第20話 魅惑の占い師

 翌朝、神殿の廊下にガラスの割れる音がけたたましく響く。近くを通り掛かった神官が、何事かと駆け寄ってみれば、そこには。粉々になった花瓶の欠片を片付けようと、手を伸ばすカミエルの姿があった。


「触っては駄目よ、カミエル! 怪我をしてしまうわ!」

「え? ……いたっ」


 案の定、指先を切って顔をしかめる。そしてしゃがんだまま、ぼんやりと遠い目で欠片を眺めていた。

 それを目にして、神官の女性は怪訝そうな顔をする。


「どうしたの? 花瓶を割るなんて、貴方らしくもない」

「……すみません」

「別に責めるつもりは無いわ。でも、気を付けてちょうだいね」


 声を掛ける度、カミエルはますます沈んだ表情になっていく。女性は短く息を吐いた。


「とりあえず、ここを片付けなきゃ。貴方はそのモップで水を拭いておいてちょうだい。私は箒とちり取りを持って来るから」

「……はい」


 女性はカミエルが手にしたモップを指差すと、奥へ行ってしまった。それを眺めながら、深いため息を漏らす。そして、今朝からの失態の数々を思い出していた。

 朝寝坊に始まり、階段を踏み外して転げ落ちそうになったり、何も無いところで躓いたり。そして、床磨きの途中で花瓶にモップをぶつけ、落としてしまったことも。

 今日は何をやっても身が入らない。だが、原因は分かっている。そしてそれが、自分ではどうにもならないことも。再び、ため息が漏れる。


「こんなに良いお天気なのに、暗い顔をしていますね。どうしました?」

「あ、ペトロフ司教様……!」


 アンナ=ペトロフ。この神殿の長を前に、慌てて背筋を伸ばす。だが、すぐに目を伏せてしまった。


「無理に聞き出すことはしませんが、あまり溜め込み過ぎるのも良くありませんよ」

「はい。お気遣いありがとうございます」


 頭を下げるカミエルを目に留めながら、アンナはその場を後にする。その後ろで彼は、再び深いため息を吐いたのだった。




 それから数日後、ティナは神殿の参道を走っていた。イリアに会いに行くために。毎日のように話しているうちに、すっかり打ち解けていたのだ。

 いつものように大聖堂で祈りを捧げ、彼女の部屋へ向かう。その足取りは軽い。胸を弾ませ、ノブに手を掛けた。


「おはよう、イリア!」

「おはよう、ティナ」


 ティナは元気良く扉を開けて部屋に入る。イリアはそれを、当然のように笑顔で出迎える。今日もまた、他愛のない話で華を咲かせるのだろう。そう思ったイリアは、いつものようにお茶の準備を始める。

 しかし、今日の彼女は違っていた。イリアの手を掴み、部屋から連れ出そうとしたのだ。


「ティナ、どこへ行くの?」

「今日はアタシが街を案内してあげる。もう外を歩き回っても平気なんでしょ?」


 確かに、最近は体力も気力もすっかり回復していた。明日にでも旅を再開出来るまでに。そうなれば、こうして彼女と一緒に過ごすことも無くなってしまうだろう。


「そうね。お願いしようかしら」

「そうこなくっちゃ! さ、行こう!」

「ええ」


 神殿の中で過ごした時間は、決して退屈なものではなかった。それでも久しぶりに太陽の下に出るのは、やはり気分が明るくなる。微笑むイリアにつられ、ティナも笑みを浮かべた。




 参道に並ぶ露店を見て回りながら、王都で話題のスイーツを食べ歩く。参拝者や地元住民で賑わうこの場所にも笑い声が溢れ、二人の顔も綻んでいた。

 露店に並ぶアクセサリーを手に取りながら盛り上がっていた、ちょうどその時。道行く人の向こうに、花束を持った女性が見えた。花も羨む美しい人だ。だが、抜けるような青空の下にいるにも関わらず、彼女の表情は憂いに曇っている。

 ふと隣を見れば、ティナの視線は彼女に注がれていた。唇を引き締め、顔も強張っている。


「ごめん、イリア。ちょっと待ってて!」


 ティナは手にしたアクセサリーを戻し、女性の元に駆け寄る。そして二人は言葉を交わした後、神殿へ向かう女性の背中を見つめ続けていた。しばらくしてため息を吐くと、とぼとぼと戻って来る。


「お待たせ。次の店行く?」

「それは構わないけど……いいの?」

「うん」


 力無く頷くティナは目を伏せ、肩を落としていた。それが気掛かりではあったが、事情を聞いてはいけない気がして、イリアも口を噤んでしまう。

 歩き出してしばらくして、意外にも、ティナの方から沈黙を破ってきた。


「さっきの人はクリスっていって、昔、近所に住んでたんだ。小さい頃は、よく遊んでもらってね。いつも笑ってた。でも、お城の騎士だった旦那さんが亡くなってから、別人みたいに笑わなくなったんだ」

「そうだったの……。じゃあ、さっきの花束は、旦那さんのお墓に?」

「うん。あれは、旦那さんが好きだった花だから」


 そう言ったティナの顔は、今にも泣きそうな程に歪んでいる。いつも明るい彼女が嘘のようで、イリアは胸が詰まる思いがした。掛ける言葉も見付からない。

 ティナは唇を引き締め、勢いよく顔を上げた。その表情からは、憂いの色が綺麗に消えている。そして、苦笑を浮かべながら頬を掻いた。


「……ごめん。空気が重くなっちゃったね。というわけで、この話題は終わり! さ、行こう」


 ティナはイリアの手を取り、先を歩く。その道中、僅かに感じる震えに、イリアはただ黙って付いていくしか出来なかった。




 参道を抜け、王都の中央に位置する公園に入った頃には、ティナの顔に笑みが戻っていた。二人の間に漂う空気も、重苦しさは感じられない。

 緑が溢れ、鳥の囀りと噴水の水が噴き出す音が、とても心地良い旋律となって耳に届く。そんな中、二人はベンチに腰掛けてお喋りに夢中になっていた。


「そうそう、ミックといえば、こんなこともあったんだ。もう十年近く前になるかな?」


 それは、ティナが子供の頃のこと。鍛錬の成果を試すため、王都の武道場生が一堂に会した大会があった。

 彼女が通う道場は、王都の中でも古い歴史を持つ名門だ。そこに籍を置く彼女の実力は、年上の男の子にも引けを取らないもの。その大会で入賞は確実だと、誰もが予想していた。

 そうして臨んだ大会当日。同年代の男の子が相手の初戦は、簡単に突破出来ると思っていた。だが結果は判定負け。あまりのショックに会場を飛び出したティナは、道場の隣にそびえる大樹の頂上近くまで登り、ひっそりと泣いていた。

 ひとしきり泣き、そろそろ下りようとした時。想像以上に高いところまで登っていたことに気付いた。恐怖で足が竦み、身動き一つ取れない。落ちないようにしがみ付くだけで精一杯だった。

 その時だ。遠くにカミエルの声を聞いたのは。彼女は必死に彼を呼び続けた。

 その声に気付いた彼は大樹まで駆け寄ると、驚くべき行動を取り始めた。幼い頃から体が弱く、運動も苦手で木登りすらしたことが無かった彼が、彼女を助けようと登って来たのだ。そして、あと少しというところで、彼は足を滑らせてしまった。


「それで、気を失ってたミックが目を覚ました時、何て言ったと思う? ティナに怪我が無くて良かったって笑ったんだよ? お人好しもいいとこだよね」

「そうね、カミエルさんらしいわ」


 クスクスと笑みを浮かべ、満面の笑みでカミエルのことを話すティナを見つめる。だからこそ彼女は、彼を好きになったのだろう。そんなことを思いながら。

 その時、ティナは身を乗り出した。好奇心と不安が混ざり合ったような瞳をして。


「……ねぇ、聞いてもいい?」

「何かしら」

「イリアって彼氏いる? 好きな人は? 好きまではいかなくても、気になる人でもいいよ」


 だが、その途端に顔を強張らせる様子を見て、ティナは慌てて声を上げる。


「あ……ごめん! 今の無し! 別に困らせようと思ったわけじゃ……!」

「違うの。そういうつもりじゃなくて……ただ、今の私に、そんなことを考えられる余裕は無いから。私の方こそ、ティナを困らせちゃったわね。ごめんなさい」


 首を振り、はっきりと言い切る。

 しかし、そんなイリアの言葉に、何か思うことがあったのか。いくらか間を置き、ティナは身を離した。


「いいって。でも、そっか……。イリアの恋愛事情って凄く気になるけど、そういうことなら仕方ないか」

「それに、聞いてもつまらないと思うわ。ティナみたいな素敵なエピソードなんて無いもの。……そういえば、ティナが通っている道場って、どんなところなの?」

「どんなって言われてもね……普通の道場だよ。行ってみる?」

「いいの?」

「もちろん! こっちだよ」


 ティナの通う道場は市場を抜けた先、住宅街の一角にある。彼女の案内で市場を進み、住宅街へ入ろうとした、まさにその瞬間。イリアの足が止まった。

 心臓が何度も大きく脈を打つ。足は石のように固まり、地面に張りついている。そして視線は、一点に集中していた。


「どうしたの?」


 首を傾げながら、イリアの視線を辿る。そして、あるものを見付けた。


「あの占い師のお姉さんか。最近ここに来た旅の占い師なんだけど、当たるって評判なんだ。……って、イリア!?」


 真っ直ぐに占い師の女性に向かって駆け出す。そして彼女の前に立った時には、荒い呼吸と共に肩が上下していた。

 女性は純白のローブに身を包み、目深いフードを被っている。そのため、どんな顔立ちをしているかは窺い知れない。だが、彼女が纏う空気は、温かな光そのもの。ヘレナのそれに酷似している。


「あ、あの!」


 逸る気持ちを抑え、思い切って女性に声を掛ける。女性はゆっくりと顔を上げた。


「どうかされましたか?」


 彼女の声は、鳥の囀りのよう。それを聞いた途端、イリアは落胆する。ヘレナの声ではなかったからだ。だが、雰囲気が似過ぎている。頭が、心が混乱し、身動きが取れない。

 世界に二人きりになったような感覚に陥っていた、まさにその時。唐突に女性の声が耳をついた。


「どうぞ、お座りになって」

「え?」

「迷いのある瞳。私でよろしければ、お話を窺いますよ」


 口元に笑みを浮かべ、椅子を勧める。ようやく追い付いたティナは、「いいじゃん!」と声を上げた。


「せっかくだし、占ってもらいなよ。もしかしたら、イリアの旅の役に立つかもよ?」

「貴女は旅をしているのですね。きっと、苦悩も多いことでしょう。さあ、この水晶に手をかざしてください」


 女性に勧められるまま椅子に座り、水晶に手をかざす。刹那、水晶が淡く光り出した。


「真っ暗な闇の中、一筋の光を求めて歩いているのですね。ここから西に進んだ先に、貴女の片翼の存在がいます。その人と出会うことで、運命の歯車は加速を増すでしょう」

「それって、運命の人ってヤツ?」

「そうですね……貴女の人生に大きく影響を与える程に縁が深い人、という意味ではそう言えますね」


 歌うような声。普段からあまり占いを信じていないイリアにとっても、その声は心の奥底にまで響いてくる。そんな不思議な力があった。


「ありがとうございます。少しだけ、先が見えた気がします」

「そうですか。それは良かった」


 ふわりと微笑みを向け、イリアはおもむろに立ち上がる。そしてティナと共に踵を返した、その時。


「イリア、さん……」


 どこか慌てたような口調で女性が呼び止めてきた。振り返ると彼女は立ち上がっており、胸の前で手を組んでいた。そして、静かに口を開く。


「貴女の旅は、長く険しいものになるでしょう。ですが、貴女は独りではありません。多くの仲間が傍にいる。そのことを決して忘れないでください。そして、どんなに辛い現実が迫ろうとも、冷静に、自分を見失わないでください。貴女ならできるはずです」

「はい」

「貴女の旅が、どうか無事でありますように……」

「ありがとうございます」


 今度こそ、イリアはティナと共にその場を後にした。そうして、二人の距離は離れていく。


「          」


 残された女性の口が微かに開く。だが、その声はイリアには届かない。か細い鈴の音が空に溶けただけだった。




 あれから数日が経っても、カミエルは上の空な状態が続いていた。むしろ悪化している。イリアの体力は完全に回復し、ルイファスも次の目的地を決めたようだから。いよいよ時間が無くなってきた。


「ちょっと、ミック。元気無いじゃん。どうしたの?」


 大聖堂の木製のベンチに腰を下ろしながら、ティナは掃除をしているカミエルに問い掛ける。それを受け、彼は深いため息を吐いた。


「うん……もうすぐクロムウェル様たちが王都を離れるんだな……って」


 それを聞いた途端、一瞬だけティナの顔が険しくなる。


「しょうがないじゃん。旅の途中で体を休めてただけなんだから」

「それは分かってるよ。ただ――」

「……探しに行きたいんでしょ。リックを。で、それをルイファスさんに言ったら、断られた。違う?」


 カミエルの目が見開かれる。


「どうして、それを……?」

「アタシがイリアと初めて会った日の夜、ここにいるミックを見てね。……聞いちゃった」


 しばしの沈黙の後、カミエルは頷く。そして、書庫でのやり取りを話して聞かせた。

 そんな中、ティナは目を伏せ、しばし考え込む。次に視線を上げた時には、にんまりと笑みを浮かべていた。


「要するに、アタシたちが足手纏いにならないってことを、二人に認めさせればいいんだよね?」

「……アタシたち? ま、まさか、ティナ……!」

「アタシも行く。ミックを守るのはアタシの役目なんだから」

「駄目だよ! ティナを危険な目に遭わせるわけにはいかないよ! って、そんなことよりも! ……ねぇ、変なこと考えてないよね?」

「まさか」


 彼女は意味ありげに笑みを深めた。嫌な予感。彼は軽い眩暈に襲われるのだった。




 その日の昼下がりのこと。慌ただしい足音が聞こえてきたかと思えば、神官の女性が部屋に雪崩れ込んできた。今後の日程を話し合っていたイリアとルイファスは、彼女の剣幕に驚きを隠せない。


「何かあったんですか?」

「か……カミエルと、ティナちゃんが、これを……!」


 息も切れ切れに、女性はイリアに手紙を手渡す。それを読んだ彼女の顔は、みるみるうちに硬直していった。


「ルイファス、これ……! 一足先にオルケニアで待ってます……って、どういうことなの!?」

「ったく、あいつ等、何を考えて……! とにかく行くぞ!」


 イリアとルイファスが部屋を飛び出す。そして、街中を吹き抜ける風のように、二人は駆けて行った。

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