第22話 獣人と神官

 一人きりの客室に、ため息が漏れる。椅子から立ち上がって大きく伸びをすると、アリエスはベッドに飛び込んだ。柔らかなシーツに体を埋め、低い唸り声を上げる。そうかと思えば今度は顔を埋めた。

 エリックからの宿題の答えを捻り出そうと、彼女は一人、部屋に籠る。その方が集中出来ると思ったからだ。

 それから時が過ぎること数時間。軽い思考だけが頭を巡り、一向に心の中に落ちてこない。このままでは、仲間たちに助けてもらったことが無駄になってしまう。

 しばらくして、むくりと起き上がる。ふらふらと窓際に足を運び、ぼんやりと外を眺めた。

 上を見れば、澄み渡った青い空。眼下では、城で働く者たちが忙しなく行き来していた。それを見ていると、立ち止まっているのは自分だけのような気がしてならない。

 事実、この王都でも、道中の街でもそうだった。国中が悲しみに暮れながらも、懸命に立ち上がろうとしている。まるで、ロバートの意思を継ごうとしているかのように。彼の王がいかに慕われていたか、よく分かる。

 その時、なんの前触れも無く、ある言葉が浮かんだ。情報屋ヒースの元でイリアやエリックが言っていたこと。


(騎士は、あたしたちを守るためにいる。大臣のガウリーは、お父様を助けるためにいる。もちろん、他の人たちも役割があって働いている)


 彼女にとって、彼等の存在は当たり前のものだった。それ故に、その理由や意義といったものは、これまで一度も考えたことが無かったことに気付いたのだ。

 もちろんサモネシア王国の中心は、国王のディオである。だが、彼が一人で国を治めている訳ではない。皆で力を合わせて治めている。

 ならば、彼等が一つになる源は何なのか。何が皆を動かしているのか。


(そういえば、エリックはこんなことも言ってたわね。王とは人の上に立つ者ではない。人の前に立って彼等を導く者だって)


 人の上に立つということは、下になった人々を支配するということ。だがアリエスは、民を力で押さえ付けようとは思わない。強い力を加えれば加える程、反発が返って来るだけ。家庭教師であるエリックとのやり取りの中で、身をもって理解していた。

 では、人の前に立つとはどういう意味なのか。まず手始めに、その場面を想像してみる。


(皆に背中を向けるの? でもそれじゃあ、皆のことが見れないじゃない)


 前しか見られない人間は、後ろで起こっていることは把握出来ない。ということは、危険が迫っていても気付くことが出来ない。そうかと言って、後ろを振り向いてばかりでは転んでしまう。満足に前進も出来ない。

 だがもしも、後ろに信頼出来る人間がいたとしたら。例えばそれが、イリアたちだったら。すぐさま危険を知らせ、助けてくれるに違いない。必要なのは、背中を預けられる程に信頼出来る仲間。

 その瞬間、彼女は軽く目を見開いた。数珠繋ぎに出て来るのは、求めていた答え。これならばエリックを納得させられるかもしれない。彼女は顔を上げ、踵を返した。




 エリックの部屋の前に立つアリエスは、緊張した面持ちをしていた。震えそうになる足を叱咤し、手を伸ばす。そして静かにノックした。


「エリック、ちょっといい?」


 意外にも、声は震えることなく真っ直ぐに通る。それでも彼を待つ時間が永遠を思わせ、否応なしに緊張感が増していった。しばらくして、開いた扉の中から彼が姿を見せる。

 その瞬間、彼女の体が強張った。表情も固い。だが意外にも、彼は小さく笑みを浮かべていた。


「どうやら宿題の答えが出たようですね」

「え……どうして分かったの?」

「アリエス様の顔を見れば分かります。ですが、今は聞かないでおきます」


 予想外の展開。まさかそんな言葉を聞くとは思わなかった。

 思考が停止し、呆気に取られる。そんな彼女に、彼は笑みを深めた。それは今日の空のように、晴れやかな笑顔だった。


「アリエス様のことですから、思い付いたまま来たんでしょう。そういった勢いも大事ですが、アリエス様は熟慮や慎重さが欠けています。出発は二、三日後を予定していますから、この際、じっくり考えてみてください」


 彼の笑みを残し、静かに扉が閉まる。一人残されたアリエスは、目を点にしてそれを見つめ続ける。しばらくすると、唇を尖らせて引き返すのだった。




 城のとある一室から、二人の男女が出て来た。イリアとルイファス。晴れ渡った空とは対照的に、彼女たちの顔は曇っている。ガルデラ神殿を襲撃し、ヘレナを連れ去った犯人の決定的な情報は得られなかった。ロメインたちもまた、彼等の正体を掴みあぐねていたのだ。

 いつの間にか、彼女の口から深いため息が漏れていた。


「私……少し外の空気を吸って来るわね」


 そう告げると、彼女は足早に廊下を曲がった。俯いて表情を隠しながら。

 その様子から何かを感じ取ったルイファス。彼女の後姿を見つめながら、眉間にしわを寄せて思案する。しばらくして彼は、彼女の後を追って歩を進めた。

 その時、弾むような明るい声が彼を呼び止める。振り返ると、興味深そうに目を輝かせて笑みを向けるティナの姿。だが、どこか浮かない彼の顔を目にした途端、怪訝そうな表情に変わった。


「ちょっと、どうしたの? 情報交換で仲間のとこに行ってたんでしょ? 奴等の情報が手に入らなかったの?」

「ああ、奴等に繋がるものは無かった。だが、気になることが無かった訳じゃない」


 思わせぶりな言葉を吐くルイファス。ティナが興味深そうに身を乗り出すと、彼は神妙な面持ちで口を開いた。

 彼が気になったのは、イリアの指摘と同じ。暗殺現場に魔力の痕跡が残されていたことだ。ガルデラ神殿には残されていなかったことも併せると、妙に引っ掛かる。

 だが、その痕跡が今も残っているとは限らない。仮に残っているとしても、エリュシェリン王国側が現場検証を許可するかも分からない。結局のところ、新事実は得られなかったも同然なのだ。

 聞き終えたティナは落胆を隠さず、深いため息を吐いた。


「なんだ、残念……。そういえば、イリアは?」

「外の空気を吸いたいらしい。だが、あれは何か隠している顔だ。また一人で抱え込んでいるんだろうな」

「分かった。捜して、ちょっと話を聞いてみる!」


 聞くや否や、ティナは駆け出した。去り際に見せた瞳は、仲間であり友人である少女のことしか映っていない。

 その感情は時に、狙いとは逆の効果を招くこともある。しかし今は、その熱い思いが頑なな心を少しでも溶かしてくれれば、と仄かな希望を抱かずにはいられない。

 彼は小さくため息を吐くと、再び歩を進めた。先程よりも若干、速度を速めて。




 エリュシェリン王国の城の客室にはそれぞれ、姿見が置かれている。金や銀の縁に細やかな彫刻が施された、とても美しい鏡だ。

 その前で自分の姿を見る男の子。頭には犬のような小さな耳。ふわふわの明るい茶色の毛に覆われるも、力無く垂れている。

 彼の後ろから鏡を覗く少女は、純白のローブを纏っている。彼女は胸の前で手を叩くと、満面の笑みを浮かべた。


「その服もよく似合ってるよ、アウルくん!」

「……そうかな?」


 やや顔を俯かせながら、アウルは振り返った。ショートパンツにスニーカー、そしてフードが付いたパーカーをシャツの上に羽織っている。犬のような耳を除けば、王都の市街地を駆け回る子供と変わり無い格好だ。

 そんな彼を元気付けようと、彼女は大きく頷いた。だが彼の表情は、思ったように晴れない。彼女は一瞬だけ悲しげに顔をしかめると、包み込むような優しい微笑みを向けた。そして膝を着き、目線を合わせる。


「ねえ、アウルくん。今日はお散歩しようか。お庭に綺麗なお花がいっぱい咲いてるよ」

「でも……」

「大丈夫。こうすれば絶対に苛められないよ」

「……ジュリアお姉ちゃんも一緒?」

「もちろん」


 アウルの頭にフードをかぶせ、にっこりと笑う。不安に苛まれる心を癒すように。

 しばらくすると、おずおずと彼女の手を握ってきた。沈黙に耐えかね、挫けそうになっていた彼女は胸を撫で下ろす。そしてしっかりと、彼の小さな手を握り返した。




 大理石の廊下を、ジュリアとアウルは並んで歩く。その間に話し掛けるのはいつも彼女の方で、彼は時々相槌を打つだけ。

 だが、今日の彼は少し違っていた。


「アウルくん?」


 不意に足が止まり、微動だにしなくなる。そうかと思えば顔を上げ、必死に何かを探し始めた。


「――おね――ん……?」


 呟いたのは、誰かの名前。だが、肝心な部分を聞き取ることは出来なかった。それでも、その人物が彼にとって大切な存在であることはよく分かる。今にも泣きそうな程に瞳が揺れているのだから。

 だが、拭いきれない疑問が残る。一体誰が獣人である彼の心を震わせているのか。しかも、その人物がこの城の中にいる。どこで知り合ったのかも全く想像が付かない。


「アウルくん!?」


 いきなりアウルが走り出した。勢いはぐんぐんと増していく。

 その変貌ぶりに、ジュリアは訳も分からず狼狽える。次の瞬間、我に返ると、既に遠くなった彼の背中を慌てて追い掛けた。




「イリアっ!」


 後ろからティナの声が届く。立ち止まって振り返ると、焦燥感に満ちた彼女の顔が目に飛び込んで来る。駆け寄って来た彼女に、イリアは不思議そうに問い掛けた。


「ティナ、どうしたの? そんなに慌てて」

「イリアに話があってね。ルイファスから聞いたよ。何か思い詰めてる顔してるって」


 一点の曇りも無い、ティナのターコイズブルーの瞳。それがイリアの翡翠色の瞳を見据えている。

 あまりに真っ直ぐな視線に、イリアは思わず目を伏せた。心配を掛けさせまいと微笑んで見せるも、顔が強張って上手く笑えない。それでも笑みを張り付け続けた。


「そんなことないわ。ルイファスったら、ティナに変なこと言って……」

「誤魔化そうとしたって無駄だよ。嘘つくの下手なんだから。ねえ、何を隠そうとしてるの?」


 イリアの肩が小さく揺れる。それを見逃すティナではない。彼女もまた、確信していた。胸の中に悩みを隠していると。そして今度は、すがるような目で翡翠色の瞳を見据えた。


「何でも話してよ。アタシたち仲間じゃん。放っておけないよ。……もしかして、巫女様のこと? 情報が思うように集まらなくて、焦ってる?」


 先程とは違い、目に見えてイリアの肩が震えた。顔がしかめられ、視線を泳がせている。

 その時、勢いよく走って来る靴音が聞こえてきた。数は二人。程なくして、叫ぶように名前が呼ばれた。


「イリアお姉ちゃん!」


 その瞬間、イリアの目が大きく見開かれた。聞き覚えのある声。だが、すぐには信じられなかった。二度と聞くことはないと思っていたからだ。

 胸の騒めきを抑え、声の方へ体を向ける。見えた姿は彼女の想像通りのもの。ウェスティン村から帰る途中に出会った獣人の少年、アウルだった。

 その時、耳を隠していたフードがめくれてしまった。だがアウルはそれに気付かず、一直線に走って来る。そしてそのまま、イリアに抱き付いた。彼女は目を白黒させながらも、しっかりと受け止める。


「アウル!? どうして貴方が……」


 戸惑ったように問い掛けるも、答えは返ってこない。しがみ付いて泣きじゃくるだけ。

 その時、遅れてジュリアが走って来た。彼女は向かう先の光景に一瞬だけ足を止めると、駆け寄る速度を緩める。


「イリアちゃん……? え……え? 何でアウルくんのこと……?」


 イリアは、混乱するジュリアにアウルとの出会いを語り始めた。ウェスティン村からアクオラに帰る途中、魔物に襲われていた彼を助けたこと。挫いた足の手当てをし、途中まで送って行ったことを。

 するとジュリアは、柔らかな笑みを浮かべる。そして今度は、事情を問い掛けるイリアに説明をした。村が襲われ、母も失い、奴隷商人に売られそうになったこと。犯人に逃げられる直前にジャッキーが彼等を捕まえたことを。

 だがしばらくすると、悲しげに眉尻が下がっていく。伏せた目は僅かに潤んでいた。


「でも、アウルくんが獣人だって分かると、ロズウェル隊長は彼を手に掛けようとした。わたしはそれが我慢出来なくて……」

「ジュリアらしいわね。目の前で誰かが傷付くのは嫌って、いつも言ってたものね」

「うん。それは獣人でも変わらなかったよ」


 言いながら、安堵したような穏やかな笑みを浮かべる。心の底から嬉しかったのだ。イリアもまた、獣人に偏見を持っていないことが。

 だが、誰もが獣人に理解がある訳ではない。言い伝えを鵜呑みにしている者がほとんどだ。または、未知の存在として特別に意識していなかった者もいる。後者であるティナは、時が止まったようにアウルを凝視していた。

 その時、彼女たちの背後から声が掛かる。爽やかな笑顔を浮かべ、ジュリアを見つめるルイファスだ。彼は軽やかな足取りで一行の元へやって来た。


「ジュリアちゃんも来てたのか。久しぶりだな。……ん?」


 視界に入ったのは、子供を抱き締めるイリア。そして特徴的な、犬のような耳。不意に、ある顔が頭を過る。

 一方の子供は、ルイファスが来ると同時にピクリと耳が動いた。じっと見上げる目には、驚愕のあまりに絶句する彼の顔が映っている。その途端、再び大粒の涙がぼろぼろと溢れ出すと、彼に抱き付こうと手を伸ばした。


「ルイスお兄ちゃん!」

「お前……アウルじゃないか!」


 イリアの腕の中で少し落ち着きを取り戻したかに思えたが、再び火が点いたように泣き出してしまう。ルイファスが戸惑いながらも抱き上げると、アウルは彼の首にしがみ付いた。

 だが隣にいたカミエルは、明らかに様子が違っていた。ティナと同様に硬直しているが、その顔は嫌悪と疑念に満ちている。しばらくして、震える唇で声を上げた。


「ど、どうして獣人がこんなところに……!」


 敬虔な信徒である彼は当然、獣人に対する理解は無い。不浄で凶暴な生き物とされる獣人は、彼等にとって最も忌まわしい存在だった。例え現実で目にしたことが無かったとしても。

 ジュリアにじっと見つめられ、彼は息を呑む。彼女の真摯な眼差しに、混乱する思考が鎮まり返っていく。そんな彼の頭に、穏やかに語り掛ける彼女の声が静かに浸透していった。


「この子がここにいる理由は、以前、図書室で貴方にお話した通りです」

「では、あのフードの子が獣人……ですが、神騎士団の貴女がどうして」

「例え獣人でも、目の前で傷付く姿を見るのは嫌だった。それだけです」

「ですが……」

「貴方の言いたいことは、よく分かります。ですが、彼等が貴方に何かしましたか? 危害を加えましたか? 命の重さは、人も獣人も変わらない……わたしはそう思います」


 カミエルは何も言い返せなかった。彼女の言葉が胸に突き刺さる。彼は口を真一文字に引き、自分の足元に視線を落とした。その顔に、先程までの嫌悪感は見られない。戸惑いが色濃く広がるだけだった。

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