼女はずっと前から気がついていたはずだ。食料調達のために魔物を狩る時にも、彼は剣ではなく、鞘で戦っていたのだから。
それがどうして、その夜に、その事実を指摘しようと思ったのか。分からないが、おそらく、そんな気分だったのだろう。
「ああ、逃げる時にな」
「足手まといになってもらっては困ります。町に着いたら、すぐに新しい剣を買って下さい」
「もちろんだ」
前は、彼が付いてくることにすら警戒していたこの娘がそう言う。これは、少しは信用されたということなのだろうかと、フロイドは心の中で首を傾げた。
その夜は、その周辺を縄張りにしていたらしいワーグを二十頭程度狩った後だったので、さすがにもう魔物は出るまいという安心感もあった。話しかけられたついでに、フロイドは聞いた。
「腕は……もう治ったんだな」
「ああ、これですか」
アルフェは自分の両腕の内側を晒した。大聖堂の魔獣にズタズタにされた腕は、もう完全に治癒している。常人なら全治に数ヶ月はかかるだろう傷が、今ではもう、痕すら見えない。
「問題ありません。軽傷でしたから」
いや、軽傷ではなかった。あれを軽傷と呼べるなら、腕一本取れたくらいなら軽傷だ。
そう言えばと、フロイドはまじまじとアルフェを眺めた。この娘は多くの戦いをくぐり抜けているはずなのに、その肌はやたら綺麗だ。まるで、一度も傷つけられたことの無い赤子のように。全身傷痕まみれのフロイドとは大違いである。以前戦った時にフロイドが付けた腕の傷も、痕にはなっていない。
腕以外もそうだ。顔にも、首にも、傷らしいものはない。魔獣のかぎ爪に上着の前を裂かれて以来、鎖骨と胸の上部が見えたままだが、そこにも傷はない。
「……何を見ているのですか」
少し殺気を感じたので、フロイドは傷痕探しを止め、その代わりに質問した。
「あんたの治りが早いのは、治癒術でも使っているのか?」
「治癒……、いいえ、これもお師匠様の技です」
――お師匠様?
それはフロイドが、彼女の口から初めて耳にした単語だ。
「集気と内功を応用しています。魔力を循環させることで自然治癒の速度を高めて――」
フロイドは驚いた。アルフェは、そのお師匠様から教わったという技の原理を、かつてないほど饒舌に解説し始めた。相変わらず表情は乏しいが、それでもその顔は、“喜々として”と形容するのが相応しい。
「そのお師匠様ってのが、あんたに稽古をつけたのか」
「はい」
自信満々でうなずいたその時のアルフェは、普段よりも二つ三つ幼く見えた。
「そいつは強かったのか」
「もちろんです」
そんな「当たり前のことを聞かないで下さい」という顔をされてもな、とフロイドは思った。フロイドは、そのお師匠様とやらを見たことも無いのだ。しかし確かに、この娘の師匠なのだから、強いのは間違いあるまい。それに多分、この娘の師匠なのだから、非常識だったのも違いあるまい。
「珍しい技だ。魔術とも体術とも違うような……。……それは、俺にも使えるのか?」
「え?」
フロイドの何気ない興味に、アルフェは意表を突かれた顔をした。そういうことは、これまで考えたことも無かったようだ。
「そう、ですね……。……やってみたいのですか?」
「便利そうではある」
実際、戦闘では有用だろう。フロイドは剣士だから、あくまで剣と組み合わせてという観点であるが、あの爆発的な瞬発力や体の頑強さが手に入るのであれば、かなり強力な武器になる。
「……そうですか。そうですね……」
前向きに考えているのだろうか。値踏みするように、アルフェはフロイドの体を見回している。
「いえ、だめです」
あなたは信用できませんから。その答えは予想していたので、フロイドはそれ以上、敢えて頼むことはしなかった。
翌朝、二人はようやく森を抜け、バルトムンクに繋がる渓谷地帯への道を見つけだした。
「やっと町に帰れるな」
フロイドは息を吐いた。古代の石畳の痕跡が、はっきりと見える。見覚えのある地形もあったので、ここからは迷うことなくバルトムンクに戻ることができそうだった。
薄暗い森の中は嫌だったのか、石畳を踏みならしながら、馬も嬉しそうにいなないている。
フロイドはやれやれと苦笑し、アルフェに声をかけた。
「帰ったらどうする」
「あの魔獣に勝つ手段を考えます」
即答だった。
「正直、あれは今の俺たちでは厳しいが」
「……方法はあるはずです。こんな所で、いつまでも足踏みしている訳にはいきません」
――方法か。
アルフェはそれをずっと考えていたようだが、しかしどう思案しても厳しいものがある。
あの翼の生えた魔獣は、ただ強いだけでなく、ずっと離れた所から攻撃する手段を持っていた。剣と拳で戦う二人には、そもそも相性が悪い。
考えられる方法としては、もっと狭い場所におびき寄せて戦うか、それとも弓でも持ってくるか。
――いや、無いな。
フロイドは弓などからきしだし、それはアルフェも同じだろう。別の場所におびき寄せる作戦も、魔獣は巣のあるあの場所だけを警戒していた。難しい。従って、魔獣を無視して奥に進むという方針も採用できない。
諦めて地道に修行するというのも一つの手である。だがそれだと、足踏みしたくないという雇い主の要求には反するか。
「いっそ、誰か雇うか」
これも無いだろうと思いつつ、フロイドは聞いた。この娘ならきっと、他人の手は借りたくないと言うはずだからだ。
「雇う……。そうですね、それも検討する必要があります」
しかし、帰ってきたのは意外に素直な反応だ。
「ですが、そんなに都合のいい人がいるでしょうか」
「まあ、確かにな」
戦士にしろ魔術士にしろ、あの魔獣の前に連れて行ってまともに戦えそうな人間は、そうそうそこらに転がっているものではない。その辺の馬の骨を連れていっても、羽虫のように蹴散らされるのがオチである。
「バルトムンクが冒険者の町でも、それは厳しいか」
ともあれ、全ては町に戻ってからだと、二人は小雨の降る渓谷を抜けた。
◇
「……意外と、そこらに転がってるもんだな」
「なぁに? 人の顔を見るなり。……ふふ」
「何か可笑しいか」
「ええ、あなたがあんまりボロボロだから」
「ふん、十日も魔物と虫だけ食わされれば、お前だってこうなるさ」
「虫……?」
夜、バルトムンクに到着したフロイドは、市門のそばでアルフェと別れた。かなり町を空けたので、留守中に何か変わったことが起きなかったか、確認しようと考えたのだ。そう考えたのはフロイドではなくアルフェだが、ともあれ指示に従って、返り血や何やらでぼろ切れのようになった服を着替える暇も無く、冒険者組合までやって来た。
彼の前に立っているのは、“魔女”のネレイア・ククリアータだ。色気のある化粧顔でフロイドの格好を笑っているが、この女などは、帰途でアルフェとフロイドが話した、“都合のいい人間”の一人だろう。
魔術の熟練者であるネレイアなら、二人の前衛を支援する人間としてはもってこいだ。
「どうしたの、じろじろと。アルフェちゃんに相手をしてもらえないから、私に手を出す気になったのかしら」
「……」
アルフェならば、どう考えるだろうか。何にせよ、ここで自分がこの女を雇いたいと切り出すのはおかしい。まずは雇い主の意向をうかがってからだろうと、フロイドは判断した。
「いや、何でもない」
「あらそう。…………ねえ、フロイド」
立ち去ろうとした彼を、ネレイアは袖をつまんで引き留めた。
「どうした」
「この前した話、覚えてる?」
「この前? ……ああ」
そう言えば、この女はフロイドたちが廃都市に向けて出発する前、何かを頼みたそうにしていた。
「倒して欲しい魔物がいるとかっていう話か」
「……そうよ」
「俺は別に構わんが、あの娘がどう言うかは分からん」
「アルフェちゃんも帰ってきてるんでしょ」
彼女とも話したいのと、少し陰りを帯びた表情で、ネレイアは言った。
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