第1章 旅立ちの鐘、高らかに

日常の崩壊

第1話 嵐の前の静けさ

 満月に照らされた、白亜の神殿。回廊を巡回していた騎士は、月光とランプの中を進む女性を目に留める。


「クロムウェル団長、どうしました? そんなに慌てて……」


 ガルデラ神殿聖騎士団団長、イリア=クロムウェル。絹のように流れる髪は、金のセミロング。そして翡翠色の瞳は、瑞々しい力強さに溢れていた。

 彼女は騎士の前まで歩いて来ると、その足を止める。


「ヘレナ様を捜しているんです。見掛けていませんか?」

「巫女様ですか? いえ、私は見ていませんが……」

「そうですか……」


 イリアは肩を落としながらも手短に礼を告げると、白いロングコートをふわりと靡かせながら騎士の脇を通り過ぎた。

 そして騎士もまた、彼女の遠ざかる足音を聞きながら歩を進める。その時、視線の片隅に白い影が映った。


(ん? あの姿は……そうか、これがあの噂の……)


 白い影の口元に指を添える仕草を見た瞬間、騎士は全てを悟る。そして可笑しそうに小さく笑みを浮かべると、彼は再び歩を進めた。




 世界の東西南北に位置する四大大陸。その中で最も広大な面積を誇るユグド大陸。別名を東の大陸。その大地の南に位置し、安息の地と称される聖都テルティスのシンボル、ガルデラ神殿。

 荘厳なゴシック様式の建物は大聖堂を中心に、大まかに口の字の構造となっている。そして東西の回廊に繋がる別棟の両側には、空高くそびえ立つ尖塔があった。

 騎士と別れたイリアは、大聖堂の前で足を止めた。この中には、世界でも指折りの傑作と名高いステンドグラスがある。八柱の神による世界創造の物語を描いたものだ。


「ヘレナ様、いらっしゃいますか?」


 辺りを見回すも、誰もいない。あるのは台座に佇む獣の石像のみ。主神、アンティムの化身として伝えられているそれは、獅子の体に鷲の翼が生えている。昼に見れば神々しい姿だが、夜ともなれば物悲しい。

 目を伏せ、憂いのため息を吐く。がっくりと肩を落とし、とぼとぼと出て行った。

 



そうして大聖堂を後にした彼女は、純白の石柱が等間隔に並ぶ回廊を暗い顔で歩く。ふと、進行方向に見知った姿を見付け、縋るような気持ちで声を掛けた。


「アイラ! ルナティア!」


 名前を呼ばれた二人は談笑を止め、駆け寄るイリアの方を振り向いた。

 一人は厳格な印象の女性、アイラ=スティングレイ。切れ長の黒い目と、同色のベリーショート。そして、パンツスタイルのスラリとした長身は、どこか男性的な印象を与える。

 もう一人は穏やかに微笑む女性、ルナティア=ミルハーツ。腰まで届く明るい茶髪は、ふわふわと波打っている。その容姿は一見すると、物腰柔らかな良家の箱入り娘。だが、やや垂れた大きめの青い目の奥からは、芯の強さが感じられる。


「イリアじゃないか。どうした?」


 アイラがそう聞いたのも束の間、二人の表情が固まる。そうかと思えば、揃って眉尻を下げた。そして、ルナティアが口を開く。


「もしかして、またヘレナがいなくなったんですの?」

「そうなの。困った人よね。ちょっと目を離したら、すぐコレだもの……」

「……毎度毎度、お前も大変だな」

「そう思うなら、一緒に探してくれたらいいのに。意地悪ね」


 不満げにアイラを見据えるイリア。彼女の愚痴を聞いた二人は、ますます困惑の色を深めた。


「でも、二人が見てないならいいわ。また明日ね」


 そう言うと、イリアは回廊の先へ歩いて行った。残されたアイラとルナティアは、どちらからともなく顔を合わせる。互いに肩を竦めると、アイラはおもむろに声を上げた。


「ところで、いつまでそこで隠れているつもりだ? ヘレナ」


 問い掛けながら、アイラは振り返った。ルナティアもまた、同じところを見つめている。

 暫くして柱の影から姿を見せたのは、ヘレナ=クロムウェル。彼女が身に纏うのは、金の刺繍が施された純白のローブ。そして腰まで届く金髪をゆったりと揺らしながら、静かに歩み寄った。茶目っ気溢れる笑みを零して。


「残念、バレてたのね」

「当たり前だ。さっきも柱の影から顔を出していただろう」

「ですが、イリアは気付いていませんでしたけど……」

「ええ、知ってるわ。だって、ずっと見てたもの」


 ずっと、と言うのは、ヘレナがいないことにイリアが気付いてからずっと、の意味だ。それを瞬時に察し、アイラは呆れたようにため息を吐く。そしてルナティアは、困ったような笑みを浮かべた。


「イリアったら……ヘレナのことになると、途端に周りが見えなくなるんですから……」

「ヘレナもヘレナだぞ。あまりイリアで遊び過ぎるな」

「あら、私だってやり過ぎは良くないって分かってるのよ? でもあの子ったら、母鳥を追い掛ける雛鳥みたいで可愛らしいんだもの! だからつい、からかいたくなるのよ」


 ヘレナは口元に手を当て、悪戯っぽく笑みを深める。だが次の瞬間には、表情は一変していた。眉間に僅かにしわを寄せると、小さく息を吐く。


「でも……そろそろ部屋に戻らないとね。今日はちょっとやり過ぎたわ」

「そう思うなら、少しは反省するんだな」

「ええ、分かってる。それじゃ、おやすみなさい」


 笑みを深め、踵を返すヘレナ。残されたアイラとルナティアは、どっと疲れがのし掛かった感覚に陥ったのだった。




 あれからイリアは、神殿中を歩き回った。だが、ヘレナの姿は何処にも無い。足早に歩いていたのが、いつの間にか、駆け足に変わっていた。

 不意に、少し離れた背後から人の気配を感じ取り、立ち止まる。おもむろに踵を返し、通路の角から奥を覗き込んだ。


「何をコソコソしてるの? ルイファス」

「……何だ、気付いていたのか」


 そこにいたのは、目を丸くしてイリアを見下ろす男、ルイファス=アシュフォード。彼の一言が癇に障った彼女は、睨むように彼を見上げた。


「ねえ、ルイファス。もしかして、私のこと馬鹿にしてる?」

「そんなことある訳ないだろう」


 ルイファスは苦笑を浮かべ、壁の影から外に出た。その瞬間、サラリと揺れる銀髪が、切れ長のサファイアのような目が、月の光に照らされて妖艶な美しさを放つ。

 そして彼は二度三度、イリアの頭を軽く押さえた。


「ところで、いつまで起きているつもりだ? 寝る時間はとっくに過ぎているだろう」

「ルイファス……私、もう十九なのよ? いつまでも子供扱いしないで」

「子供扱いじゃなくて、年頃の妹を心配しているだけだ」


 ルイファスは再度、しかめ面のイリアの頭を軽く押さえる。にっこりと笑みを浮かべながら。

 すると彼女の視線は、ますます鋭くなっていく。だが、今の彼女の最優先事項は、ヘレナの居場所を知ること。釈然としない気持ちを鎮めるように深く息を吐いた。


「まあいいわ。ねえ、ヘレナ様を見てない?」

「ヘレナだったら、さっき見たぜ」


 ルイファスの代わりに第三者が答える。振り返るとそこには、ルイファスよりも頭一つ分背の高い男性、フェルディール=ヴィッシ。筋骨隆々の体は、そこに立つだけで畏怖の念を抱かせる。だがシャドウブルーの瞳は、威圧感とは正反対に温かな光を携えていた。

 ヘレナの目撃情報に、イリアは一瞬で顔を輝かせる。そして飛ぶように彼の元へ駆け寄った。


「ねえ、何処で見たの?」

「向こうの廊下でな。散歩に満足したから部屋に戻るとさ」

「さ、散歩……? それならそう言ってくださればいいのに……まあいいわ。ありがとう、フェルディール!」


 にっこりと笑みを向け、一目散に駆け出すイリア。足音も軽やかに響いている。

 そんな彼女の後ろ姿に、ルイファスは肩を竦めた。


「散歩、ね……。どちらかといえば隠れんぼだと思うんだが」

「いや、鬼ごっこじゃねえか?」


 光の巫女の護衛を任務とする、ガルデラ神殿聖騎士団。イリアがその団長に就いてから一年が経った。

 普段は最年少である事実を感じさせない程に上手くやっている。そんな彼女に対して、妹のような感情が湧く最大の原因。それは、この追い掛けっこに他ならない。

 静寂に包まれた通路に、二人の苦笑が小さく響くのだった。




 色鮮やかな宝石と金のプレートで描かれた、ガルデラ神殿の紋章。煌びやかな装飾が施された扉の奥は、ヘレナの私室。


「ヘレナ様、いらっしゃいますか?」

「ええ、どうぞ」


 控え目なノックの音とイリアの声が廊下に響く。返ってきたのはヘレナの声。イリアは胸を撫で下ろすと、静かに扉を押し開けた。

 まず飛び込んだのは、正面の一面に引かれた白いカーテン。そして左手には、たくさんの書籍が納められた本棚。その傍には木製の机と椅子が置かれている。

 それらを目の端に留めながら入室すると、視線の先にはクイーンサイズのベッドと、そこに腰掛けるヘレナの姿。

 彼女はイリアの姿を認めると、ティーカップをサイドテーブル上のソーサーに置き、ちょこんと首を傾げた。


「どこに行ってたの? 息、少し上がってるわよ?」

「どこにって……ヘレナ様を捜していたんです! 喉が渇いたと仰るから給湯室へ行っていたのに、帰って来たらもういないんですから! ヘレナ様こそ、どちらへ行っていらしたんです? 随分と捜しましたよ」


 瞳に宿るのは怒りか、寂しさか。煮えたぎる感情のまま、ヘレナを強く責め立てる。原因はもちろん彼女の悪戯だ。

 彼女は眉尻を下げて素直に謝罪した。


「ごめんなさい。とっても綺麗な満月を見ていたら、神殿の中を散歩したくなったの」

「でしたら、私にそう仰ってください! 神殿内とはいえ、ヘレナ様に……姉様にもしものことがあったら、私は……」


 思わず前のめりになり、語気を荒げる。彼女は酷く興奮しており、赤らんだ顔はみるみるうちに歪んでいく。だが、その勢いは尻すぼみになっていき、ついには俯いてしまった。

 たった一人の肉親。二人きりの姉妹。イリアにとって世界の中心は、姉であるヘレナだ。だから彼女がいなくなってしまうことは、世界が崩壊することと同様の意味を持つ。例えそれが、ほんの一時の悪戯だとしても。


「……ごめんね、イリア」


 ヘレナは静かに立ち上がり、そっとイリアの頭を撫でる。おもむろに上げられた彼女の目には、溢れんばかりの涙が浮かんでいた。

 ヘレナは悲しげに顔を歪めると、彼女をそっと抱き締めた。間もなく感じたのは、首筋をくすぐる柔らかな髪と、肩がしっとりと濡れていく感覚。幼子を宥めるように、震える背中を軽く叩く。


「ごめんね……」

「姉様……っ!」


 ヘレナの肩に顔を埋めたまま、イリアは優しい温もりにしがみ付く。しばらくして、自ら体を離した頃には涙も枯れ果て、泣き顔の中にも安堵の笑みを浮かべていた。つられるように、ヘレナも微笑みを浮かべる。


「落ち着いた?」

「はい。すみません、取り乱してしまって」

「いいのよ。……本当にごめんね」

「もういいです。ヘレナ様のお気持ちは十分に伝わりましたから。今日はお休みになってください」

「そうね。おやすみなさい」


 微笑むヘレナを背に、イリアは部屋を出る。その時だ。遠慮がちな声が廊下に響いたのは。


「あの……イリアちゃん」


 イリアが振り返るとそこには、白いローブを身に纏った少女が立っていた。神騎士団のヒーラーで、学生時代からの親友、ジュリア=エドガーだ。


「あの……ごめんね、こんな時間に。迷惑かなって思ったんだけど、でも、イリアちゃんと話がしたくて……」


 ジュリアは普段から大人しい口調だが、今日の彼女はいつも以上に歯切れが悪い。しかも、誰よりも人の気持ちに敏感であるにも関わらず、こんな夜中に訪ねている。これが意味することは、ただ一つ。


「それなら私の部屋で良いかしら? その方がゆっくりと話が出来ると思うんだけど……どう?」

「……ありがとう、イリアちゃん」


 申し訳なさそうにしながらも、ジュリアの顔がホッと綻ぶ。ひとまず安堵したイリアは、彼女を私室へ招き入れた。真っ直ぐに窓際まで歩を進め、机の椅子をベッドの前まで運ぶと、彼女をそこに座らせる。続いて自分は、ベッドに腰掛けた。

 沈黙が流れ、イリアがじっと見つめる中、ジュリアはおもむろに口を開く。


「イリアちゃんは……最近、エドワードくんに会った?」

「エドワード?」


 エドワード=ワトスンは神騎士団の魔術師部隊に所属する、学生時代からの共通の友人だ。

 だが、最近ジュリアと会っていなかったように、彼とも会っていない。イリアが「いいえ」と首を振ると、ジュリアはぽつぽつと事情を話し始める。


「何日か前に会った時、上の空っていうか……ちょっと様子がおかしくて。それで、ジャッキーなら何か知ってるかもって思って聞いてみたけど、心当たりは無いって……」


 神騎士団の神殿警備部隊に所属する、ジャッキー=アルバス。ジュリアの幼馴染である彼はイリアの友人であり、問題のエドワードとは学生時代からの親友だ。

 ジュリアは悲しげに顔を歪め、滲んだ瞳も揺れている。その不安を少しでも取り除いてやりたくて、イリアは彼女の手を優しく包み込んだ。


「大丈夫よ」

「え?」

「エドワードのことだから、何か思うことがあって、それを自分の中で整理しているだけだと思うの。それが解決したら、いつもの彼に戻るはずよ」


 エドワードは極端に自分のことを話したがらない。何でもそつなく器用にこなす反面、人を寄せ付けない言動をして誰かを頼ることも無い。

 だが、入学と同時に演習チームを組み、共に騎士になるべく切磋琢磨してきたイリアやジュリア、そしてジャッキーは違った。彼女等に対してだけは口数が比較的多く、いつも無表情な彼が笑みを浮かべることさえある。

 イリアの言葉に背中を押されたのか、ジュリアは明るい笑顔で頷いた。


「うん……そうだよね! エドワードくんを信じて、待ってればいいんだよね! イリアちゃんと話してたら、安心したよ」

「そう、良かった。また何かあれば、いつでも私に言ってね。私も気を付けてエドワードを見てみるわ」

「ありがとう、イリアちゃん。じゃあ、わたし、寮に戻るね」


 部屋を出ようとするジュリアを、イリアは引き止める。振り返って首を傾げる彼女に、「寮まで送るわ」とにっこりと笑みを浮かべて立ち上がった。

 その言葉に、ジュリアは目を見開く。次の瞬間、胸の前でぶんぶんと両手を振り、慌てふためいた。


「え……そんな、いいよ、こんなに遅いのに!」

「気にしないで。もう少しジュリアと一緒にいたいの。こうして会うの、久しぶりなんだもの。駄目?」


 きょとんとしたジュリアは、はにかみながら首を振る。互いに笑みを零した二人は、静かに部屋を後にした。




 生き物はもちろん、草木も安らかな眠りに沈む頃。どこからか厚い雲に覆われた空に陽炎が浮かび上がった。

 小さな揺らぎは次第に大きなうねりとなり、周囲の空間をも巻き込んでいく。そして、ぐにゃり、と空間が大きく歪んだ、次の瞬間。周囲に一陣のつむじ風が吹き、白いドラゴンが現れた。

 ドラゴンは翼を二度三度羽ばたかせ、悠々と旋回している。その体躯は民家を見下ろす程に大きく、他を圧倒する存在感を放つ。魔物の王者と呼ぶに相応しい佇まいだ。そしてよく見ると、背中には二つの影がごそごそと蠢いていた。


「……で、何でアンタまで来るの」


 女がドラゴンの翼の付け根辺りを撫でていたのも束の間。振り向き、怒気を含んだ声をぶつける。その先には、薄ら笑いを浮かべながら近付いて来る男がいた。


「野暮な質問だね。でも……そうだね。敢えてその質問に答えるなら、キミが僕を惹き付けるから……ってところかな。月夜の下でデートっていうのも、ロマンチックだと思わないかい?」


 笑みの奥から妖艶な色が滲み出る。男が女の手を取ろうとした瞬間、乾いた音が辺りに響く。すんでのところで、あっさりと弾き返されてしまったのだ。


「あたしに馴れ馴れしく触らないで」

「……相変わらず、ツレないね」


 男は虚空を漂う手を眺め、ヒラヒラと振る。そして、肩を竦めながら苦笑を漏らすと、視線を落とした。

 そこに広がっているのは、森の中の孤島に並ぶ屋根の波。その向こうには、一際広い敷地に建物が幾つも並んでいる。


「美しいね。闇に白はよく映える。でも、白に紅の組み合わせも捨て難い」


 狂気に染まる目が捉えるのは、厚い雲の隙間から一瞬だけ顔を出した満月の光に照らされた、純白の神殿。女の視線も後を追う。

 二人の氷のように冷たい瞳は、薄ら寒い不気味な空気を漂わせていた。これから訪れる惨劇を表しているかのように。

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