透花
四葉美亜
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成りたかったものに成り損なった人間は、ややもすると卑屈かもしれないな、と思う。
最初から、夕夏を見上げていた。
同い年の、同じMtFが知り合いにいるから、と紹介されて引き合わされて、そのひとがこんなにも――女のひとで。まして男だったなんて到底考えられないくらい、綺麗だなんて。
どこにも向けられない苛立ちを壁に向かって殴りつけたくなるくらいに、本当はじっと座ってお茶をする気分ではいられなかった。
けれど、ここで逃げ出すのは、もっと、もっと、悔しくて。
そのひとは、ユウカとだけ名乗った。夕方の夏、と書いて夕夏。
「彩ちゃん、ですよね。はじめまして。夕夏といいます」
大学の帰りがけに寄ったクリニックで、金髪の女性に声を掛けられた。高くて、明るい声だった。
アカネから事前に知らされていたから、私も私で、知らないひとから話しかけられたことには驚きもせずに「あの夕夏さんですか」と返していた。ただ、このひとが、かねがね聞かされていたあの夕夏であるとは、到底思えなかった。
「アカネちゃんの紹介で来ました。同じMtFどうし、友だちに成りたいなって」
MtF。元、男。自分がそうでありながら、私はマトモに同類を知らない。まして、見た目からは判別できない、完全にパスしているMtFなんて、テレビかネットの中に生じている幻想くらいにしか思っていなかった。
けれども、その幻想がカタチを伴って、今、目の前にいる。
クリニックを出ると近くのスタバへ向かった。秋の夜道は早くも底から冷え切っていて、私たちは寒さに追い立てられるように歩いた。
「……本当に、二十歳なんですか」
聞き方によっては失礼とも受け取られかねない質問だった。でも悪い意味で尋ねたのではなかった。どうしたって子どもな私、もしくは学校で知る同年代と、そしてそのひととの間には大きな隔たりがあるように思えたのだった。
女の子、というより、大人の女性。子どもが背伸びしているわけではない、若くてキレイな女のひと。
同い年だなんて信じたくなかった。
「うん、二十歳。だから、もし良かったら敬語はやめたいなぁって。タメなんだし」
遠慮気味に砕いた口調で彼女は言った。私は、目上のひとに接するみたいに、常にへりくだった調子だった。既に、この時点で彼女がイニシアチブを握っていたし、それで良かった。
「じゃあ、そうしましょうか。ああ、ううん、そうしよっか。ごめんなさい、私、あまりひとと話すことに慣れていないんです」
私の方はぎこちないまま、スタバの中に入るとテーブルを挟んで向かい合う。私はコーヒー、彼女は何やら蛍光色のドリンク。どう話せば良いのかわからない。相手に先導してもらう方がよっぽど楽だった。
どこから探るかを決めかねて視線が泳いだ。このひとにとって、何が地雷なのか。どこに触れてはならないのか。私たちはひどく繊細で敏感――かもしれないし、そうではないかもしれない。けれど、そうであるかもしれないことを、私たちは我が身で知っている。不用意な質問は、即、関係を終わらせる。
少なくとも、私は自分を神経質な奴だと思う。男扱いはまっぴらごめんだし、無神経な言葉には無言で返す。そして大抵、そんな奴らとは二度と口をきかない。
「……可愛い」
顎に手を当てて、夕夏が呟いていた。
「え?」
「彩ちゃん、可愛い。正直びっくりした。聞いた話じゃあ、トランスを初めたばっかりの子っぽかったから」
どういう意味だよ。
「会ってみてびっくり、完全に女の子じゃん。ホントに注射始めて一年なの?」
「まあ、一応は」
「声も綺麗だし。ごめんね、私、もっと男の子なの想像してた」
随分と直截な言いようだった。けれど、そこに悪意はないようだった。大きな目が私を捉えていたし、顔に嘲笑の色は浮かんでいなかった。でも、もっと男な私なんて想像もしたくない。このひとは一体どんな想像をしていたのか。
「もし、何も知らされずに会ってたら、私、普通に彩ちゃんのことを女の子だと思ってたな」
……そう言われて、不信感がこざっぱりとぬぐわれる。この言葉に、弱い。自覚はある。
「そんな、ことないよ。私って……」
思わず表情が緩んでしまう。
「夕夏ちゃんの方が可愛い」
女子トークにおける有名な法則。お互いに、取り敢えず褒める。実際どうなのかは体験したことがないからわからないけれど、女子たちの表裏のギャップならそれなりに知っている。だからこれは、その手の会話なのだろう。
けれど快い。会話がこう始まる方が、私の性には合っている。
「いやいや、それはないって」
夕夏は両手を前で軽く振った。形式的な謙遜。でも、夕夏の方が可愛いのは客観的な事実だ。
「夕夏ちゃんこそ、その、元々は、なんて私、今も全然思えなくって……」
「んん、どういうこと?」
「元々、性別がー、って」
「あ、なるほど。うん、手術はもう済ませてあるけど、戸籍はまだ男のままになってる。MtFだよ、私」
避けていた単語が、あっさり口にされる。
「全然そんなふうに見えない」
「そお? マジ?」
「本当だよ。今でも、女性としてしか認識できない。自分と同じなんだって想像つかないよ」
「えー、嬉しいそれ。そっかあ、そう見られてるなら嬉しいなあ」
最後の方は私ではなくて、どこか空気に混ぜ込むような言い方だった。
「……気になるんですか? その、どう見られてるのかって」
「そりゃあもちろん気になってる」
夕夏はちょっとばかり大袈裟に頷いた。
「気にしなくって良さそうなのに。絶対わからない……」
「うーん、どうだろう。でも背は高いし女子にしては骨格ゴツイし、わかる人にはわかるだろうし、バレちゃってるのかなって思っちゃう。私って一七〇あるから」
身長ね、と付け加えると、夕夏は蛍光色のドリンクをストローで少しだけ飲んだ。控えめな仕草だった。
「私も一七五ある。背が高いのって気にしてるけど、夕夏ちゃんはそんな気にならなかった」
「ホントに? 彩ちゃんも背が高いなーって思ってはいたけど」
「むしろ華奢だなって。背が高いからどうこうじゃなくて、スタイル良いなあって思う」
とにかく褒めるらしい女子トークの形式に倣って、私は夕夏を褒める。最初に相手を肯定するのが暗黙の了解。
けれどお世辞ではなかった。本音から思ったままを褒めているだけ。褒めたいかどうかは別として。
夕夏は少しはにかんだ。
「そう見えてるなら嬉しいな。気になるからには頑張って痩せたりしてるし」
愛想笑いのような、そんなぎこちない笑みを浮かべた私たちは、会話のゆきさきを探す。頼んだコーヒーはまだ熱くて飲めなかった。ウインドウ越しに外を眺めていても通りを車が行き交うだけで、私たちが黙っていても店の中はティーンエイジャーたちで賑やかだ。今まで来たことがないから新鮮なだけで、たぶんこの場所は毎日、こんな感じなんだろう。
「そうだ」今し方思いついたかのように夕夏が言った。「連絡先、交換しない?」ブラウンの小さなバックから、ラメのケースで飾られたスマートフォンが取り出される。断る理由もなくて、私もそれに従った。数少ない連絡先に夕夏が登録される。LINEのアカウント名ユウ。……妙に縁のある響きらしい。
「ねえねえ彩ちゃん、良かったら友だちになってくれないかな。私、近場で同じようなMtFさんと知り合うのは初めてなんだ。だから、お互い仲良くできないかなって」
MtFさん。あんまり好きになれない呼ばれ方。
ここでノーと突きつければどうなるのか。このコーヒーに溶かされた砂糖のように、微かな悪意が思考に混じった。
私は曖昧な微笑でうなずいた。夕夏は私の手を握った。華奢で骨ばっていて、真っ白な手。綺麗。
「こちらこそ、よろしくお願いします。夕夏ちゃん」
私はその手を軽く握り返す。女子にしては大きめな手と手がテーブルの上に重なった。でも、触れてもこの手が男のものだと思えない。
自己紹介も兼ねて、自然と身の上話になった。住んでいる町が隣り合っていることを知って、私は余計に驚かされた。それは夕夏も同じで、「まさか、そんな近くに同じひとがいるなんてね」と目を丸くしていた。掛かっている病院も同じだった。
「あの先生、不愛想じゃない?」
ジェンダークリニックのオジサン先生の話になったとき、夕夏は声を潜めて言った。
「夕夏ちゃんもそう思う? 冷たいし話聞いてくれないよね」
「そうそう、思う思う。あっさり診断くれるのは良いけどさ」
「でも、婦人科の先生は好きだなあ……伊藤先生だっけ」
「優しいもんねぇ、あの先生こそカウンセリング向きな感じある。変わってくれれば良かったのに」
本当ね。口元に手を当てて私は笑う。浮世離れしていそうなこのひとも冗談混じりの悪口を言って、明るくころころと表情を変える。
学校の話にもなった。女扱いされるためにはどうすれば良いの、と尋ねると夕夏は「そのままで充分女の子だよ」なんて驚いていた。
嫌味なまでに、可愛くてキレイだった。
――そうだ。いっそ――。悪魔的な囁きが聞こえた。
ひと息ついた後に、夕夏ちゃんってメイクも決まってるよね、と話を振る。羨ましいな、と付け加えればあっさりと流れはつくられた。
「彩ちゃんはお化粧しないの?」
「あんまり……本当は、したいんだけど」
「え、何々。すれば良いのに」
「家のひとに止められちゃってて。まだ早い、って。これでも一応はメイク道具揃えたのに、普段は使っちゃ駄目だって」
「何それ意味わかんない。ホル注はオッケーで化粧は駄目? もうカミングアウトはしてるんでしょ?」
うん、化粧も、スカートとかも止められてるの。もちろん、カムはしたし、理解してくれてるから治療はできてるんだけど、そういうものは許可を取らなきゃいけなくて。そのあたりは我慢してる。
ちょっと大袈裟な、本当のこと。私ひとりの意見では覆せない妙な圧力を、他人の意見を借りて押し退けてもらう。こんなに綺麗に変われるかもしれないこと、その事実を知らせることで。
「女の子なんだし、何でやっちゃいけないのさ。肌も顔もこんな綺麗だし、もっともっと可愛くなれる。そんなに素質あるのに、私だったら勿体無い、何でメイクしないのって思う」
ちょっと声を大きくした後、夕夏はかぶりを振ってトーンダウンした。家族に思うところがあるのは、私と夕夏に限らず、私たちの凡そに共有されている。
「制限とかされてるって……母親って強敵よね。ゆくゆくは正式に女の子になるのにさぁ……」
そうだね、大変。私は相槌を打ちながら、このひとのことを母に告げようと心に決めた。元の身体がどうあっても、すっかり変わることができる。自然な女性になれるのだ。夕夏は味方してくれる。
とっかかりは逃すまい。女の子になるための知識と技術を、このひとは習得している。こんなに綺麗にはなれなくても。少しは変われるチャンスが目の前にある。生まれつきには敵わなくても。
足の指が、ぐ、と収縮した。夕夏と話すのは楽しい。でも夕夏を前にすれば、悔しくて苛立たずにはいられない。同じ境遇を共有できることは嬉しくて、巨大な断崖のような差が――意識したくもない――劣等感を突きつけられる。
何でだよ。何で。
宛てもない無言の悪態が頭の中で渦巻いていた。
「彩ちゃんも、もっと自信もって。好きな服を着て、お化粧もして、もっと自己主張して良いの。絶対可愛いんだから」
そうだね、もっと可愛くしなきゃ。伽藍洞な言葉は、いつもより少しだけ高めだ。
スタバを後にして寒々とした夜道で別れるとき、夕夏は私を軽くハグして、また会おうね、必ずだよ、と言い聞かせてくれた。澄んだ声は淡く甘い香りを纏っていた。
「絶対可愛い女の子にしか見えないんだから。もっと背筋伸ばして」
そんな言葉を残して、颯爽と立ち去っていったのだった。
果たして彼女が私と同い年のひとなのか、最後まで信じられなかった。綺麗過ぎた。自然過ぎた。男として産まれて女として生きているイメージと、夕夏の姿はまるで一致しない。
ロングコートのポケットに手を突っ込んで、イヤホンで世界に蓋をする。とびきり甲高いシャウトを大音量で頭にぶち込んだ。ホルモン注射した右肩が寒さに疼いた。自転車を立ちこぎする女子高生とすれ違う。もしかするとあんな姿もあったのかな、と私はかつての私を悔いた。
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