誰かのために戦うということ
第21話
――どうして子だけが、こんな所に。この子は……、この子も私の、娘なのに。
うつむいた女が、途切れ途切れにつぶやく。長い金の髪に隠れて、その横顔は見えない。女の問いかけに、傍らに立つ男が無表情に答えた。
――その必要があるからですよ。これが何なのか、あなたは理解していない。
無表情だが、男の目は何かを語っている。その目にあるのは、侮蔑の色だ。
――それにこれは、大公の遺言です。――あなたの夫の。従わなければならないでしょう。
大公――。喪ったばかりの愛する者の名に触れられ、女のうつむきは深くなった。
――不幸ではない。外にはずっと不幸な人間が、いくらでもいる。それに比べれば、ここは何一つ不便がない。
――……。
――……納得できないようですね。……なら、良い方法がある。
魔術士風の男は、短く呪文をつぶやいた。周囲のマナが即座に収束し、薄藍色の魔法陣が展開される。
それは魔術として形を成し、対象の娘へと吸い込まれていった。
◆
「……いらっしゃいませ」
ドアに付けられたベルが鳴り、どこか気の抜けた顔と元気のない声で、アルフェは入ってきた客を迎えた。いらっしゃいませと言ってからも、その表情は上の空だ。
ここしばらく、彼女はずっとこうだった。
原因は決まっている。先日の道場で、コンラッドに帰れと言われたことが、まだ彼女の中でしこりとなって残っているのだ。
――謝らないと……。
お師匠様は怒っていた。それも本気で怒っていた。アルフェは数日悩んだあげくそう結論した。だから、謝らなければならない。
――でも、何を? どう言って?
しかし悩んでも、それが分からなかった。分からない内は、道場に足を踏み入れる事はできない。コンラッドの方から訪ねてくるということも無く、ただ悶々とした日々が過ぎていた。
「お嬢さん、いいかな?」
「――! は、はい!」
自分の世界に浸っていた彼女を、来客の声が現実に引き戻した。アルフェは慌てて座ったまま姿勢を正すと、その客の方を見た。
「この辺りに、変わった男が住んでいると聞いたことはないかい?」
カウンター越しにアルフェの前に立っているのは、騎士風の服を着て、腰に長剣を佩いた長身の男性だ。この町では初めて見る顔である。
その男は、少し浅黒い肌をしていて、髪は短く切りそろえられている。雄々しい顔立ちだが、その口には優しげな微笑を浮かべていた。どこか、誰かを思い出させる顔だ。
「変わった男性……、ですか? 人をお探しでしたら、ここではなく――」
衛兵の詰め所か、商会所にでも行くと良い。そう教えようとしたアルフェの言葉に、男が割り込んだ。
「今はどう名乗っているか知らないが……。この町で見かけたと言う者があってね。歳は三十前後で、大柄な……、まあ一言で言うと、多分、私によく似た男だ。……不本意ではあるがね」
男の口調は丁寧だが、質問の仕方にどこか一方的な印象があった。店の中を興味深げに見回しながら、探しているという人間の風体を説明すると、男は、
「君が知っていそうな気がしてね」
そう言ってアルフェを見た。
――この方に良く似た人……? ……あ。
その言葉に、アルフェはすぐに思い当たった人間がいる。
――お師匠様だ。
◇
「ありがとう、まさか案内までしてもらえるとはね。親切なお嬢さんで助かったよ。……お店の方は、良かったのかな?」
「いえ、お気になさらず」
アルフェは男を道場に案内するため、リアナに店番を任せて外に出た。男が尋ねる人物が、コンラッドのことだと半ば確信したからだ。
コンラッドの顔から、伸ばし放題にしている無精ひげを取り除けば、まさにこの男と同じ顔になるだろう。それ程に、二人は良く似ていた。そう思って見れば、顔だけでなく、肌の色も、体型も、その声さえもそっくりだった。
ただ、違うのは表情だ。コンラッドはいつも、眉間に皺を寄せた仏頂面をしているが、この男の表情は柔らかい。その顔にはずっと、柔和な微笑みを浮かべている。しかし、どこか油断できないものを感じるのは気のせいだろうか。
男の先に立って、アルフェは道場に続く坂を上る。だが、道場に近づくにつれ、アルフェの不安は増していった。
――お師匠様の機嫌は、もう直ったでしょうか……。
彼女がこの見知らぬ男を連れて歩くのは、案内に応じるというよりも、ただアルフェ自身が、道場に行くための口実が欲しかったからだ。
――また、帰れって言われたら……。
その時はどうしよう。その時は、理由が分からなくても、とにかく手をついて謝ろう。動悸を押さえて、アルフェは坂を登り切った。
道場の扉に手をかける。この扉を開くために、彼女がこれほど勇気を必要としたのは、初めてここを訪れたとき以来かもしれない。
「失礼します。お師匠様、いらっしゃいますか? お客様を――」
扉を開きながら、アルフェは早口に言った。自分の心配が杞憂なら、お師匠様は何でもないように、久ぶりだなと言って迎えてくれる。むしろ、そうであることを願った。
「お客様を……、お連れ、したのですが……」
しかしアルフェは、ここに来た自分の判断が、やはり誤りであったと悟った。
道場の中にいたコンラッドが、もの凄い形相で彼女をにらみつけたからだ。
「あの……、あの……。お師匠様……」
口の中で消え入るようにつぶやいた呼びかけにも、コンラッドは耳を貸していない。ただただ怒りに満ちた燃える目で、まるで敵に向けるように、彼はこちらを凝視していた。
「ご……」
ごめんなさい――。そう謝ろう。ひたすら謝ろう。身体を震わせ、涙すらこぼれそうになっているアルフェに対し、コンラッドは――
「……兄上」
――あにうえ?
「やあ、コンラッド」
そこでようやく、アルフェは震えから解放された。コンラッドがにらみつけているのは、アルフェではない。彼の視線はアルフェの少し上、すぐ背後に向かっている。目尻に貯まっていたものを急いで拭き取り、アルフェは自分の後ろを見た。
「どこかで野垂れ死んだと思っていたが……、意外と元気そうじゃないか」
アルフェが案内してきた男が、柔和な微笑みを浮かべたまま喋っている。
「……兄上も、御健勝のようで何よりです」
――兄上。兄弟。お師匠様と、この人が?
それは本当なら、第一に出てくるべき発想だっただろう。他人にしては、二人は余りにもよく似ているのだ。アルフェがここまでその考えに至らなかったのは、彼女自身の悩みに心を囚われていたからだろうか。
「『兄上』か……。お前に言われると違和感があるね。父上の死に目にも姿を見せなかったのは、誰だったかな?」
男の辛辣な台詞にコンラッドは苦い顔をしたが、反対に男は楽しんでいるようだった。
「気を悪くしたかい? ふふ、冗談だ。別に気にしなくていい。あんな父の葬式に出ても意味はないさ。お前は賢い」
「……あなたは、相変わらずのようですね。何もお変わりないようだ」
コンラッドの口調は、普段の彼からは想像がつかないほど丁寧だ。
――あ、あれ? 脚が……。
アルフェはそこで、自分が動けないことに気がついた。
脚が動かないほどに、空気が重い。
「まあ、でもね、今日はそんなことを話しに来たんじゃあないんだ」
「……次兄は、お元気ですか?」
「知らないよ。まあ、元気なんじゃないかな。お前と同じで、どこに住んでるかも分からない」
まったく、どうしてうちの弟たちは、こんな出来損ないばかりなのかな。そうつぶやいた時も、男は柔らかい微笑を変えなかった。
「……いやいや、だから私は、こんな話をしに来たんじゃあないんだよ」
「……」
「この町の近くで、偶然お前の話を聞いてね。私も『兄上』として、弟の生活が気にかかったのさ」
わかるだろう、と芝居がかった身振りを交えて男が言った。二人はアルフェを挟んで、その頭越しに会話をしている。
「今は、何をして暮らしているんだい?」
「……見ての通り、道場を開いています。これで何とか、食うことは出来ていますよ」
「道場だって?」
そこで男が浮かべた笑いは、今までとは違う、冷笑とはっきり分かるものだった。
「お前に何か、人に教えられるようなものがあったかな? ……もしかして、昔やっていたあれか。まだあんな下らないことをやってたのかい?」
“下らない”とは、コンラッドとアルフェの使う技のことだろうか。これは彼に対する侮辱だ。思わずアルフェが反論しようとしかけた時――
「もしかしてこの娘も、それに関係があったりするのかな?」
男が前に立つアルフェの両肩に、ぽん、と軽く手を置いた。
「――っ!」
その瞬間、刺すような殺気がアルフェを襲った。その場に縫い止められたかのように、彼女の身体が全く動かなくなる。
背後に、これまで見たことも無いような、恐ろしいものがいる。しかしそれを確かめるために、振り向くことさえアルフェにはできない。肩に触れる手から悪寒が伝わり、震えとなって彼女の全身を走る。
アルフェには、ひどく長い時間が流れたように思えたが、実際には一瞬のことだったのかもしれない。その場の硬直を断ち切るように、コンラッドが口を開いた。
「やめて下さい」
「……ほう」
「その娘は私の――、私の弟子です。……手を出されるなら、兄上とて」
「兄上とて。……何かな?」
「……兄上とて、容赦はしません」
さっきの燃える目とは違う。やけに澄んだ瞳、澄んだ声でコンラッドが言った。
「容赦しない……? お前が、私に?」
アルフェの後ろに立っている男の声色が、不機嫌なものに変わる。
「家を捨てて逃げ出した、出来損ないの男が、私に対して、容赦しないと?」
「……」
コンラッドは何も答えない。だが、その眼は相変わらず真っ直ぐと、アルフェの背後に向けられている。
「…………ふふふ。冗談だよ、冗談」
アルフェの肩をぽんぽんと叩き、男が手を放す。
アルフェの身体に時の流れが戻ってきた。肩に手を置かれていた間、彼女は息さえも止めていたのだ。
「コンラッド、お前が元気そうで安心したよ。……じゃあ、もう会う事も無いかも知れないけど、達者でな」
一方的にそれだけ言うと、男は意外なほどあっさりと帰っていった。
男が去った後も、嫌な空気だけが道場に残った。不意に来て、不意に帰った印象だが、コンラッドの兄だというあの男は、本当に弟の様子を見に来ただけだったのだろうか。
「……今の方は」
しばらく時間が経ち、アルフェが尋ねた。
「……兄だ。一番目のな。……久しぶりに会った」
コンラッドは、どこか遠くを見る目をしている。
「お兄様……」
「俺の家は、ある騎士の家系だが……、あの人は俺とは違い、剣ができたし、頭も良かった。……そして何より、野心があった。あの様子だと、相変わらずのようだ」
「怖い人です」
アルフェは素直に感じた事を言った。その肩には、あの男から感じた寒気が、今も残っている。
「……」
「……お強いのですか?」
その質問に、コンラッドは答えない。
「……お師匠様よりも?」
哀しそうな顔で、コンラッドが言った。
「……俺より強い奴など、どこにでも居るさ」
「私は、そうは思いません」
即座にそう答えたアルフェの言葉を聞いて、コンラッドがあっけに取られたように目を丸くする。
「……ふん、まったく」
つぶやいたコンラッドは苦笑すると、アルフェの頭にぽんと片手を乗せた。
「お、お師匠様? ――うぐ」
コンラッドは、彼を見上げる彼女の銀髪を、ぐしゃぐしゃとかき混ぜて、にこりと笑った。
「久しぶりに顔を見せたな、この馬鹿弟子が。――心配したぞ」
そうだ。そういえば自分はずっと、彼の前に姿を見せることをためらっていたのだ。いつの間にかそのことを忘れていたアルフェは、頭に乗った大きな掌の上に両手を乗せると、はにかんだように笑みを返した。
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