三百枚書けるようになるお得な「小説の書き方」コラム

カイ.智水

基礎篇〜右も左もわからないときは、まずは基礎から

1. :文章でいちばん大切な「視点」

始めに

 小説も書きたいのだけれども、「小説」について発信したいという気持ちもあります。

 そこで、思いついたときにさっと「コラム」を書くことにしました。ほとんど思いつきで書いていますので、粗がある点はご容赦くださいませ。

 初回は「視点」についてです。

「視点」が定まると、格段に「読める文章」になります。





文章でいちばん大切な「視点」


 小説に限らず、エッセイやコラム、詩や俳句、会社の報告書や新聞記事に至るまで。文章を書くときに最も重要なことは共通しています。


 それは「誰の視点で文章を書いているか」をはっきりさせること、です。


 会社の報告書では最後に書いた人の名前を記載しますし、新聞記事なら記者や新聞社からの発信であることを明確にしています。小説・詩・俳句・エッセイ・コラムなどはタイトルに著者名を添えているので、その人が書いたのだとわかるのです。

 そして書かれている文章は、その書き手が見たこと聞いたこと思ったこと考えたこと感じたことが書いてあると読者は思います。


 報告書や新聞記事などは叙情表現を行なわず客観的事実以外を論じません。なのでこれ以降はそれらには触れないことにします。


 小説を除く詩・俳句・エッセイ・コラムの類いは基本的に「書き手の視点」からのみ書かれます。

 それがわかるから、読み手は文章からさまざまなことを「書き手の体験」と感じるのです。表現が巧みなら「書き手の体験」を「読み手の疑似体験」へと深化させられます。

 「古池や蛙飛び込む水の音」「五月雨をあつめて早し最上川」など自然を読んだ句も「松尾芭蕉の視点」から書かれていることがわかります。

 ただ自然の出来事を書いているだけであっても、はっきりとした情景を読み手に感じさせるのです。


 これらの文章と一線を画すのが「小説」なのです。



 小説は「書き手の視点」で書いていた時期も確かにあります。

 明治時代後半に言文一致体が興った頃は「小説イコール書き手の視点」でした。いわゆる「私小説」です。

 しかし時が流れると「書き手の視点」ではなく「登場人物の視点」で書かれるようになります。

 私が真っ先に思い浮かべるのは夏目漱石氏『吾輩は猫である』です。夏目漱石氏は猫でしょうか。人間ですよね。でも「吾輩イコール猫」として書かれています。これまであった「私小説」の流れがすでにこの時期では大転換していたといえるでしょう。


 そして現代の小説を読んでいると「誰の視点で文章を書いているのか」が多様になっていることがわかります。表現においては多様性こそ求められるべき事象です。


 しかし、とくに小説投稿サイトで「誰の視点」かがブレている小説を数多く目にします。


 小説が「私小説」から離れたのだから「書き手の視点」で書く必要はないよね。


 確かにそのとおり。ですが特定個人に視点を持たせて物語を書いていく義務は残されたままなのです。

 小説に登場人物が必要なことは後日に記しますが、小説には必ず人物が登場します。「誰の視点」かは必ず固定されなくてはなりません。





一人称視点

 主人公に視点を持たせて書けば「一人称視点」の小説です。

 主人公が見たり聞いたり思ったり考えたり感じたりしたことをそのまま文章に起こしていく。それはあたかも「語り手の視点」で紡がれた物語となります。

 読み手は読み進めるうちに主人公の言行を自分の心に入れていき、主人公と同じようになるのです。


 主人公が見たり聞いたり感じたりしたこと、また主人公が思ったり考えたりしたことをありのまま書ける。

 それが読み手の共感を最も得やすい利点です。


 しかし制約もあります。

 主人公以外の人物が見たり聞いたり感じたり、思ったり考えたりしていたことは書けないのです。

 主人公以外はすべて「主人公にはそのように見えた」としか書けません。

 断定ができないし、直接の描写もできないのです。


 この制約は私小説のつもりで小説を書いていると想定すれば認識できます。

 エスパーでもない限り、他人の内面はわかりません。そこを意識して書くことが「一人称視点」の小説に求められます。





二人称視点

 主人公のパートナーに視点を持たせて書けば「二人称視点」の小説です。

 「二人称視点」は書くうえで最も技量が要求されます。動作は「あなたは〜した」と見た目を書き、心情は「あなたはこう思ったようだ」と憶測で書かざるをえないのです。

 しかも、もし文中に「視点」を持つパートナー本人の行動や意志を書いてしまうと、途端に「一人称視点」の小説に変化してしまいます。


 どこまでも「視点」を持つ自分のことは書かず、主人公だけを追いかける。こんな書き方は小説の達人といえどもたやすい所業ではありません。


 また主人公とパートナー以外の重要人物が登場すると「三人称視点」の小説に変化してしまいます。

 「二人称視点」が成立するには“基本的に”主人公とパートナーの二人だけがいる状態以外ありません。主人公が相手をするのは視点を持ったパートナー本人だけになるので、主人公のことだけを描写できます。


 そう考えていても「二人称視点」を成立させるには相当な筆力が必要となるので、本コラムをお読みくださる方々はとくに「二人称視点」を選択肢から外してしまいましょう。





三人称視点

 主人公とそのパートナー以外の人物に視点を持たせて書けば「三人称視点」の小説です。

 その場に複数人いて、その中の「その他大勢のうちの誰か一人」が「視点」を持っています。

 「視点」を持っている人物の言動思考を書いてしまうと「一人称視点」に変化してしまうので、それらは書けません。

 「視点」以外の登場人物の行動はすべて見た目を書き、心情はすべて憶測で書く。統一されているため「二人称視点」の小説よりも書きやすいのです。


 描写対象は「俺・あなた」といった一人称と二人称の代名詞は書けません。

 「彼・彼女」とか「太郎・花子」のように三人称や固有名称を書きます。また少なくともその場に三人以上いることが前提となるので、二人以下の状況を書けないのも厳しい制約です。

 登場人物の心情はすべて憶測であるため、小説にある種の「煮え切らなさ」を覚えるのも確かでしょう。

 しかしすべての登場人物を分け隔てなく描写できるため、案外と書きやすい「視点」といえます。


 ここまでを振り返れば、初心者が最も書きやすいのが「一人称視点」。次が「三人称視点」で、書きづらいのが「二人称視点」となります。

 人物を活き活きと躍動的に書くには「一人称視点」が最も向いているため、初心者ほど「一人称視点」で書くことをお勧めします。





神の視点

 「視点」において忘れてはいけないのが「神の視点」の小説です。「一人称視点・二人称視点・三人称視点」を混ぜて書くことができ、すべての「視点」を行き来できる、初心者にも書きやすいと“一見思わせる”「視点」です。

 「神の視点」なら主人公の心情を書いた直後にパートナーの心情を書くこともできます。


 「誰の心の中もお見通し」


 だから「神の視点」と呼ばれるのです。


 しかし書きやすさは“一見思わせる”に過ぎません。

 「神の視点」こそ最も難しいのです。


 「神の視点」の利点は「視点」を行き来できることであり、心情もすべて断定しながら書けます。

 だから「三人称視点」の小説で感じる「煮え切らなさ」が無くなるのです。


 反面、文章のどこからどこまでが「誰の視点」なのかが不明瞭になりやすい。

 範囲をきちんと分けて書くことができれば「神の視点」はその利点を最大限に活かせます。


 しかしたいていの書き手は範囲を限定せずにあっちの心情を書いた直後にこっちの心情を書くことをしてしまう。

 だから「どこまでが誰に対する描写なのか」が読み手に伝わらなくなるのです。


 初心者の「神の視点」小説は書き手だけにしか情景は思い浮かばず、読み手にはすべてを理解させられません。

 本当に惜しい。

 範囲を限定する方法は後日のコラムに書く予定です。初心者であれば「神の視点」は書かないようにしましょう。

 「百害あって一利なし」です。





最後に

 今回は「視点」に絞りました。書き慣れるまでは「一人称視点」の小説をたくさん書くべきです。

 そこからのフィードバックで書き手は確実に鍛えられます。


 また「視点」を決めることにより「文体」も出来あがるのです。

 「文体」を論じる際に「視点」を無視すると何も得るところがありません。

 なので初回は、小説でいちばん大切な「視点」について書きました。



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