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電車の座席の座り心地はよくないのに、考え事をするには妙にしっくりくる。昨日はあのろくでもない男どもと、今日は夕夏とのお出かけ。何だか過剰なくらい、私にしては外出続きだ。今までほとんど引きこもり生活をしていただけだから、たぶん今の方がマトモなんだろうけど。
夕夏とは何度も連絡を取り合って、ショッピングとお茶を楽しんだ。夕夏の服と化粧と、それからあの出で立ち、纏う空気のようなものを、つぶさに学び取ろうとした。歩くときの姿勢ひとつとっても夕夏は夕夏だった。
彼女は生まれつき素質に恵まれていることは確かだ。そのうえで学び、思考し、実践している。夕夏は華麗だ。けれどそれは、過酷な努力によって実現しているものだった。明るく振る舞う彼女の影には欝々とした気配が染みついている。幽霊のように。
隠し事は無意味だった。私にとっての同性。彼女にとっての同性。華やかさの裏側を打ち明けられる、共通した少数者の性。
「女の子に負けたくない。何がって、そこはわかんないのに、とにかく負けたくない」
ある時、ネイルを選びながら、夕夏は力強く宣言していた。
「わかる、それ。なぜかしら対抗したくなっちゃう。女の戦いってヤツなのかな」
共感は、見せかけではなかった。
またある時には、夕夏がいかにして働いているのかを尋ねた拍子に、うっかり私が「さっさと結婚したいな、県外で就職して、名前も性別も変えて、それから名字も変えちゃいたいもん」なんて口を滑らせてしまうと、夕夏は声を潜めて、
「もう、この、イヤな女!」
とホルモン注射した後の疼く肩を叩いて破顔していた。
過去と文化を経験する。或いは買う。きっとこうだった、こうあるはずだったことを自分のものにしてゆく。男子どもとすれば卑猥そのもの、けれど夕夏とならばそんな会話すら不愉快ではなくて、でも卑猥にも思えなくて、私たちに必要な会話だった。
術後はどうなのか。タイはどんなところだったのか。セックスの時にバレるのか。医者との相談や診断では信じ切れず、かと言って生まれつきの性を享受しているひとたちには口にできないことまで、夕夏とならば話せた。彼女もそう感じているようだった。
「私も病んでるからさ」
夕夏は常々、そう付け加えるのだった。
いつも通り、先に待っていた夕夏と合流する。普段より少し足を延ばして、別のショッピングモールを歩く。夕夏の見つけた、私たちにおススメのお店があった。
昔から知っているふうに知識を繕って、当たり前の顔で服を見定める。今では、ちゃんとした下着なしでは外に出られない。どう見ても歪んだ笑みでそれを見つけた母と祖母も、けれど女なのだから私と同じなはずだ。だって、ちゃんと着ない方が恥ずかしい。付ける前までは何にも思っていなかったのに、不思議なものだけど。
「その靴じゃゴツすぎるんじゃない。何か、もう、浮いて見える。その靴だけ」
そう言われてわざわざ案内されれば、既に断る理由を見つける方が難しかった。事実、私にこのブーツはそぐわない。かつての私、ほんの半年前までなら違和感などなかったろうに。
「うーん、これも二六ね。もう一回り大きいのがあれは良いのよ、何とかなるから」
「これとか夕夏ちゃんに似合いそうなのにね」
「靴擦れ覚悟で買うにしてもね。幅が入らないとどうしようもないし」
足もとからの規格外を突きつけられる。二六・五ではレディスのサイズにあるかないかの瀬戸際だ。冬に似合うブーツとなればカタチがしっかりしているせいで、元々合わないスケールの足には厳しいものが多かった。店員サンたちにも、これ以上のサイズは取り扱ってないですね、と困り顔をさせてしまう。
「私も同じサイズだからねぇ、こればっかりはどうにも」
結局は妥協だった。お気に入りの、その隣にあったブーツで納得する他なかった。
フードコートで昼食をとることになって、夕夏とは別々に店を探すことにした。本当のところは心細かった。この手の場所では誰もが私の倍速で動き回っていて、ちょっとした嵐の中に取り残された気分になる。
なるべく視界から夕夏を追い出して、ひとりで店を見て回る。安っぽいジャンクフードばかりで、私が食べられそうなものを選別するだけでも一苦労する。ハンバーガーにラーメンは論外、パスタも微妙。そもそもこのラインナップじゃあ野菜が少なすぎるし油ものだらけだ。
ひと回りした後、隅にあったおにぎりの店で梅と野沢菜を頼んだ。すぐにパックに詰められて手渡される。
夕夏は、確保しておいた席で先に待っていた。片手には蛍光色のドリンク。どこから調達したのだろう。
「お、彩ちゃんもおにぎりにしたんだ」
机には既に、同じ店のパックが置かれていた。
「別々に選んだのにね」
同じものを選んでおいて、すれ違いもしなかった。早々と決めて待っていたのだろう。夕夏がおにぎりを食べていると、微かにギャップを感じた。パスタとかその手合いを好みそうなのに。
「食べるものとか気を使ってたりする?」
私に尋ねられて、おにぎりを一口齧った夕夏はさも当然の顔で頷いた。
「油も砂糖も食べないようにしてる。カロリーも上限七〇〇。一日一八〇〇以下」
「……それじゃあ苦労しない?」
「するよ? でも仕方ないじゃん。無駄な肉はつけたくないし、美容のためだもん。日によって仕方なく一八〇〇超えるときもあるけど、それでも二〇〇〇は食べないようにしてる」
「へえ……そう、私もそんな感じだからわかる。外で食べるのは難しいよね」
「わかる、めっちゃわかる。なんだー、彩ちゃんもそうなら無理にここで食べようとしなくて良かったってこと?」
似た者同士だよね、私たち。
そんなふうに思ってしまうことは、もしかするとおこがましいのかもしれないけれど。
夕夏はひとつめのおにぎりの、最後のひとかけらを口にする。微かに食べにくそうにしていた。
「スイーツとか、食べる?」
「ううん。夕夏ちゃんは?」
「食べない。余計な砂糖はお肌の天敵だから。好きだったんだけど食べらんなくなっちゃったな。スイーツ男子とか妙なカテゴライズされてさ、女に成れば食べても文句言われないと思ってたのに」
言いながらジュースを飲むあたり、私よりマシかもしれないけど。
ちょっとだけぶっきらぼうにそのジュースのカップが置かれた。
「あー、駄目だ、気持ち悪い。昨日のがヤバい」
「昨日の?」
「ホル注」
「大丈夫?」
「ちょっと休も。歩き通しはちょいキツかったかもしんない」
そう言って夕夏は背もたれへ深めに身を預ける。
「ねぇ。そういえばさ彩ちゃん、昔の友だちと会うってどうなったの」
「ああ……会ってきたよ」
空白があった。それ以上を夕夏は求めなかった。
「そう。そうだったのね」
私の言い方で察したみたいな口ぶりだった。
「私は」ひと息。言おうか言うまいか。「あのひとたちのようには成れなかったよ」
「あのひとたちのようにって、友だちのこと?」
「……ううん」
肩を軽く小突かれる。
「いて」痛くないけど。
「もう、彩ちゃん。大丈夫だってば。溜めこまなくて良いの。遠慮しないで話してみ」
「大したことじゃあないよ。もし昔のまま生きてたら、もしこうして治療していなかったら、あんなふうにのうのうと生きていられたのかなって。
それだけ」
「でも、止める気はないんでしょ?」
「もちろん。後は手術の順番待ち」
そんなものあるはずもない。ただ。ちょっとだけ、もしも、と思って。可能性を夢みようとしただけだった。とんでもない悪夢を垣間見ることになったものの。まあ、いいや。
「私は男に成れないって突きつけられただけ。こうしていないと生きていけないって再確認したわけなの。
駄目だね、こうして私らしく扱ってもらうことに慣れて当たり前になっちゃったら、あんなに苦しかったことも薄れちゃってた。そりゃあ見て見ぬフリができるならそれで良かったかもしれない。でもそんなことしたくないし、私にはそんなことできない」
語っちゃったな。でも今さらか。似てるかどうかはともかく、夕夏は私と同じような、もしかしたら私が言いたいけれど言ってしまえば重いから言わないみたいな、そんなことを切りだしてくれる。
「ふぅん……」
それはMtF特有のものかもしれないし、そうじゃないかもしれない。似たり寄ったりの瑕をもつ者どうしの影。
「男には成れない、かぁ」
独り言のようだった。それから頬を撫でていた髪を耳に掛けて、私をブラウンの目で見つめた。
「少し長くなっても良い」
私は素直に頷く。
「欲動」
夕夏はそう呟くと、ナーバスな顔色を覗かせた。
「子供の頃って本当に馬鹿みたいな夢を持つでしょ? スポーツ選手に成りたいだなんて可愛いもの、本気で猫や犬に成りたかったりする。後先なんて考えない。今から考えたら馬鹿々々しい妄想みたいなものにでも、馬鹿正直に成れると思ってしまう」
馬鹿よね、と夕夏は繰り返した。
「けど、そんなレベルの夢想が実現してしまえるとしたら、それは果てしなく強い欲望、いえ、欲望や衝動のレベルじゃなくって、欲動と言っても差し支えないでしょう――欲求も欲望も踏みにじった先にある欲動」
夕夏は自嘲気味に添える。
「私は生命であるのだとの叫びなのね。とかく抗い難い衝動の源」
望む望まないではなく、そんななまやさしいレベルを超えて、その先にあるものになってしまう、そう動いてしまう。そうなってしまったら、そこから戻ることができない。
女物を身に着けたら男物を着ようと思わない、化粧をしないで外に出ようと思わない。不可逆の経験が私の身体に刻まれている。
思い当たる節も多い。私は応えた。
「つまり……私たちは元々、女に成ろうとごく自然に願ってしまっているから……だから、苦しいのね。ごく自然に生きる、そこから逆らってまで、それでも男ではいられない。始まったら終わるまで止まらない……」
未熟で無邪気な夢想は、終に現実へと接続してしまった。私の返答に彼女も素直に頷いた。
「だからこそ、それは欲動なのよ」
スイッチの入った夕夏の話は難しい。キマったメイクと金髪がそぐわないくらいに。
私たちはそうでもしていないと自らを認める事すらままならない。けれども、そんな理屈をこねくり回している事を知っている人は果たして幾らいるだろうか。
隣のテーブルでかしましくしている女子高生たちは、そんな事を考えない。今日の数Aが眠たかったとか、誰それが誰それと寝たらしいとか、そんな事ばかりだ。
ピエロに成りたいわけでも、心理学者に成りたいわけでもないのに。
間近で広げられた無邪気そうな彼女たちの日常には、ピンク色の炭酸が弾けている。眩暈と吐気を催す果物っぽい甘さが――思い出したくもない――思い出せない――あの、ドブに浮かんだボウフラみたいな――汚らしくて騒がしい日常たちを包んで飾る。
対して、私たちは晒し続けている。正直に、愚直に、私たちだけが知っている欲動を。
「だから私はこうやってるの。デタラメだけど、これが私の素だもん」
夕夏はカシスオレンジだか何だか、蛍光色のドリンクに口をつける。ストローで、丁寧に。
「離れてくヤツもいた。親だけじゃない。親戚一同の集まりには呼ばれない。伯父さんの葬式も事が済んでから知らされた。ツマハジキにだって合う。同窓会に行ったら行ったで、何人かには変なもの見る目であからさまに嗤われてた。でも、そんな覚悟も無くてこっちもイノチ削っちゃいない」
彼女の言葉には覚悟が滲んでいる。正しい、正しくない、そんな域ではなくて、現実をぶち壊す為ひたすらに向き合った事実がそこにはある。
おにぎりを詰め込むようにして食べると、何事かを呟いた。テーブルを挟んだ私にすら聞きとれない程、小さくて曖昧な呟きだった。あの、幽霊のような影が夕夏の整った顔に色濃く映っていた。
ふと見渡して、そのジュースに美容には良いとの宣伝文句がくっつけられていたことを知った。
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