第28話 遥かなる大海へ

 イリアには、幼少の頃の記憶が無い。

 これはヘレナや大司教のフィリップ、そしてルイファスたち聖騎士団。神殿のごく限られた人間だけが知る、彼女の秘密。彼女の親友のジャッキーやジュリア、エドワードすら知らないことだ。


「お前は、一体……?」


 得体の知れないものを前にしたように、呆然と男を見つめる。先程までの張り詰めた気迫など、すっかりなりを潜めていた。

 すると、男は口元を歪め、嘲笑混じりに吐き捨てる。


「なあ、イリア=クロムウェル。記憶が無い生活はどうだ? お前にとっては、さぞかし快適だったんだろうな。あの悪夢を忘れていられるのだから。……もっとも、俺は悪夢とは思っていないが」

「悪夢……?」

「お前が記憶を無くした原因だ」

「っ!?」


 小刻みに肩が震える。懸命に抑え込もうとするが、止まらない。それどころか全身に広がっていく。

 それに気付いた男は、ニィッと口を横に引いた。まるで、彼女を甚振ることに快感でも覚えたかのように、楽しげに。


「大挙した魔物。辺り一面に広がる血の海。破壊し尽くされた神殿。……何か思い出さないか?」

「……黙りなさい」

「そうか……お前は拒絶するんだな。だが、そんなことでは、俺には手も足も出せないぞ」

「黙りなさい! お前の言葉など聞きたくもない!」

「そう言うな。知りたいのだろう? ならば、俺が教えてやる。お前の忘れ去られた記憶と共にな」


 刹那、イリアの目がさらに大きくなる。と同時に翡翠の瞳は揺れ、瞬く間に恐怖で支配されていった。足は完全に竦み上がる。硬直した体は身動きすらも許さない。

 男は恐怖を煽るように草を踏み締めながら、ゆったりと彼女に近付いて行く。


「っ、いや……やめ……!」

「俺の正体。そして、お前が記憶喪失であるという事実を知っている理由を」

「いや……いや、いやっ! お願い、やめて。来ないで。それ以上近寄らないで! 私はそんなの知りたくない。聞きたくないっ! やめて、いやあぁ……っ!」


 体が激しく震え始める。遂には敵の前だということを忘れ、エクスカリバーから手を離してしまった。だが、今の彼女に、そんなことを気に留めていられる余裕など無い。耳を塞ぎ、きつく目を閉じる。


「そう、全ての始まりは十年前……」

「……やめて」

「あの日の夜、それは突然起きた」

「やめて! いやあああああああああっ!」


 力無く、膝から崩れ落ちた。彼女は自分の体に腕を回し、小さく蹲っている。足を止めた男は、その様をじっと見下ろしていた。


「そうやって逃げ続けて何になる」

「……やめて」

「過去を無かったことにしようとしても無駄だというのが分からないのか?」

「やめて……もうやめてっ! 無くした記憶なんてそのままでいい。そんなもの私はいらない。私には関係無いっ! 消えて……今すぐ私の前から消えてっ!」


 癇癪を起こした子供のように、ぶんぶんと首を振る。男の言葉通り、恐怖がイリアの心を侵食する。闇が無慈悲に押し寄せる。

 今にも押し潰されそうになった時、ある顔が頭に浮かんだ。優しく微笑むその顔は、イリアが求めて止まない女性のもの。


「っ、姉様……ヘレナ姉様……助けて、姉様……!」


 大きく見開いた目は、焦点が定まっていない。男の存在はいつの間にか、頭の外に追い出されていた。

 そんなイリアの取り乱した姿を前にしても、男は全く微動だにしない。男はしばらくして静かに唇を開き、誰かの名前を口にした。

 次の瞬間、彼女の目から大粒の涙が零れ落ちた。はらはらと涙を流す一方で、何故泣いているのか、理解出来ていない顔をしている。その目はゆっくりと男を捉えた。

 何かに突き動かされるように、男は止めていた歩みを再開する。そして、彼女の目の前まで足を運ぶと、静かに身を屈めた。


「……な、に」


 それは一瞬のことだった。彼女が気付いた時、目の前に広がる景色が変わっていた。

 正面には、彼女をじっと見下ろす男。その背後には、輝く星々が一面に広がっている。土の匂いはより近くに感じられ、背中には草の感触。きつく掴まれた両手首は、じんじんと痛みを放っている。


「お前はもう逃げられない……動き始めた歯車は、もう止められない……」

「何を……言っているの?」

「だが今なら……もしかしたら……」


 少しずつ、イリアの瞳の揺れが小さくなっていく。男に焦点が合い始める。

 それを感じ取ったのか、男はそっと彼女から離れた。ゆっくりと身を起こす様子を、静かに見下ろす。


「今日は警告に来ただけだ。この件から手を引け。お前たちが手を引けば、危害は加えない。だが、邪魔をするなら……お前たちを殺す」


 今まで淡々と話していた男の声が、僅かに揺れる。いつものイリアならば、それに気付いただろう。だが、思考が停止している今は、そこまで聞き取ることは出来なかった。

 男は素早く踵を返し、彼女から距離を置く。すると、男の周囲が陽炎のように揺らぎ始めた。そして、おもむろに足を踏み入れた、次の瞬間。男の背中はあっという間に空間の歪みに呑み込まれていった。後に残るのは、一陣のつむじ風のみ。

 と同時に、辺りを包んでいた魔力が霧散する。ルイファスたちが目を覚ましたのは、そのすぐ後のことだった。


「んー……? イリア?」


 ティナは大きな欠伸を掻くと、寝ぼけ眼でイリアを見つめ、首を傾げる。カミエルもまた、ぼんやりと彼女を見つめていた。

 その中でいち早く異変に気付いたのはルイファスだった。全く状況が呑み込めないが、イリアが衰弱しきった様子で涙を流している。それを目にした途端、弾けるように駆け出した。

 イリアもまた、足をもつれさせながら立ち上がると、彼の胸に飛び込んだ。服にしがみ付き、嗚咽を漏らして泣きじゃくる。


「どうした? 何があった?」


 努めて冷静に問い掛ける。だが、彼女は涙を流すばかり。落ち着かせようと背中を撫でるが、尋常ではない様子に、困惑を隠せない。

 流石に異変に気付いたのか。カミエルとティナも、慌てて二人の元に駆け寄って来た。


「一体、何があったんですか?」


 カミエルは胸の前で固く手を握り締め、痛ましそうに呟いた。

 ティナは眉をひそめていたが、これ以上は見ていられない、とルイファスを見上げた。だが、静かに首を振る彼に、顔を歪めてしまう。

 どうすることも出来ない三人は、互いの顔を見合わせるしかなかった。




 焚き火を取り囲むように四人が座る。重苦しい沈黙。三人が目を覚ました時、ちょうど頭上にあった星は、既に西の方に傾いていた。

 ちらり、とティナがイリアに目をやった。視線の先にあったのは、呆然と火を眺めている姿。だが肩の震えは、いつしか落ち着きを取り戻していた。


「ねえ、イリア。何があったか、聞いてもいい?」


 ティナが口を開く。ようやく鎮まった心を刺激しないように穏やかに。

 イリアは小さく頷いた。自分の気持ちを落ち着けようと、ゆっくりと、深く息を吐く。そして、おもむろに口を開いた。


「黒いローブの魔術師が現れたの。あの時、神殿の中で対峙した魔術師だと思う」

「何、本当か!?」

「そんな人が、こんな近くまで来ていたなんて……」

「ルイファスたちは奴に眠らされていたの。姿を見せた目的は、私たちへの警告。この件から手を引くように言っていたわ。あと、それと……」


 そこまで言い終え、口を噤む。その表情は固い。

 ルイファスたちの視線を受けながら、しばらく沈黙を続けた後。意を決したように声を上げた。


「私のことで知らないことは何も無い、とも言っていたわ。私に子供の頃の記憶が無いことも、知っていた」


 その一言に、ルイファスはハッと息を呑んだ。普段は感情を露わにしない彼でも、これには驚きを隠せない。唇を噛み締めながら目を伏せるイリアを、じっと見つめていた。

 カミエルとティナの二人は、初めて知らされた意外な事実に、目を丸くしている。

 彼等が口を開こうとした、その瞬間。ルイファスの声がそれを遮った。


「見張り番の交代だ。イリア、お前はもう休め」

「え、でも……」

「どのみち、時間だっただろう?」

「そうだよ! 後はルイファスに任せて休みなよ」

「オルケニアまで、まだ道は長いです。そんなことでは、また倒れてしまいます」


 話はまだ終わってない。だが彼等は、口を揃えてイリアを休ませようとする。

 いつもの彼女であれば、間髪入れずに反論するところだ。しかし今日ばかりは、そんな気力すらも湧き起こらない。


「……ごめんなさい。そうさせてもらうわ」


 後ろ髪を引かれながらも、腕輪の宝石から毛布を取り出す。それで身を包むと、程なくして寝息が聞こえてきた。

 それを確認し、まず声を上げたのはティナだった。


「ねえ、イリアに何があったの? 記憶喪失ってどういうこと?」


 それは話の核心。酷く取り乱したイリアは、カミエルとティナにとって、衝撃以外の何物でもなかった。そしてルイファスは、話を遮ってまで彼女を話題から遠ざけようとした。何かあるとしか思えない。

 その彼は、神妙な面持ちで口を閉ざしていた。深く息を吐き、目を閉じる。

 彼等の問いが、ただの好奇心からくるものだったなら、無理矢理にでも誤魔化そうと思っていた。だが、彼等の目は真にイリアを心配している。この二人ならば、彼女の心の傷を抉るようなことはしないはずだ。何より、彼女のあのような姿を見られてしまった以上、隠し通す方が今後の旅に影を落としかねない。

 そう結論付けた彼は、悲しげにイリアを見つめた。


「あいつには、九歳より昔の記憶が無い。何があったのか……俺も詳しくは知らないんだ。あいつと出会った時には、既に記憶を無くしていたからな」

「では、何か覚えていることはないのですか?」

「名前以外は、何も。最初は名前も覚えていなかったらしいがな。それ以外のことを思い出そうとすると、何故か、手が付けられない程の錯乱状態になるからな。俺たちは極力、あいつの失った記憶には触れないようにしてきた」

「じゃあ、イリアがあんな風に泣いてたのって……」


 そこから先は想像に難しくない。彼女の失われた記憶に、あの魔術師は無理矢理に触れたのだ。絶望と恐怖に襲われた時の彼女を想像しただけで、胸が締め付けられる。


「そいつ、絶対に許せない! 人の気持ちを弄ぶなんて……一発殴り飛ばしてやらなきゃ気が済まない!」

「それにしても、複雑ですね……。少しでも思い出していただきたいですが、それがイリアさんにとって大きな負担になるなんて」


 憤慨するあまり、今にも爆発してしまいそうなティナ。まるで自分のことのように、苦しそうに顔を顰めるカミエル。

 そんな二人の様子を見たルイファスは、密かに安堵する。


「話はここまでだ。お前等も休め。夜が明けたら、また移動だからな」


 ルイファスは小さくなった火に薪木を投げ入れる。よく見ると、いつの間にか彼の毛布は仕舞われ、代わりに弓の手入れの道具が出されていた。

 不意に、欠伸が一つ。そしてつられて、小さくもう一つ。


「じゃあ、遠慮なく。すっごくモヤモヤしてるけど、寝ないとキツイし」

「カミエルも眠いだろ。こっそりと欠伸をしたこと、気付かれていないと思ったか?」


 言い当てられ、カミエルは恥ずかしそうに笑って誤魔化した。軽く頭を下げ、毛布に戻るティナに続く。

 それからしばらくして、火が爆ぜる音が響く中、ルイファスは短く息を吐いた。弓の手入れでもしようと思っていたが、全く集中出来ないでいる。

 そして彼は、穏やかに眠るイリアの顔を眺める。いつもなら気持ちが温まるところだが、今日はそれも出来そうにない。彼女に接触してきた魔術師に対して、気が狂いそうな程の怒りに震えていたのだから。




 黒いローブの魔術師との対峙からさらに陸路を進み、イリアたちは遂に、エリュシェリン王国の西の玄関口、オルケニアに足を踏み入れた。この港からは、テルメディア大陸の玄関口である、ブラバルドへの定期船が出ている。王国内で唯一の港街だ。

 目の前に広がるのは、どこまでも続く水平線。水面は太陽の光が反射し、風に乗った海鳥たちがゆらゆらと飛んでいる。

 桟橋へと視線を移せば、屈強な作業員たちが忙しそうに船荷を積み込んでいる。

 その間も帆船は港への出入りを繰り返していた。絶えず移動する人々の流れ。それに向けられる商人たちの客引きの声も活気が良い。

 港街特有の、賑やかで開放的な雰囲気。カミエルもティナも目を輝かせていた。街に到着した、その時までは。

 そうして乗船の手続きを済ませたイリアたち。出航時間になるまで、港近くの食堂で早めの昼食を取ることにした。


「いっただきまーす!」


 上機嫌で肉にナイフを入れるティナ。その隣のカミエルは、どこか浮かない顔をしている。食の進みも遅い。

 その時、テーブルの窓から、特に大きな帆船が港に入って来るのが見えた。食堂の前を行く人々の遥か向こうにあっても、その雄大さに圧倒される。ティナは思わずナイフとフォークを置き、爛々と目を輝かせた。


「あ! あの船に乗るんだよね! アタシ、船旅は初めてなんだ。楽しみだなー!」

「でも、大丈夫でしょうか……事故に遭ったりしませんよね……? いくら船に女性の名前を付けるのが通例とはいえ、シレーネなんて、海の魔物を模した名前を付けるなんて……不吉です!」

「いや、よく考えられていると思うぞ。海の魔物の名前を付けておけば、向こうも仲間だと思って襲って来ないだろう、なんて発想、なかなか浮かばないからな。感心するよ」

「そうそう!」


 軽く笑い合うルイファスとティナ。カミエルは、信じられないようなものを見るような目で二人を見つめている。イリアは困ったような顔をしながらも、どこか楽しそうにクスクスと笑っていた。

 その時、ティナは「でもさ」と不思議そうに首を傾げた。


「テルメディア大陸へ行くのに、なんでシルビス連邦を経由すんの? ポートピアから大陸を東へぐるっと回って、ブラバルドへ行く方が近いのに」

「それは出来ないわ。ユグド大陸とテルメディア大陸の中間辺りの海域は霧が発生しやすくて、魔物の巣窟でもあるの。そこを船が通過するのは危険過ぎるわ」

「ふーん……そうなんだ」


 その後も、和やかな雰囲気で食事が進む。そして、イリアとティナが食後のデザートを食べ終えた時のことだ。

 甲高い笛の音が辺りに鳴り響く。振り向けば、白い帆の中で旗を振っている人がいるのが見えた。出航の時間が近付いている合図だ。


「さて、そろそろ行くか」

「そうね。サラさんからヒースさんを紹介してもらうために、サラマンダーの涙を手に入れなきゃね」

「でもまずは、楽しい船旅の始まりだね!」

「……僕にとっては憂鬱だけど」


 それぞれの思いを胸に秘め、イリアたちは甲板へ足を踏み入れた。それから間もなく、今度は長い笛の音が響き渡る。出航の合図だ。

 しばらくして、船はゆっくりと桟橋から離れ始める。作業員たちや道行く人々が無事を祈り、見守る中、波を切りながら水平線の彼方へと進んで行った。



第1章  完

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