コラム(1426)構文篇:生きるということ、死ぬということ

 今回は「死生観」についてです。

 物語の登場人物はもれなく「死生観」を持っています。

「死生観」とは「死ぬとはなにか、生きるとはなにか」の観念のことです。

「死生観」に基づいた言動なら説得力が増します。





生きるということ、死ぬということ


 今回は「死生観」についてです。

 難しい言葉かもしれません。要は「生きるということ、死ぬということ。それぞれの捉え方」だと思ってください。

「異世界ファンタジー」を書いている方は登場人物に「死生観」を持たせましょう。

「死生観」を持たない人はいません。能天気に「生」を謳歌しているだけで魔物の脅威が去るわけでもないのです。

 生きるだけでも命懸けだからこそ、「異世界」を舞台にする意味があります。




死ぬということを定義する

 命のやりとりのある小説では「死ぬということ」を定義しなければなりません。

 たいていは主人公が「死ぬということ」をどう考えているかを読ませて悟らせます。

 たとえば無鉄砲で命知らずの主人公は「死ぬということ」を恐れていないはずです。もし「死ぬということ」を恐れていたら、行動は慎重を期すでしょう。

「人はいつか死ぬのだから、深く考えてもしょうがない」という「死生観」を持っていたら、本能の赴くまま無鉄砲で命知らずな振る舞いもできるでしょう。

 また「死んだら神のもとに召される」というキリスト教やイスラム教のような「死生観」なら、自爆テロすら厭いません。とくにイスラム教では最高指導者が「聖戦ジハード」を宣言したら、命を投げたしてでも戦い抜けと経典により教え込まれています。その証拠にイスラム原理主義組織が2001年9月11日にアメリカ同時多発テロを起こし、多くの人命を奪った事件。すでに20年も経っているので忘れた方や生まれる前の事件で知らない方が大勢いるでしょう。イスラム原理主義者の側も数十名が命を落としたのか知るよしもありません。

 宗教はとかく「死後の世界はすべての苦しみから解き放たれた楽園である」と喧伝して命知らずの戦士を集めるために存在するように映ります。

 まぁ悪魔の所業を行なったら地獄へ堕とされるとも語られていますが。

 この楽園の天上界と地底の地獄界を引き合いに出して、心の弱い人を集金マシンとするのが宗教の常套手段です。

 仏教では「六道輪廻」の概念があるため、「死ぬ」とかなり高い確率で人間よりも下の世界へ落とされます。仏の道を極めないと極楽浄土にはたどり着けないと脅しているのです。仏教系の新興宗教はおおかたこの論法を駆使して人の弱みにつけ込み、新たな信者を獲得しています。

「死ぬということ」を「天上界や極楽浄土に行ける」「神のもとに召される」と解釈して刷り込むと「不屈で命知らずの兵士」が手に入るのです。

 そうして「聖戦ジハード」や「十字軍」の戦士を大量に生み出しました。

「死ぬということ」は教育によって左右されます。キリスト教の学校に通うと「キリスト教至上主義」に、イスラム教の国で育つと「イスラム教至上主義」になりやすいのです。

 日本でもカルト宗教「オウム真理教」が化学兵器サリンを撒いて大量殺傷した「地下鉄サリン事件」を起こしたり、弁護士に化学兵器VXガスを振りかけたり。信教のボスである麻原彰晃(ペンネームのようなものなので敬称略。本名「松本智津夫」氏)の命令で自らも毒ガスを吸いかねないにもかかわらず化学兵器を撒き散らしました。

 私たち人間は「死ぬということ」を他人から教えられるべきではありません。それは自らの命を他人に委ねるのと同義です。

 必ず自らの意志で「死」を定義しなければなりません。それがあなた独自の「死生観」を生みます。

 小説のキャラクターも「死生観」は自らの意志で築く以外にないのです。

 まぁ宗教に根ざした「神官」「僧侶」などの職業は、信教の「死ぬということ」を奉じていますが。




生きるということは死から生まれる

 まず「死ぬということ」を定義しました。次は「生きるということ」を見つけます。

 なぜ「死」を先に決めたのか。「生」は生きている「今」から「死ぬ」までの間の状況であり、「死ぬ」ではない状況が「生きる」だからです。

「死ぬとすべてが無に帰す」と「死ぬということ」を定義したら、「生きるということ」は「すべてが無に帰すまでの泡沫の夢」のようなものと定義できます。

「死ぬと無」という概念だと悪事に手を染めやすいのです。なにせ仏教やキリスト教では悪事を働くと地獄へ落とされるとされています。しかし「無に帰す」のであればどんな悪事を働いても聖人と同様すべて「無に帰す」つまり罪が消え去るのです。残るのは現実世界の汚名だけですが、死んで「無に帰す」と死後に汚名で悩まずに済みます。

 神の教えに従って「死ぬ」のであれば、天国の神のもとへと送られて栄誉を授けられる。そう思わせている宗教が多いのです。

 この「死ぬということ」を「天国で栄誉を授かる」に傾倒すると、自爆テロの犯人に成り下がってしまいます。

 アメリカ時間2021年1月6日に連邦議会で次期大統領を確定するための議事を行なっていたところ、トランプ支持者が連邦警察の封鎖を突破して議事堂へ躍り込む事件が発生しました。散々暴れまわり、結果として暴徒四名が射殺されました。これなどは「ドナルド・トランプ大統領」が「不正選挙だ」と主張するのに傾倒し、善悪の見境なしに議事堂へ突入する暴動を引き起こしたのです。まるで現職大統領によるクーデター誘発の事態。本来国を守るはずの大統領が、国が定める手続きを無視して暴動を煽動したのです。しかもトランプ大統領はキリスト教福音派の支持が篤く、まるでイスラム教徒への「聖戦ジハード」発動のような狂乱をもたらしました。

 もし本当に「不正選挙」だというなら五年前にトランプ氏が当選したのも「不正選挙」によるものです。なぜ自分が当選するのは「正当」で、自分が落選すると「不正」なのでしょうか。詭弁以外のなにものでもありません。

 現職大統領によるクーデター煽動は、アメリカ憲政史上初の暴挙です。

 私たち日本人は感情だけで政権を選ぶ愚を学んでいます。それは太平洋戦争の口実を軍部に与えてしまいましたし、東日本大震災で政治の混乱を招いたのです。

 現在耳にする言葉がいかに魅力的に思えても「死」を他人に委ねてはなりません。

 それは「限りある生」を軽く扱う元になります。




生きるとはいつか死ぬまでの猶予期間

 我々人類はいつか必ず死にます。もし私が百パーセント当たる占い師だとしたら、きっとこう言うでしょう。

「あなたは必ず死にます。余命はもって百二十年です」と。

 今まで百二十歳を超えた人物はいません。まぁ中国古典を読んでいると、死んだのが百五十歳くらいでないとつじつまが合わない人物が幾人も存在するのですが。

 私たちは「最大限生きて百二十歳」と考えてよいでしょう。それまでいかに「死」を回避して「生」をまっとうするか。天寿以外の「死」を受け入れない、という「死生観」もあります。

 異世界ファンタジーの冒険者のように「生きて栄誉を授かるか死か」と極端な生き方をする日本人はまずいません。「天寿をまっとうしたい」と考える人が多いのです。

 いつか「死ぬ」のは定まっています。その中でどんな「生」を歩むのか。波乱に満ちた人生がよいのか、平穏な人生がよいのか。それは人それぞれの観念「死生観」の問題です。

 いつか死ぬなら一花咲かせようとする人、猫のように誰にも見られずひっそりと死にたいという人。それぞれだと思います。

 その根底にあるのが「死生観」なのです。

 小説の主人公も、型破りな生き方をしたいのか、穏やかに暮らしていきたいのか。それによって「対になる存在」との向き合い方が変わります。

 だから主人公や「対になる存在」の「死生観」を決めておかなければ、人物がブレてしまいかねません。

「死生観」は人物という樹木を支える根幹です。物語を通じて変化していくとしても、そう変わっていくのが自然だと思わせられなければ突飛な変化とみなされます。





最後に

 今回は「生きるということ、死ぬということ」について述べました。

 勇者志望の主人公なら、「死」の可能性は頭の片隅にもありません。あるのは困難を克服して目標を果たすことだけです。その度の途中で「死」に瀕したときにだけ「このままでよいのだろうか」と振り返ります。しかし回復したらまた目標に邁進するのです。

 あなたの主人公はどういった「死生観」を持っているのでしょうか。あなたが語らないかぎり読み手には伝わりません。直接書く必要はありませんが、描写を通じて「そう捉えているんだ」と読み手に伝えましょう。



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