天使が微笑む世界の終焉、悪魔が嘲る世界の誕生
爪隠能丸
プロローグ
第1話 ノア、その目覚め
目を覚ますと、そこは硬いベッドの上であった。
腕にはいくつも注射針がつけられており、そこから延びるチューブには透明な袋が取り付けられていた。ぽたぽたと流れ落ちる液体の色は乳白色でミルクのようにも見える。
少し身体を起こして周囲を見渡す。
……暗い部屋だ。それもそのはず、この部屋には窓が無い。太陽の代わりに明かりとなるものは壁に掛けられた小さなランタンのみ。これでは明かりとしては不十分だ。
そして、その部屋で一番大きな存在感を放っているのが頭上の培養カプセル。
今は稼働していないが、二メートル程度の大きさの人間であれば容易に収めることが出来そうだ。
「おお、目を覚ましたのか」
「ええと、貴方は……」
顔を正面、すなわち天井に戻すと、いつの間にか私の顔を覗き込んでいた老人と目が合った。
魔術師であることを示す黒く長いローブに、頭には先のとがった三角帽子をかぶっている。胸のあたりまで伸びた白いあごひげが特徴的だ。
私が老人に尋ねると、彼はにかりと金歯を見せ、笑みを浮かべながら答える。
「ワシの名はメルヒヌール・マレクディオン。見て分かる通り魔術師であり、そして昔は賢者などとも呼ばれていたが……今はただ、遠くない死を待つだけの一人の老人に過ぎん男じゃ」
老魔術師メルヒヌール・マレクディオン。
そう名乗った老人は、私の腕に着いた注射針を次々と外していく。治療は終わったということか。
……いや待て、治療とは何の治療だ。私は何か病気か、怪我をしていたのか?なぜ私はここにいる?
「さて……さっそくで悪いが、自身の名前は思い出せるか?」
「名前?私は、いや、私の名前は……」
……私は誰だ?
私は私だ、だが私の名前はなんだっただろうか。全く思い出せない。老魔術師は小さく頷いて質問を続ける。
「出身は?」
「……」
「何歳で、何をしていた?なぜ今お主がこの場所にいるのか、覚えているか?」
「…………」
呆然とする。……なにも、思い出せない。
私は頭を抱えて冷や汗を流す。怖い。なにが怖いのかその理由すら思い出せないが、だが心は恐怖を主張している。
それに対し老魔術師の反応は極めて冷静で、その反応をある程度予想していたようでもあった。
「不安、恐怖……お主の中には様々な感情が渦巻いておるじゃろうが、まず一つだけ。お主の名前は『ノア』、ただそれだけを記憶すればよい」
「ノア……それが私の名前、ですか」
「ああ。正真正銘、お主の名じゃ」
ノア。
それが私の名前だと言われれば、確かにそうかもしれない。記憶は無いが、妙にストンと腑に落ちる感じがする。
先ほど感じた恐怖や不安が少し取り除かれほっとしていると、老魔術師は「さて」と前置きして続きを話し始めた。
「ここは王都から遠く離れた辺境、サリュ村の外れにある深い森の中。一週間ほど前じゃったかの、この近くで気を失い倒れているお主を見つけたのじゃ」
「それは……ありがとうございます」
老魔術師に身体を上げてお礼を言ってから、彼の言葉に思索を巡らせる。王都、サリュ村、森の中。
……今、何か頭の片隅に引っかかるモノがあったような――使命?そう、使命だ。私には何か、大切な使命があった、ような、気がする。
だが、そこまでだ。そこで記憶の糸はぷつりと途切れてしまった。
「礼など必要ない、ワシの持つ知識ではお主の心を癒す手段を持ち合わせていないのだからな」
「……いえ」
「ふふ、優しいな、ノアは。……ワシに提供できるのはお主の当面の食事と生活場所くらいのものだというのに」
老魔術師は柔らかな笑みを浮かべ、私たちのいる部屋とその上を指差す。
「取り敢えずはこの部屋とリビング。それに、ワシのお下がりにはなるが魔術師のローブ。あとは……」
老魔術師がくるりと指を一回転させると、部屋のドアがコンコンと軽くノックされた。
「師匠、入っていいですか?」
「おお、ちょうどいいタイミングだ。入ってきなさい」
失礼します、と入ってきたのは数冊の本を手に携えた若い男であった。
ぼさぼさの黒髪は伸び切っており、かけている丸眼鏡は斜めにずれている。着ているローブもよれよれで、あまり身なりには気を使わない性格のようだ。
「今お時間よろしいですか……っと、ノアが目を覚ましたんですね」
「ついさっきな。ウィリー、ノアの研究室を作るまでお前の部屋を共同で使ってもらうことになるが構わないな?」
「なっ……いや、そうか、そうですよね。ええと、それはいつからでしょうか……?」
「まぁ、明日からで考えておいてくれ」
老魔術師の言葉に若い男は露骨に安心したため息を漏らす。
「ウィリー、お主……」
呆れた声色のメルヒヌールに、ウィリーと呼ばれた彼は「いやいや」と首と手を横に振る。大丈夫です、とジェスチャーで示して彼は私に向き直った。
「はじめまして、僕はウィリー。ウィリー・マクドネル。師匠……メルヒヌールの内弟子として魔術を勉強しているんだ。これからよろしく」
「はい。ミスタ・ウィリー、こちらこそよろしくお願いします」
「呼び捨てで、もっと砕けた話し方をしてくれよ。肩が凝る」
「わかりました。ミス……ウィリー」
こりゃ長い時間が必要そうだ、とウィリーは困ったような笑顔で私の手を握る。その手を握り返すと、老魔術師はパンとニコニコしながら手を叩いた。
「さて、軽い自己紹介が終わったところで歓迎会といこうじゃないか。ウィリー、冷蔵庫から子羊の肉を出しておいてくれ。今日はパーティだ!」
「やった!本当ですか!」
ウィリーが快哉を上げる。
かくいう私も、もちろん子羊の肉を食べた記憶など無いが、口の中から大量のよだれが溢れ出る。脳髄に旨味が記録されているとでもいうのだろうか……。
「ふふふ、では出発!といっても、家の中じゃがのー」
楽しくてたまらない、といった調子の老魔術師の後ろに続いて長い廊下を歩き、最後に階段を昇る。
リビングに到着すると、メルヒヌールとウィリーは私を座らせ、二人でいそいそとキッチンへ向かう。背伸びしてその様子を見ると、一頭丸々の子羊の解体を行う横で大きな鍋に入った白いスープを温めている。
そして掛け時計の長針が一周弱回ったころ、メルヒヌールは子羊の丸焼きを手にしてこちらへ戻ってきた。
「ノア、待たせてすまんのう。お腹が空いたじゃろ」
その後から先ほどの大きな鍋と、大きく長いパンが何本も入ったバスケットを手にしたウィリーが続く。
「丸焼きよし、シチューよし、パンよーし。用意出来ました、師匠!」
「うむ、では。……我らが主ヴィクトールよ、あなたの慈しみに感謝します。祈りを……」
老魔術師の言葉に合わせて、ウィリーは少し下を向き、胸の前で手を合わせる。
彼らの行動は食前の祈りだろう、私も彼らに倣うように同じ仕草を行う。五秒ほどで目を開け、そしてナイフとフォークを持って目の前に並べられた料理を切り分け、口に含む。
「……美味しい」
子羊の丸焼きは噛めば噛むほど中からジューシーな肉汁が溢れ出し、シチューは野菜がたっぷりでジャガイモはほくほくだ。パンにつけて食べるのも悪くない。
記憶を失った私にとって、これは人生で初めての食事だ。お腹と同じくらい、いやそれ以上に心が満たされていく。こんな感覚は初めてだ、本当に、気分が良い……。
「そうか、そうか。お主の歓迎会なのだからな、たーんとお食べ」
「シチューのおかわりはどうだ。好きな具はあるか?そうだ、少しだけど牛肉を入れてあるんだ。美味しいから食べてみてくれ」
二人に急かされるまま、たくさんの料理を腹の中に詰め込んでいく。
テーブルの上にたくさん並べられていた食べ物はほとんどが無くなり、げっぷが出るほど眠たくなった私は少し眠たく、ふわぁと大きなあくびをしてしまった。
「おや、ノア、眠たいのかい」
「はい。……すいません」
「謝ることなどなにもない。眠たい時にしっかりと眠ること、これは人の営みにおける大原則じゃからな。……だからお休み、ノア、いい夢を」
メルヒヌールは骨ばった手で優しくノアの頭を撫でる。
親が子に向ける「慈愛」と似た感情にこれ以上ない安心感を感じながら、ノアはリビングのソファで今ひと時の眠りについた。
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