第21話 決意の灯火

 イリアとルイファスが、ノエルの案内でロメインの元に向かっていた頃。朝食を終えたアリエスは、図書室を訪れていた。紙やインクの独特な匂いに包まれながら、数えきれない程の本棚の間を進んで行く。

 不意に彼女は立ち止まり、視線を上げた。棚の最上段は遥かに高く、マルスでも梯子が無ければ到底届かないだろう。通路は人が擦れ違えるだけの広さはあるが、両側の本棚の圧迫感は耐え難く、息が詰まってしょうがない。

(カミエルったら、本当に本が好きなのね。図書室なんて、どんなに頑張っても一時間が限界だわ)

 心の中でぼやきながら、本棚の間や閲覧室を覗いては引き返す。それを繰り返した末に馴染みの顔を見付けた瞬間、ある種の達成感が沸き上がったのだった。

「カミエル!」

 その瞬間、全ての視線が彼女に集中した。どの顔も揃って険しく歪んでいる。

 目を見開いていたカミエルは慌てて席を立ち、笑顔を引き攣らせる彼女の元へ駆け寄った。そして、声を潜めて嗜める。

「あ、アリエスさん! 図書室でそんな大声を出しては……!」

「うん……そうよね。ごめんなさい。カミエルを捜してたから、つい……」

「僕を、ですか?」

 目を丸くするカミエル。アリエスはこくん、と頷いた。

 終始、鋭い視線に晒され、遂には彼までもが居心地の悪さを覚え始める。居た堪れなくなった彼等は、そそくさと閲覧室を後にするのだった。




 ゆっくりと話がしたい、というアリエスの言葉から、二人は城の中庭へ向かった。幾つもある花壇はきちんと整えられ、周囲を小川が流れている。また、風に乗った花の匂いが優しく鼻腔をくすぐる。まるで地上の楽園に立っているかのようだ。

 しばらくしてカミエルは、思い出したように声を上げた。

「そういえば、アリエスさんは僕を捜していたんですよね?」

「そうそう、カミエルに聞きたいことがあったのよ。でもエリックがいる前だと、なんとなく聞き辛くて……」

 アリエスは振り返ると、首を傾げるカミエルに事情を説明する。エリックから酷く怒られ、今後の旅を左右するような宿題を出されたこと。その答えを出すため、イリアたちから話を聞いて回っていること。そして、この旅に掛ける思いの丈を吐き出した。

 そんな彼女の熱意に圧倒され、彼は協力することを快く了承する。だが頭の片隅では、拭いようのない違和感を覚えていた。それを確かめるため、遠慮がちに彼女に問い掛ける。

「あの……本当にエリックさんがそんなことを?」

「当たり前じゃない。そんな嘘をついて、あたしに何の得があるっていうのよ?」

「そ、そうですよね! すみません。ところで、その、とても大事な宿題とお見受けしますが、そのことで僕に聞きたいこととは、一体……?」

 ガルデラ神殿の一神官が、世界三大国のサモネシア王国次期女王に何を教えるというのか。カミエルは緊張のあまり、顔を固くする。それを彼女はさして気にする様子もなく、彼に問い掛けた。

「そうそう、それよ! カミエルって何のために本を読むの? そんなに楽しいの?」

 カミエルは何度か目を瞬かせ、呆気に取られる。聞いてみれば、何のことはない、自分にとっては簡単な質問だった。

 それでもアリエスにとっては難問であり、彼の目をじっと見つめて答えを待っている。期待の眼差しに晒され、苦笑を浮かべた彼はおもむろに口を開いた。

「僕にとって読書は生活の一部で、無くてはならないものです。理由なんて考えたことも無かったですが……そうですね。強いて言うなら、知識が増えることが楽しいから、でしょうか」

「それだけ?」

「はい。知識が増えることで決断をする際の指標となり、視野も広がります。そうすれば正しい選択が出来たり、危険を予測することも可能となります。これは旅をする上でも、生きていく上でも、とても重要なことです。もちろん、国を治める上でも。そのための勉強です」

 アリエスが打つ相槌は曖昧な響きを含み、カミエルに不安を与える。肝心の彼女に届いていなかったらどうしよう、と。

 だが、反応が薄い原因にも心当たりがある。そんな彼女に彼は、優しく諭すように口を開いた。

「アリエスさんにも好きな本はあるでしょう? 例えば、聖獣や召喚魔法に関する本とか」

「そうね、それは読んでて楽しいから好きよ。でも、それ以外はつまらないわ。だって、難し過ぎるんだもの」

「僕からしてみれば、召喚魔法の本はとても難しいんですよ。ですが、つまらないと思ったことはありません。何故だか分かりますか?」

 彼の問いに、彼女は首を横に振る。すると彼は笑みを深め、はっきりとした口調で答えた。

「知りたいと思うからですよ」

 カミエルにとって読書とは、自らの意思で取り組むもの。無限に湧き上がる知的好奇心が彼を突き動かしている。

 一方のアリエスは大抵の場合、強制されて取り組んでいる。意思に反しているため、苦痛を覚えるのだ。

「一度にたくさんの知識を得ようとしたり、すぐに勉強を好きになる必要はありません。まずは毎日、知らないことを一つずつ減らしていくんです。その積み重ねですよ」

「そんなことで楽しいって思えるようになるの?」

「僕はそう思います。知らなかったことを知るということは、それだけ世界が広がるということです。その楽しさは、アリエスさんもよく知っているはずですから」

 イリアたちの中で、この旅を最も楽しんでいるのがアリエスである。それは、憧れの聖獣と召喚契約を結ぶことの他にもう一つ、大きな理由がある。王宮の外の世界を肌で感じられるからだ。

 好奇心旺盛で素直な性格だからこそ、物事を吸収するのも早い。面倒臭がらずにきちんと勉学と向き合えば、驚く程に変わる要素は持っているのだ。

 必死で答えを出そうとしている姿を見守っていたカミエルの頭に電流が走る。最初は、現状から二歩も三歩も先を行く宿題な上に、答えを出すのがあまりに性急だと違和感を覚えた。だがここにきて、エリックの意図が分かったような気がしたからだ。思わず、彼の顔に笑みが浮かぶ。

「ちょっと、何笑ってるのよ?」

「いえ、なんでもありません。ただ、アリエスさんならきっと大丈夫……そう思っただけですよ」

 笑みを深め、胸を張って言い切るカミエル。呆気に取られたアリエスは目を丸くすると、照れ笑いをした。

「ありがと、カミエル。……さて、これで後はマルスだけね。一番の問題が最後まで残っちゃったわ」

 口を尖らせ、小さく唸るアリエス。口を開けばいつも火花が散る彼に対し、どのように話を切り出せばいいのだろうか。

 だが、ここにいても話は進まない。カミエルと共に城内に戻ろうとした、まさにその時。中庭に足を踏み入れようとしていたマルスと鉢合わせた。マルスは驚いたように息を呑むと、すぐに顔をしかめる。

「何でお前がフラフラ出歩いてんだ。自分の立場ってもんを分かってんのか?」

「そんなの、あんたに言われなくても分かってるわよ」

「ハッ、どうだか。お前の能天気な頭で言われても説得力ねぇんだよ」

「人に喧嘩吹っ掛けることしか能が無いあんたに言われたくないわよ! ていうか、あんたこそ何してんのよ? もしかして……迷子?」

「っ、ふざけたこと抜かしてんじゃねぇ! ンな訳あるか!」

「あらあら? おかしいわね。どうしてそんなに慌てているのかしら?」

 小馬鹿にしたように嘲笑を向けていたマルスだが、アリエスの一言で攻防が一転した。楽しそうにニヤリと笑う彼女に噛み付いている。早口に捲し立てるその様子からは、いつもの尊大な態度など見る影もない。

 そんな険悪な二人の間に入り、カミエルは仲裁を図る。だが、雲行きは怪しくなるばかり。周りの状況など全く見えていない。

「アリエスさんもマルスさんも、落ち着いてください……!」

「どんな理由か知りませんが、喧嘩はいけませんよ」

「そうですよ、この方の言う通り……え?」

 三人の隣から突如として別の声が聞こえ、彼等は口を閉ざして勢いよくそちらを向く。そこに立っていたのは、笑みを浮かべる麗しい青年。

「の、ノエル様……!」

 上擦った声のカミエルとは対照的に、マルスは咄嗟に言葉が出てこない。この意外な登場が、彼等にそれだけの驚きをもたらしたのだ。そしてアリエスは、目の前が大きく歪むような感覚に陥っていた。

 少なくとも、自国民や他国の要人の前では王女らしく、慎ましやかに。ガウリーやエリックから散々に言われていることだ。それを滞在二日目にして破ってしまったから大変だ。

(マズイ……本当にマズイわ。どうしよう!)

 これがエリックに知れたら、さらなる雷を落とされるに違いない。何とかして切り抜けようと、混乱する頭で必死に考える。そんな状況にカミエルも、冷や汗を流しながらフォローの言葉を探している。

 だがノエルは表情一つ変えず、何事も無かったかのように口を開いた。

「お気になさらないでください。そんな些細なことで両国の関係は変わりませんよ」

「はしたない姿をお見せしてしまい、恥ずかしいですわ」

 肩を縮ませながら、アリエスは目を伏せる。だが、あんなお転婆な姿を見られていたにも関わらず、意外にもノエルはあっさりとしている。ここはその言葉を信じよう、と心の中で気持ちを鎮めるのだった。

 その時、彼の持つヴァイオリンが彼女の目に飛び込んできた。よく使い込まれており、とても丁寧に手入れされている様子が窺える。

「ノエル様は楽器を演奏されるのですか?」

「ええ。特にこのヴァイオリンは幼い頃から使っていて、弾いているととても心が落ち着くんです」

「それだけ大事にしていらっしゃるのですね。一度、拝聴してみたくなってしまいましたわ」

 アリエスの言葉に、ノエルは快く頷く。そして静かに構え、おもむろに弦を引いた。

 優しく穏やかでありながら、力強さをも感じさせる音色。聞いているだけで彼の世界に深く惹き込まれていく。

 そうして演奏が終わった時には、自然と拍手を送っていた。

「素晴らしい演奏でしたわ」

「ありがとうございます。久しぶりに人前で弾いたものですから、少し緊張してしまいました」

 演奏による程良い緊張感から得られる集中力は、ノエルに瞑想と同じ感覚を与える。一時的とはいえ、最近の神経が擦り減るような空気からも解放され、清々しい気分に浸っていた。

「ところで、城で一日を過ごされて、いかがでしたか? ご不便な点はありませんでしたか?」

「不便なんてとんでもない。かえってご迷惑をお掛けしているのではないか、と心配しているくらいですわ」

「それは全く問題ありませんよ。……おっと、もうこんな時間か。私はお先に失礼しますが、アリエス様はごゆっくりとお楽しみください。自慢の庭園なんです」

 軽く一礼をし、ノエルは踵を返す。だが、数歩進んだところで足を止めた。そして振り返る。

「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

「ええ、何でしょう」

「アリエス様はサモネシア王国をどんな国にしたいですか?」

「国民が皆、笑顔で暮らせる平和な国にしたいですわ」

 しっかりとした口調で、アリエスは答えた。その言葉に満足したのか、ノエルは晴れやかな笑みを浮かべる。そして「私もです」と返し、その場を後にした。

 彼の後姿を見送る三人。不意に、マルスがアリエスを見下ろす。

「おい、部屋に戻るぞ」

 彼の言い草にムッと顔をしかめるも、彼女にとって都合の良い展開になったことも確か。一言二言の皮肉を返したい気持ちを抑えて頷いた。

 そんな二人を心配しながらも、カミエルは図書室へと戻って行く。国に関する話なら、自分がいない方がいいと思ったのだ。

 カミエルと別れた二人は、真っ直ぐに客室へ戻って行った。さっさと前を行くマルスに、アリエスが小走りで付いて行く形で。




 重苦しい沈黙が二人の間に垂れ込める。普段はおしゃべりなアリエスが、話の切り出し方を悶々と考え、機会を窺っていたからだ。

 だが、そんな時間は長くは続かない。いつかは客室に着いてしまう。歩幅が大きく、足の速いマルスと一緒ならば尚のこと。

 そうして彼女の部屋の前まで辿り着いた時、思い切って彼を引き止めた。それがあまりに切羽詰まった声だったため、先へ進もうとした彼の足が止まる。そして、怪訝そうに彼女を見下ろした。

「何だ?」

「マルスから見たお父様ってどんな人? どうしてそこまでお父様のことを……?」

 その瞬間、彼の表情が固く強張る。眉間のしわも深い。何故そんなことを言わなければならないのか、と顔全体で語っている。

 だが、彼女も引かない。聞き出すまでは意地でも帰さない。真剣な瞳からは、そんな強い意思が窺える。

「何のつもりでそんなことを聞いてくるのか知らねぇが、お前はまだ陛下の足元にも及ばねぇよ。思いの強さも、覚悟もな。そのクセ、あんなでかいこと抜かしやがって……お前のどこにそんな信念がある?」

 その言葉に、彼女は息を詰まらせた。

 マルスがディオを崇拝して彼女を見下すのはよくあることだが、エリックから怒られた後ではより深く突き刺さる。悔しくて、何か言い返してやりたくても肝心の言葉が出てこない。口を真一文字に引いたまま顔を下に向けた。

 不意に、遠ざかって行く足音が耳をつく。そして、扉の閉まる音が響いた。だがアリエスは、そこから一歩も動くことは出来なかった。そうしている内に、心の中に熱い感情が湧き上がる。

(あたしだって、やれば出来るんだから! 絶対に見返してやるわ!)

 好き放題に言われたままでいるのは我慢ならない。彼女が感じた悔しさは、次第に負けん気へと変わっていく。イリアに促される形で現れた祖国への想いは、ノエルからの問い掛けによって確かなものとなった。

 前を向いた彼女は素早く踵を返し、勢いよく扉を閉めて鍵を掛けた。今は自分のことだけに集中したかったのだ。

 そんな二人の様子を、偶然に通り掛かったエリックが見届ける。彼はしばらく思案するような表情をすると、どこか満足げにその場を後にした。




 部屋に戻ったマルスは、一直線に窓際へと足を進める。勢いよくカーテンを引くと、清々しい青空が広がっていた。

 祖国へと続く空。それは同じ青のはずなのに、この色がどこか涼やかに見えるのは、気候が違うせいだろうか。

 ぼんやりと空を眺めながら、彼は記憶の海に身を沈める。

 ディオに対する忠誠心は、いつだって忘れたことは無い。だが、そのきっかけとなった出来事を思い出すのは、久しぶりだった。

 今にして思えばそれは、苦々しいものでしかない。気持ち悪い程に疼く感情を押し込め、静かに目を閉じる。

(もしもあの時、陛下がいらっしゃらなかったら……俺はここにいなかった)

 蘇る記憶が胸を締め付ける。それと同時に、主へと向ける想いも強まっていった。これから何があろうとも、彼の手足として生きていく、と。

 おもむろに目を開き、踵を返す。視線の先には、サイドテーブルに立て掛けられた大剣。鍔に光るサモネシア王国の紋章を見据え、彼はしっかりと柄を握り締めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る