第一章
4. 来訪者
朝。
小鳥の
俺の住んでいる家は比較的主要な
北海道の自動車社会が俺の安眠を妨げているのだ。
自動車のビュンビュンと行き交う音ではなく、小鳥のチュンチュンという鳴き声を聞きながら朝を迎えられたら、どれだけ心地良いことだろう。
ただ、自然の多い北海道といえどもそのような爽やかな朝を迎えられる人は限られている。
何故ならば、スーパーや駅が近くて便利な住宅街に住むことが多いからだ。
農家であれば話は別だが、ここは札幌市に隣接している市。道内でも農家の割合は低い方だろう。
だから小鳥さんに起こして頂ける朝を夢見たところで現実のものとなる確率は低いのだが、それでも
俺一人が勝手に憧れるのは自由だし。
一方で、俺とは対照的に自動車の走行音が鳴り響く中でもすやすやと寝息を立てている奴もいる。
そいつは俺の目の前で気持ちよさそうに熟睡していた。
「…………」
沈黙。俺は頭の中で今の状況を整理する。
ここは俺の部屋だ。周囲を軽く見回したが見慣れた風景なので間違いない。
そして俺が目覚めたらベッドに俺だけではなく、もう一人寝ていた。
――俺の妹、
他人のベッドなのに、自分のもののように心地良さそうに寝ていた。
状況の説明は以上。非常にシンプルだ。
ただ、流してはいけない問題があるだけで……。
「何で寝てるんだよコイツ……」
現状は意味不明だが、意外と俺は冷静だ。
これは俺自身の性格なので直しようがない。余程のことがなければ動揺はしない。
俺は横になったまま、目の前の初杏の顔を眺める。
長い
幼さが
兄妹という関係でなかったならば、関わりを持つことすらなかったのかもしれない。
けれど、俺と初杏は実際に兄妹で。
そして初杏は俺のことを好いている。
初杏の口から何度も「好き」という言葉を聞いているため、俺に対する感情は本物なのだろう。
しかし一方で俺は未だに全てを受け入れられていない、消化不良の状態だった。
事実であることは理解していても、心の何処かでは嘘であって欲しいという気持ちが存在している。
俺の理性が受け入れることを拒否している。そんな感覚だ。
「スー、スー」
隣で気持ち良さそうに寝息を立てている初杏は、どうせ俺の葛藤に気づいていないのだろう。
俺はこういうことが嫌で事前に回避するよう努力してきたのだが、世の中は思い通りにはならないことを身に染みて実感する。
俺の人生にとって不要なものは徹底的に捨てれば良い。人だろうと物だろうと俺が進む上で障害になる可能性があるのなら、リスクは下げるに越したことはない。
残酷なようだが、自分のための人生なのだから自分が満足するように生きるのは当然の権利だ。
だが、多少のリスクがあってもメリットの方が大きい場合は繋ぎ止めておく必要がある。時には自分の支えになり得るからだ。
特に人の場合は感情によって関係性が常に揺れ動くものなので、慎重にやり取りをして関係を維持することが求められる。
感情というのは厄介で、当人にしか真実を知る
だから他人との関わり合いにおいて、相手の感情は推測することはできても答えを知ることは不可能だ。
人間というのは、感情によって振り回される。それゆえ人間関係は難しい。
「ふう……」
布団で仰向けになりながら、思考を整理。
まだ全体像が見えていない感覚はあるが、少しずつネットワークが形成されてきたようにも思う。
ただ、今はっきり分かっていることが一つある。それは俺が初杏へ返答しなければならないということだ。
初杏の気持ちを受け入れるかどうか、重大な決断である。
初杏の気持ちを尊重した上で、俺にとって最善の選択をする義務が課されている。
あまりにもそれは重かった。
◇ ◇ ◇
兄のベッドなのに我が物のように寝ていた初杏を放置し、俺はリビングでテレビを眺めていた。
今日は四月三日。ニュースの途中で現れる美人だと話題の天気予報士によると、天候は晴れ、予想最高気温は九度だそうだ。
桜は十五度以上の日が数十日あってから開花するらしいので、まだ桜が咲くのは先になりそうである。
そもそも東京では桜が咲くと春が訪れた象徴とされるが、北海道では四月末から五月頭に開花するため、あまり春が来たという実感がない。
年に一度の大型連休中に「桜が咲きました」と言われても、時期的な問題で春と結びつかないのだ。
そもそも北海道は気候区分上、夏と冬しか存在していないはずなのだが、ニュースでは「春らしくなってきた」だの「秋が到来した」だの言っているので、細かいことは気にしないことにする。
秋はイチョウが黄色になるため秋だと感じることができるが、春は何を根拠にしているのか俺には分からない。
知っている人がいたら是非とも教えて頂きたい。
「ピンポーン」
不意にインターホンが鳴る。時刻は間もなく午前八時。
こんな朝早くに誰が来たのだろうと疑問に思いつつ、インターホンのモニターを確認する。
映っていたのはよく知る女の子。長い黒髪が特徴的だ。
俺は玄関に向かい、扉を開けて女の子を招き入れた。
「お邪魔します」
女の子は丁寧にお辞儀をしてから家に入り、ちょこんと座って靴を脱ぎ始める。
背中には荷物がたくさん入っているのか、パンパンに膨れ上がった大きめの黒いリュックが背負われていた。
女の子が訪問してくるのはこれが初めてではないため、俺は事情を何となく察したが、一応質問して確認する。
「……で、何しに来たんだ?」
「泊まりに来た」(訳:家にいるのが嫌になったから、逃げてきたので泊まらせて)
「何で?」
「お父さんが出張してお母さんと二人になったから」(訳:お父さんが出張で家にいなくなったから、嫌いなお母さんと二人で過ごすのは嫌なの)
「そうか」
会話終了。
俺と女の子の会話はいつもこんな感じだ。俺が覚えている限りでは、女の子と三分以上会話したことがない。
俺も女の子も口数がかなり少ない方であり、必要以上の会話はしないのだ。
だから俺は女の子の趣味とか基本的な情報はほとんど知らない。
俺の中での女の子の立ち位置としては、よく見るけど全然知らないためミステリアスな子に相当する。
……俺が女の子に興味がないだけなのかもしれないが。
俺は女の子が靴を脱ぎ終わったのを見て、無言でリビングに案内した。
俺は再びソファに座ってテレビのニュースを眺める。
すると女の子はリュックを床に置き、俺の脚の間に座った。
「近すぎてテレビが見づらいんですけど」
「ここが良い」
「……仕方ないな。今日だけな」
女の子はこくりと
女の子は基本的に無表情なので、こういう笑顔は貴重だったりする。正直、可愛い。
ただ、この女の子が俺にくっつくのはよくあることで、慣れもあってドキドキすることはない。
だから俺が女の子に
……しかしこの状況は、昨日のお風呂シチュエーションと似てないか?
お風呂とリビングという場所の違いがあるとはいえ、あまりにも酷似し過ぎている。
そのせいか、昨日の初杏からの不意打ちの告白が無意識的に脳裏に浮かんだ。
――初杏の俺に対する好意は本物で、俺は答えを探さなければならない。
俺が抱えている問題の重大さを実感し、思わず溜め息が漏れる。
「はあ……」
女の子は俺の方に顔を向け、心配そうな目で見つめていた。
ここで女の子に相談するという手段もあるが、事情を話すことは初杏の気持ちを公にすることと同義だ。
絶対的に正しいと思い込んでいる常識ほど恐ろしいものはない。その根拠が乏しいからこそ、逸脱していれば相手にすらされない。
何より、俺は女の子に対して大して信頼を置いていない。
だから、ここで女の子に相談するのは得策ではない。
「……気にするな」
俺は女の子から目線を逸らしつつ告げる。
女の子は納得していないようだったが、元のように顔を前に向けた。
ここで余計に掘り下げられるより、触れられない方がマシだ。
あくまでも俺の課題なのだから。
思考を無理矢理断ち切ろうとテレビを眺める。すると、
「お兄ちゃん! 何でベッドからいなくなって……る…………の…………?」
リビングの扉が急にバタンと開いて初杏が慌てた様子で現れた。
起きたばかりなのだろう、髪の毛がボサボサだ。
「………………」
そして初杏は黙って俺の方を
「……お兄ちゃん、知らない女の子を連れ込んだら犯罪だよ?」
「よく見ろ。知らない女の子じゃないから」
警察のお世話にはなりたくないので、反論をする。
初杏の左手にはスマホが握られてるし、初杏なら本当に通報しかねないからな……。
初杏は俺、というより女の子に近付き、
「何だ、
やっと状況に気が付いたらしい。
ちなみに女の子の名前は
奏花の家はここから徒歩十分程度のところにあり、母親嫌いなこともあって頻繁に泊まりに来る。
「お邪魔してます」
奏花は俺の脚の間に座ったままペコリと頭を下げる。
「ねえお兄ちゃん。二つ質問したいことがあるんだけどさ」
「何だ」
俺は初杏に質問を促す。
「まず一つ目。何で私が寝てるのにベッドからいなくなったの?」
そもそも何故俺のベッドで初杏が寝ていたのか気になるのだが、それは初杏にとって
今はまず、初杏の質問への回答を述べる。
「目が覚めたら起きるのは当然だろ」
「可愛い私が隣で寝ていたとしても?」
「関係ない」
「むう……」
何が気に食わなかったのか頬を膨らませている初杏。
そもそも勝手に俺のベッドに入って来たのだから、文句を言うのは俺の権利だと思うのだが。
女子という生き物は基本的に予測不能なので、思ったことは口にしてはならない。取り扱い注意だ。
そしてもう一人、取り扱いに気をつけなければならない人物が目の前にいる。
俺の方をじーっと見ている目の前の奏花だ。視線が痛い。
「お兄さん、初杏と一緒に寝たの?」
奏花に小声で尋ねられる。
一瞬、事実を言うべきかどうか迷った。既に奏花から不機嫌オーラが漂っていたからだ。
しかし目の前に初杏がいるので嘘を
というか、今までの会話の内容でほとんど言っているようなものだし。
ならば仕方ないが、事実を言う他ない。
「一緒には寝たが、初杏が勝手にベッドに入って来ただけだぞ。俺は無実だ」
「そっか」
少し嬉しそうな表情を浮かべていたようにも思うが、奏花は基本的に無表情なのでどう思ったかは定かではない。
一方で、俺と奏花のやり取りを見ていた初杏は眉を
「お兄ちゃん。もう一つ質問」
声のトーンが明らかに低い。
「何でお兄ちゃんの脚の間に奏花が座ってるの?」
俺と奏花が会話している様子から、仲が良いと勘違いしているのだろう。
確かに奏花は昔から俺に
ただ従妹として接しているに過ぎないのだ。
はっきり表現すれば、血の繋がりがあるから関わっているだけで、何も思っていない。
仲が良いかどうかと訊かれれば、答えは
仲の良さは双方向でのやり取りがあって成り立つものであり、一方的なものを仲が良いと表現するのは不適切。
それを踏まえて俺が質問に対する答えを口にしようとした瞬間、
「……私が座りたいから座った。それだけ」
俺より先に答えた人物がいた。言うまでもないだろうが奏花だ。
初杏の怒りは俺に向けたものであって、奏花に対してではない。
だから奏花が答えれば、初杏は意表を突かれて怒りの方向に戸惑う。
奏花がそこまで想定していたかどうかは不明だが、少なくとも俺が答えるよりベターだ。
「そ、そう……」
実際、初杏は奏花に対して言えたのはそれだけ。
何を言ったら良いのかすら判断できずにいるのだろう。
初杏はその場で数秒考えた後、
「取り敢えず、着替えてくる」
初杏はそう告げて、リビングから出て行った。
リビングに取り残されたのは、俺と奏花の二人。
沈黙の中、テレビからの音声だけが際立っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます