第21話 二人の冒険

「港はこの街道を真っ直ぐ、か。なんだ、案外簡単だね」


 草原の中に、どこまでも続く石畳。目指す街はその先。さらに向こうは海原。そして大陸が続いている。そこに広がるのは、未知の世界。

 少女は満面の笑みを浮かべ、歩き続ける。高鳴る鼓動。軽やかな足取り。肌にしっとりと滲む汗すらも心地良い。遥か遠くを見つめるターコイズブルーの瞳は、太陽の光に負けない輝きを放っていた。

 不意に、冷たい風が火照った体を撫でた。そよ風は次第に強さを増していく。足を止め、弄ばれる髪や服の裾を軽く押さえながら空を仰いだ。

 雲の流れが速い。そう思ったのも束の間。爽やかに晴れ渡っていた空が薄い雲に包まれていく。彼女の顔もまた、仄かに影が差した。


「ねぇ、ティナ。やっぱり戻ろうよ。僕たちだけじゃ危ないよ」


 切れた息を鎮めながら、彼女の後ろから声を掛ける。それを聞いただけで、彼の心が容易に手に取れるような気がした。


「何情けない声出してんの? 大丈夫だって。ミックのことはアタシが守るって言ってんじゃん」


若干の苛立ちが滲んだ声を返す。振り返った先にあったのは、彼女の予想通りのもの。眉尻が垂れ下がったカミエルの顔だった。思わず、ため息が漏れる。

 そんな彼女に、彼は一瞬だけ怯む。だが、再度引き留める声を上げようとしたその時、彼女の方が僅かに早く口を開けた。


「ほら、早く先に進むよ。ちょっと雲行きが怪しくなってきたしね」


 エリュシェリン王国の地図を広げて方角を確認すると、先を急ぐように歩き出した。やや大股に進むその歩調からは、迷いや恐れは微塵も感じられない。

 カミエルはその後ろを付いて行く。彼女とは対照的に、時折振り返りながら、及び腰で歩いていた。顔は困惑の色に染まっている。その頭の中は行く先の不安と、王都に残してきた者たちへの申し訳なさが渦巻いていた。ため息が止まらない。


「やっぱり駄目だよ。置手紙だけ残して飛び出してくるなんて。一度戻って、ちゃんと――」

「正直に話して、許しを得たいって? そんなことしたら、やっぱり反対されてお終いに決まってんじゃん。足手纏いだって言われたなら、そうじゃないってことを証明しなきゃ!」

「だからって、王都から出たこと無い僕たちが、いきなりオルケニアなんて……」

「イリアたちはサモネシア王国に向かうんでしょ? だったら、とりあえずの目的地は一緒じゃん」


 二人が目指すのは、大陸西部に位置する港町、オルケニア。エリュシェリン王国内で唯一、サモネシア王国へ向かう船が停泊する街である。

 だが、これはあくまで推測でしかない。彼女等に次の目的地を聞いた訳ではないのだ。よって、これが無駄足になる可能性はゼロではない。

 それだけならまだ良い。街道を進むだけとはいえ、このユグド大陸は世界一の面積を誇る。東西のほぼ中央に位置する王都から海を目指すのだ。その道中には、様々な危険が潜んでいるに違いない。その最たる例として、カミエルはあることを危惧していた。


「でも、途中で魔物と遭遇したらどうするのさ……」


 ひっそりとした呟きが耳に届いたのだろうか。ティナは元々大きな目をさらに丸く広げた。


「なんだ、そんなこと? 大丈夫だよ。その時は、アタシが倒してあげるから」


 茶目っ気たっぷりに笑みを浮かべながら、握り拳を作る。そんな彼女を眺めながら、カミエルはふと思う。彼女もまた、これまで魔物を見たことが無い。にも関わらず、この溢れんばかりの自信はどこから湧いてくるのか。到底、理解が及ばなかった。

 その時、空から滴が落ちてきた。最初はポツポツと降っていたのが、次第に雨足が強くなっていく。


「うそ、雨!? 困ったな……この辺に町は無いのに」

「あそこの森だったら、雨宿り出来るくらい大きな木があるかもしれない。行ってみよう!」


 知識として、森は魔物の巣窟であることは理解している。だが、先にも後にも引けないこの状況では、そうする以外に道は無い。

 ティナは了解を目で伝え、二人は駆け出した。あまり奥には入らず、適当な木を見付けてその下に飛び込む。安堵の息を吐いてから、黒い空を仰いだ。


「雨、どんどん強く降ってきてるね」

「うん……しばらく止みそうにないね」


 水が滴る服や髪を絞りながら、今度は深いため息を吐いた。大粒の雫が木の葉や地面とぶつかる度、バラバラと大きな音が鳴る。時折、唸り声にも似た雷鳴が遠くで響いている。

 だが意外にも、あまり時間が経たないうちに小康状態に陥っていった。白くぼやけた視界が、少しずつ輪郭を取り戻していく。

 次の瞬間。


「っ!?」


 周囲を包むのは、静電気が流れるような、ピリピリとした気配。今まで感じたことの無い剥き出しの敵意に、一瞬、二人の体は怯んでしまった。

 その隙を見逃さず、影は彼女の脇を擦り抜ける。ハッとした彼女は、かろうじて体を捻ってそれをかわした。かに見えたが、固まっていたものを咄嗟に動かすのは容易ではない。腕に赤い筋が走り、顔をしかめたのだった。




 止め処なく叩き付ける水しぶきの中、イリアとルイファスは馬を走らせた。堅硬な城塞の中で安穏と暮らしてきた二人が、自分を守るものが何も無いところへ飛び出したのだ。否が応にも胸が騒めく。

 不意に、森の方から耳障りな断末魔が聞こえてきた。思わず足を止める。注意深く気配を探っていると、同じ方向から白く淡い光が漏れているのが見えた。


「今のは……魔物のものだな」

「それに、あの光。神聖魔法のものだわ!」


 強い焦燥感を胸に、光を目指す。だが、そんな思いとは裏腹に、それは次第に弱まっていく。そうして元の薄暗い森に戻ったのと、彼女等がそこへ辿り着いたのは、ほぼ同時のことだった。


「あ……クロムウェル様、ルイファスさん」


 光の中心にいたカミエルは、突如現れた人影にビクリと肩を震わせる。だが、それがイリアとルイファスだと気付くと、呆けたように目を点にした。みるみるうちに顔を歪めて口を開閉させるも、何を言っているのか要領を得ない。

 そんな彼の様子よりも衝撃を受けたのは、彼の膝枕で眠るティナの姿だった。


「ティナっ!」


 駆け寄ったイリアは馬上から飛び降り、血と雨に濡れた青白い肌に触れた。その瞬間に指先から伝わる冷たさに一瞬、顔をしかめる。そして、素早く目を走らせ、彼女の容態を確認していった。

 一方のルイファスは、馬に跨ったまま周囲を警戒している。真新しい血痕と砂の山に目をやり、その向こうの草むらに意識を集中させた。細めた目が鋭い。

 すると、彼の腕輪の石が光を発したかと思えば、どこからともなく弓が現れ、手の中に収まる。そして、流れるように構えた。


「ルイファスさん?」

「黙ってろ」


 冷たい声に気圧され、カミエルは身を強張らせる。彼の様子は、周囲の異変を知らせるには十分過ぎた。加えてイリアもまた、剣の柄に手を添えている。

 そう知覚したと同時に、再び風切り音が耳をつく。次の瞬間、甲高い鳴き声と共に、慌ただしく草を踏み分ける音が辺りに響いた。そして間髪入れず、彼は音の方向へ何本かの矢を放つ。それを受けて、音の主はどこかへ逃げて行った。

 しばらくして、再び腕輪の石が光り出し、弓が吸い込まれていく。馬を降りたルイファスは、カミエルの傍にしゃがみ込んだ。


「とりあえず、ここを離れよう。血の臭いで魔物が集まり始めている」


 ティナを背負って立ち上がり、「立てるか?」と彼を見下ろす。その瞳の優しさに、彼は思わず安堵の息を吐いていた。しっかりと頷き、震える手に力を込める。膝が笑っているが、泣き言は言っていられない。

 カミエルを馬に乗せ、手綱を引いてルイファスは歩き始める。背中のティナに負担を掛けないように、ゆっくりとした歩調で。彼等の後ろからは、周囲を警戒するイリアが続く。

 しばらくして、彼女等は足を止めた。そこは水辺も近い街道の脇。


「この辺りまで来れば、とりあえずは大丈夫だろう」

「そうね。私はここで準備をしてるから、見回りと薪集め、お願いね」

「ああ、頼んだぞ」


 木の根元にティナを寝かせ、自身のコートを掛けてやると、ルイファスは踵を返した。残されたイリアの腕輪の石が光り、野営の道具一式が現れる。未だに呆けているカミエルを他所に、着々と準備を進めていった。




 いつの間にか日が暮れ、夕食を済ませ、見張りのルイファスを残してイリアが床に就く。これ等は確かに、目の前で繰り広げられたものだ。そのはずなのに、隅に追いやられた記憶は酷く朧げで、手を伸ばしても擦り抜けていくばかり。

 にも拘らず、あの雨の、あの森の光景だけは、はっきりと脳裏に焼き付いていた。火が焚かれて肌は熱を持っているのに、体内は血の気が引いたかのように寒かった。


「私は、酷い人間です」


 炎が爆ぜる音にカミエルの呟きが交じる。ルイファスが目をやると、彼は下を向き、蹲って震えていた。沈黙がしばらく続くと、彼は膝に顔を埋めたまま、再び口を開く。


「ティナが先回りしようと言い出した時、止めようと思えば止められたんです。ですが、私はそうしなかった。私も行きたい気持ちがあったからです。口では危ない、引き返そうと言いつつも、実際に行動に移すことはなかった。その結果、ティナが酷い怪我をして、病み上がりのクロムウェル様や、ルイファスさんにも迷惑を掛けてしまった。……本当に、申し訳ありませんでした」


 嗚咽交じりの声で、何度も謝罪が繰り返される。ほっそりとした肩は頼りなく、ほんの少し力を加えただけで折れてしまいそうだ。

 そんな彼に、ルイファスはそっと目を伏せた。このような無理をしてしまう程に旅に出たいと思っていたとは、予想外だったのだ。彼は努めて、穏やかに声を掛ける。


「とりあえず、今は休め。ゆっくり休んだら、王都へ戻るぞ。皆、お前等のことを心配しているからな」


 小さく頷いたカミエルの上に毛布を被せる。すると彼は掻き毟るようにそれを掴み、静かに横になった。すっぽりと体を覆いながら。

 その様子を見つめながら、ルイファスは物思いに耽る。僅かに苦い表情を浮かべながら。そっと目を閉じ、深く息を吐いたのだった。




 ふと、目が覚める。視線を動かせば、赤々と燃える炎。そして、闇に映える純白の背中が隣に座り、炎をじっと見つめていた。その向こうには、毛布にくるまって寝転がる二人分の姿も見える。

 この三人は一体何者なのか。体を起こして確かめようとしたが、上手く力が入らない。視界も揺れている。

 すると、隣で動く気配を感じ取ったのか、金髪のセミロングは振り返った。現れたのは、ふんわりと微笑みを向ける少女。


「良かった。目を覚ましたのね、ティナ」

「イリ、ア……?」


 春の陽だまりのように優しい、翡翠の瞳。それを見ていると、急速に生の実感が湧き上がり、震える程に心が騒ぐ。目の奥がじんわりと熱くなってくる。そんな様子を見られたくなくて、腕で顔を覆った。

 そんな彼女の様子に、イリアは何も言わない。再び炎に目をやり、枝木を投げ入れる。


「……ごめん」


 ぼんやりと炎を眺めていた顔をティナの方へ向き直し、不思議そうに小首を傾げる。囁いた声は、あまりに小さい。何と言ったのかを問おうと口を開いた時、一瞬だけ早く彼女が声を上げる。


「無理、させちゃったよね。病み上がりなのに」


 か細いながらも、今度ははっきりと聞き取れた。イリアは小さく笑みを零し、首を振る。


「大丈夫よ。もう平気だから。……そうだ、何か飲む? スープだったらすぐに作れるわ」

「ん……いいや。まだ食欲無いし。ありがと」

「それじゃあ、ゆっくり寝ててちょうだい。夜明けはまだなんだから」


 そう言って、イリアはまた黙り込む。ティナの体を気遣ってのことだ。

 だが、ティナはこの沈黙が耐えきれなかった。胸に渦巻く思いが、眠りに着くことを拒んでいる。全てを吐き出してしまいたい衝動に駆られ、短く息を吸った。


「ねえ、イリア。アタシ、これだけは、謝らないから。足手纏いにならないって、証明しようとしたこと」

「ティナ?」

「あんな形で王都を飛び出して、皆に心配掛けちゃったことは、悪いと思ってる。でも、ミックもアタシも、真剣だよ」


 未だに体力が戻らない体から発せられたとは思えない程、しっかりとした言葉。炎に照らされた瞳は、イリアを捉えて離さない。

 だが何故、ここまで旅にこだわるのか。


「どうして旅に出ようと思ったのか、聞いてもいい?」

「……いいけど、アタシが言ったって、ミックには内緒だからね?」

「ええ、分かったわ」


 少し迷った様子であったが、ティナは頷いた。辛そうに目を閉じ、何度も深呼吸を繰り返しながら口を開く。

 聞いたことに若干の後悔を感じながらも、イリアは彼女の声に耳を傾けた。


「ミックには、双子の弟がいるんだ。行方不明の、ね」

「え……」

「あれから、もう十年になる、かな。今までは、旅に出るなんて、ミックの頭にも、無かったと思う。でも、イリアたちを見て、何か、感じるものでも、あったのかな? 弟を捜しに行きたいって、思うようになったんだ。アタシは、そんなミックの、力になりたい。人に合わせてばっかのミックが、イリアたちと、一緒に行きたいって、言い出したなら。それはきっと、ミックの、心からの願い、だから」


 言い終えて、一段と深い息を吐く。体が酷く重く感じた。毛布に沈み込んでいくかのようだ。


「……ごめん。ちょっと、眠くなっちゃった。もう、寝るね」


 そう言ったきり、彼女は再び横になった。それから間もなく、穏やかな寝息がイリアの耳に届く。

 だが、彼女の頭の中では、ティナの言葉が繰り返し再生されていた。まるで縫い付けられたかのように、揺れる瞳が逸らせない。


「カミエルさんの、弟……行方不明の、きょうだい」


 気が付けば、独り言として口から出ていた。

 何らかの事情で弟が行方不明になり、彼を捜す旅に出ることを切望するカミエル。神殿が襲撃された際にヘレナが行方不明になり、彼女を捜す旅に出たイリア。

 状況は違うが、根本は同じ。では、彼もまた、こうして不安な夜を過ごしていたのだろうか。十年もの長い間。

 そして、思考はさらに深く潜っていく。ヘレナを捜すとはいえ、有益な情報は何も掴めていない。そんな状況が、これから何年にも渡って続くとしたら――

 そこまで至った瞬間、勢いよく首を振る。悪いことを考えていたら、本当にそうなってしまうような気がしたから。

 だが、そう簡単には戻らない。ヘレナを求める心は急速に広がっていき、あっという間に抑えきれない程の大きさになっていった。震える口元を押さえ、潰されそうな心を庇うように身を丸める。


「ヘレナ様……姉様、姉様……!」


 ヘレナに会いたい。彼女の優しい声に包まれたい。温かい腕に抱かれたい。

 大粒の涙がポロポロと零れ落ちる。今にも消え入りそうなイリアの声は、火の粉と共に虚空に舞い上がっていった。

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