ドレスを着た獣

第36話

 ――何も感じなければいい。


 誰かが私にそう言った。その人の言葉は、とても優しく暖かいものに聞こえて、私は、その通りだと思った。

 何も感じなければいい。……でも、どうして何も感じてはいけないのか。


 ――考えてはいけない。


 そうだった。何も考えてはいけない。

 この城の外には何も無い。


 ――それでいい。


 褒められた。私は嬉しいと思った。

 だから、これでいい。外に出たいなどと、願う必要は無い。


 ――……それでいい。


 魔術士の格好をした人その人は、もう一度私を褒めて帰って行った。

 そう、あれが魔術士の格好なのだと、本に書いてあった。


 本……?


 私はベッドの下に隠しておいた本を取り出した。それは、様々な動物の絵姿が載った図鑑だ。

 世界には、色々な人や、色々な生き物がいて、色々な街がある。

 本にはそう書かれている。


 私は窓の外を見た。そこには、私が行ったことのない風景が広がっている。




 それでも、外には何も無いのだ。

 だから、私はこの部屋の中にいる。



「……?」


 夢を見た気がする。しかし、その内容は思い出せない。

 ただ、少し頭痛がする。少し乱れた髪を掻き上げて、寝台に寝ていたアルフェは身体を起こした。


「……朝」


 隙間だらけの木の窓からは、締め切っていても光が漏れる。その光が、室内に浮いた埃を照らしていた。

 ここは宿の一室だ。覚醒したアルフェは、茶色がかった布のシーツを払いのけると、下着だけの姿で床に立った。


 今日は、傭兵隊長のリグスと会う約束をしている。約束の時間は昼だから、とりあえず朝食を済ませて、時間までは鍛冶屋で防具の調整をしてもらったり、冒険者組合で情報の収集をしよう。

 身体をほぐしながらそう予定を定めると、アルフェは上着に袖を通し、スカートをはいた。


「……」


 行ってきますと言う相手はいない。無言のままで扉を開けたアルフェの頭に、もう一度ふと思い浮かんだことがある。


 ――今日の夢は……。


 今日の夢の内容は、どんなものだっただろうか。

 しかし考えても思い出せないので、そのことを忘れて、アルフェは部屋の外に出た。 



「というわけでな、何とか引き受けて欲しい」

「というわけと言われても……。……とりあえず、頭を上げてくれませんか」


 テーブルに両手をついて、山賊のような大男が少女に懇願している。はたから見れば異様な光景だ。

 リーフと共に、廃鉱から帰って数日後、以前に傭兵隊長のリグスと会った食堂で、アルフェは彼に頭を下げられていた。


 ここは酒も出す店だが、今はまだ明るいので、若い女性の客などもいる。彼女たちは、この非対称な二人連れを横目で見ながら、声を潜めて囁き合っている。


「クルツ坊ちゃん直々のご指名なんだ。何とか頼む」

「……だから、嫌なのですが」


 アルフェは小声でつぶやきながら、露骨に嫌な顔をした。

 クルツとはリグスの雇い主で、この領邦を統治するエアハルト伯の次男だ。その男がリグスを通して、アルフェに冒険者としての仕事を依頼してきた。護衛の依頼だ。


「それに、護衛ならリグスさんたちがいます」

「そんな冷たい事を言うなよ……。な?」


 初めて会った時、クルツはアルフェのことを、偶然同行した旅人としか認識していなかったはずだ。だがどうやら、クルツに問い詰められて、リグスはアルフェが冒険者だという事を喋ってしまったらしい。

 もともとクルツは、違う意味でアルフェに興味を持っていたようだが、それでなおの事、彼の関心に火が付いたそうだ。アルフェにとっては迷惑千万な話である。


「護衛する場所が場所でな。俺たちじゃあ、役に立たんと仰るんだ。実際、今度ばかりは坊ちゃんの言う通りだ。俺たちだけじゃ、護衛を全うできんかもしれん」

「場所……? まさか、それほどの魔物が?」


 アルフェの声に若干の緊張が混じる。

 リグスはアルフェの様な小娘とも気さくに話す、傭兵らしからぬ砕けた性格の人物だが、同時に相当な戦闘力の持ち主でもある。巨大な戦槌を棒きれのように振るう膂力は、傭兵界でも一目置かれていた。例えば今のアルフェが一対一で闘っても、勝てる相手かどうか、というところだ。

 彼の兵団は少人数だが、面子はどれも腕利きだ。それを役に立たないと評するとは、クルツという男は一体、どれほど危険な場所に行こうとしているのか。


「いや、違う。と言うか、今回は魔物が相手じゃあない」

「……? と言うと?」


 では、人間を相手にするということか。アルフェの眼光が更に鋭くなった。

 真剣な面持ちで、リグスは次の言葉を紡ぐ。


「――実はな、明後日の晩餐会の付き添いが欲しいんだと」

「は?」

「坊ちゃんが、晩餐会のパートナーが必要だって――」

「お断りします」


 アルフェは間髪入れずに言った。同時に、彼女の中にうんざりした気持ちが沸き起こる。

 あの若者は、以前も自分やステラにちょっかいを掛けて来たが、このようにあからさまな手段に出るとは。まさか仕事にかこつけて、自分を誘い出そうとするとは思わなかった、と。


「失礼します」

「ちょっと待った! 待ってくれ、俺の話を聞いてくれ! 頼むから行かないでくれ!」


 腰を浮かそうとしたアルフェの袖を、慌ててリグスが捕まえる。彼らの隣に座っていた三人連れの女性客が、それを見て妙な歓声を上げた。

 一体何だというのか。アルフェは渋々席に戻った。


「護衛が必要なのは本当なんだ。……実は最近、あの坊ちゃんは、どこに行くにも狙われている」

「狙われて? ……暗殺者ですか?」


 このエアハルト伯領では、クルツと彼の兄との後継問題が持ち上がっていると聞いた。ならば、考えられるのはその類のことだ。


「殺そうとまで考えているのかは分からん。ただの脅しかもしれんし、身柄をさらって、監禁しようとしてるのかもしれん。だが、とにかく何度かそれらしい奴らを追い払った。最近は姿を見せなくなったが、気配は感じる。お陰で俺たちも、坊ちゃんから全く目が離せんのさ」


 実際に今日も、クルツの側にはリグスの隊の若い者たちが張り付いているという。

 ならば、外に出ずに引きこもっていれば良いとアルフェは思った。ましてや晩餐会など、自分の命が危機にさらされているのに、ずいぶんとのんきな話に聞こえる。婉曲にアルフェがそう言うと、リグスは唸った。


「それはならんと仰るんだ。どうしても欠席できない会らしい」

「……」

「あの坊ちゃんは、兄貴を出し抜いて伯の後を継ぐのを諦めていない。大事な社交の場から、逃げることは出来ないんだと」


 雇い主について語るリグスの顔は、いつかと同じく苦々しい。


「しかも、その社交の場に、俺たちみたいなむさい奴らを、大勢連れて行く訳には行かないとさ。へっ、御挨拶だぜ。まあどっち道だ、正直手が足りてない。……それにお前なら、武器が無くても戦えるだろ? ああいう場所の護衛には丁度いい」


 アルフェは口を挟まず聞いている。


「真面目な話、お前が付いてくれると助かるんだ。今あいつに死なれたら、俺たちも食い詰めだ……。すまんが、助けると思って引き受けてくれんか」

「……やめて下さい。頭を上げて下さい、リグスさん」


 情けない表情をして再び深く頭を下げたリグスに、アルフェが言った。ここまでされて引き受けないのも薄情だろう。それに、リグスは知らない仲ではない。多少だが借りもある。


「……わかりました。お引き受けします」

「本当か! 恩に着る!」

「ただし、それなりの報酬は頂きます」

「もちろんだ。あんなんでも高位貴族だからな。金ならいくらでも用意させるぜ」


 アルフェが依頼を引き受ける気になったのを見て、リグスは破顔した。

 早速祝いの一杯を注文しようと立ち上がったリグスを押しとどめて、アルフェは疑問を投げかける。


「でも、以前のお話だと、クルツさんは伯の跡継ぎにはなれないのでしょう? そんな方を、何故狙う必要があるのですか」


 後継者争いに敗北しようとしている、無能な弟。クルツに対するリグスの評価は、そのようなものだったはずだ。率直に言って、そんな立場の人間を、あえて危険を冒して狙う理由があるだろうか。


「……そうだな。それは俺たちにもわからん。あの兄貴にも、坊ちゃんを暗殺する必要は無い。そんなことをしなくても、今のままいけば間違いなく、伯の跡継ぎは兄貴で決まりだ。……もしかしたら、それとは関係ないところで、あの坊ちゃんが恨まれているって話なのかもしれないが――」


 腕を組んだリグスは、難しい顔になって首をひねる。かと思うと、ぐいとアルフェの方に身を乗り出して、言った。


「しかし、だ、それを考えるのは、俺たちの仕事じゃない。だろ?」

「はい」


 重要なのは、荒事があって、報酬を払う雇い主がいるということだ。アルフェもリグスのその主張を、否定するつもりは無い。

 それに最初は渋っていたが、アルフェ自身も、この依頼を受ける意味について考え直していた。


 アルフェは今、情報を欲していた。師の仇の魔術士に関する手がかりを。だが、一介の冒険者として、アルフェが得られる情報などたかが知れていた。

 すなわち、この依頼を機に貴族社会に顔を繋げば、これまで冒険者の立場からは知り得なかった情報を知る機会があるかもしれない。――だから、この仕事を引き受ける。


「よし、そうと決まったら、さっそく準備だ!」


 そう思ったのだが、張り切るリグスがテーブルの下から取り出した物を見て、アルフェの眉間にしわが寄った。


「……なんですか、それは」

「あん? 必要だろ?」


 リグスの手に握られているのは、華やかなドレス。

 それを見て、隣の女性客が再び歓声を上げる。彼女たちの中では、どのような物語が展開されているのだろう。それを思うと、アルフェは頭を抱えたくなる。


 得意げに鼻をうごめかすリグスを前に、少女は憮然とした表情で座っていた。



 都市ウルムの大通りには、夜になると灯される、街灯なるものが備わっている。

 通りに並んで均等に配置された金属の棒の先端に、微弱な魔力光を放つ球体が据え付けられている。これは最新の魔術を用いた最先端の設備で、帝都の他には、帝国でも数都市にしか設置されていない。ウルム市中に住む者たちにとっては、自慢の種であった。


 既に日が沈み、月も薄雲に隠されているにも関わらず、その街灯のおかげで大通りはぼんやりと明るい。

 その通りを、一台の馬車が走っている。内部の人物の身分を知らせる紋章はついていないが、豪奢なつくりのその馬車には、然るべき地位の人間が乗っているのだろうと推察できた。


「やはり、何度見ても美しいな」

「……光栄です」


 若者の賛辞を受けて、少女が感情のこもらない礼を返した。

 このやり取りは何度目だろうか。

 今夜、ウルムの某所でエアハルト領内の有力貴族が集まる晩餐会が開かれる。会場である屋敷に向かう馬車の中には、三人の男女が座っていた。エアハルト伯次男のクルツ・エアハルト、護衛である傭兵隊長のリグス、そして同じく護衛として雇われた冒険者の少女、アルフェだ。


「月の女神もかくやというほどだ。――今夜の月が隠れてしまったのは、君のせいかも知れないな」

「……どうも」


 さっきから、この手の歯の浮くような台詞を、クルツは恥ずかしげもなく繰り返している。

 こういう台詞が得意な人間を、アルフェは以前にも一人知っていたが、彼に比べてクルツの言葉が妙にねっとりと響くのは、どうしてなのだろうか。


 クルツが称賛しているのは、アルフェのドレス姿である。

 彼女が着ている白いドレスは、身体の線が浮き上がるほどシンプルで、余計な装飾はほとんどついていない。リグスがあらかじめ用意していたドレスは、これとは対極にある華美なものだった。

 ドレスのデザインを要望したのは、他ならぬアルフェ自身だ。ただし、そこには若い娘らしい、装いに関する配慮は微塵も含まれていない。


 あまりごてごてしたドレスを着て、戦えるわけがない。


 彼女の要求とは、つまりそういうことだった。

 表向き、アルフェはクルツの付き添いだが、実際の所は護衛である。動きを妨げられては困るので、衣装もできるだけ簡素なものを選んだ。しかしアルフェの雇い主は、それがえらくお気に召したようだ。


「君には是非もう一度会いたかった……。もちろん、優秀な冒険者であるということは、隊長から聞かされている。仕事の方も期待しているよ」

「仕事の方“は”、精一杯務めさせていただきます」


 熱のこもったクルツの言葉に対し、温度の無いアルフェの声。隊長から聞かされたというくだりで、アルフェは若干恨めしい視線をリグスに向けたが、その本人は気まずそうに、腕を組んだまま窓の外を見ている。


 リグスもクルツの従士という扱いで、アルフェたちと共に会場に入る。そのため彼も正装しているが、肩や胸の筋肉が盛り上がって、礼服が今にもはち切れそうだ。不自然にもほどがある。少なくとも、まっとうな社会の人間には見えない。


「そんなにかしこまる必要は無い。この機会に、我々も個人的な距離を縮められればと思っているよ」

「私は思いません」

「ふふふ。身分のことを気にしているのなら、私はそういう人間ではないさ」

「……」


 通常よりも広い馬車の中で、クルツの身体は徐々にアルフェの方に近づいてきている。手などはもう少しでアルフェの膝の上に乗りそうだ。

 あとこれだけ近づいたら、指を折ろう。そう決めたアルフェだったが、その前に一つ聞いた。


「今日は、クルツ様を狙う人間がやってくるでしょうか?」


 本当に折って、リグスたちの仕事を台無しにするのもまずい。アルフェはそちらの方に話を誘導した。


「それは分からん。だが、来ると思って備えてもらいたい。そうだな、リグス。……リグス、聞いているのか?」

「――え? あ~、はい。……これまでは大抵、晩餐会や舞踏会の帰り道に襲われた。その時襲ってきたのは、何も知らない雑魚だったが――」


 リグスたちがその雑魚を蹴散らしたおかげで、どうやら新しく手練れが雇われたらしい。まだ姿を現してはいないが、クルツの周囲に潜む、不気味な気配は途切れることが無いという。


「だから、会の最中も油断はできん。気を抜くなよ」

「了解しました」


 アルフェが返事をする。今の彼女はリグスの部下という扱いだ。その指示には従わなければならない。


「我が兄ながら、卑劣な男だ……。私を恐れて、暗殺者を放つなどという愚かな真似をするとはな」


 そう言って憤慨するクルツの中では、刺客を放っているのは実の兄ということで結論が出ているようだ。


「クルツ様のお兄様は、今夜は?」


 クルツはアルフェの苦手な人種だったが、雇われた立場上、アルフェは彼に敬った言葉遣いをした。


「いや、今日は“奴”は来ない。今夜の会は、我が支持者の会合のようなものだ」

「……なるほど」


 では、それほど盛況な会ではなさそうだ。アルフェは雇い主に対して、心の中で失礼なことを考えた。

 その間にも馬車は進む。馬車は城近くにあるクルツの居館から出発した。行先については、とある貴族の別宅だということしか、アルフェは聞いていない。窓の外には、塀と門を備えた、立派な屋敷の並びが見える。ここは貴族の邸宅が集まった一角のようだ。


「そろそろ到着します」


 馬車の中に、御者の男から声が掛けられる。彼もリグスの部下の一人だ。招かれた館の周辺にも、衛兵や使用人に扮して、既に何人かが配置されているはずである。

 御者の報告を受けて、リグスが最終確認とばかりに念を押した。


「いいですね、中は俺とアルフェで護衛します。旦那、何かあったらこいつから離れないで下さい。そうすれば大抵は安全です」

「わかっているとも」


 鷹揚としてクルツがうなずく。数分後、この通りの中でも、ひと際立派な館の前に、アルフェたちが乗った馬車が寄せられた。


 リグスがまず、馬車から降りた。周囲の安全を確認してからアルフェたちに合図を出す。

 アルフェは形の上ではクルツに手を取られて馬車を降りたが、その目はリグスと同じく、油断無く四方に配られている。


「団長」

「グレンか。首尾はどうだ?」


 リグスの前に、暗闇の中から男が進み出た。

 髪に白いものが混じった、口髭の男。アルフェも知っている、リグスの副官だ。場に合わせてか、どこかの執事のような衣装を身に付けている。落ち着いた雰囲気の彼がそんな格好をすると、その姿はまるで本職のように見えた。


「指示通り、周囲を団員を配ってあります。他にも、会の参加者が用意した兵が何人か……。今のところ怪しい者はおりませんが、くれぐれも警戒を」

「分かった。お前らも抜かるなよ」


 静かに頷いて、男は再び闇の中に消えた。


「では参りましょうか、旦那」

「……“旦那”は止せ」


 すました顔をして、クルツが言った。


「ごほん。わかりました。参りましょう、クルツ様」

「うむ。行きましょうか、アルフェさん」


 さすがにクルツは場慣れしており、貴公子然とした空気を放っている。

 クルツの腕に手を掛けた少女が、よそ行きの笑みを見せる。扉が開かれ、三人は屋敷の内側に招き入れられた。

 玄関のきらびやかな調度が放つ光が、アルフェの目に飛び込む。立派な仕着せを着た館の使用人にかしずかれて、一行は晩餐の会場に進んだ。

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