2. 告白の真実

 四月二日。

 天気は雨。

 昨日、天気予報で降水確率が九十パーセントと言っていたため、降るだろうな、とは思っていたが。

 朝からずっと降るとは思わなかった。

 現在、時刻は午後六時。

 日はすっかり落ちているし、屋内では雨がザーッと降る音は聞こえない。

 けれど、街灯が照らしている辺りをよく見れば、縦にすじが見える。

 雨のしずくが落ちるときに描いた筋だ。

 それが、未だに雨が降っているという何よりの証拠。

 しばらく窓から雨の筋を眺める。

 実は、俺は雨が好きだ。

 台風や強い低気圧による大雨であれば身の心配をするけれど、穏やかに降る雨は見ていて心地良い。

 雨は、人間の営みとは関係なく降る。

 人間が会社で働こうと、商店街で買い物をしていようと、家で漫画を読んでいようと、降るときは降るのだ。

 こう言うと変かもしれないが、雨は人間から独立している。

 当たり前だろう、と思うかもしれない。

 でも、不思議。

 地球の歴史から見れば人間はほんのわずかしか生きていないのに、科学によって次々と現象が解明されてきた。

 四十六億年で作り上げられたシステムが、つい最近現れた、たった一種の人間という生物によって、全部ではないにしても明らかにされてきたのだ。

 雨だって、どうして降るのか、というメカニズムかある程度解明されたから、天気予報がほぼ正確になっている。

 けれど、雨が降る、という現象は、人間の手でコントロールされていない。

 人間の技術が、意図的に雨を降らせることができていないのだ。

 もちろん、技術はあるけれど、お金とか倫理とかの問題で実行に移せていない可能性はある。

 それでも、雨が降るのは人間と関係ないのは事実だ。

 ――うらやまましい。

 俺も完全に独立して、好きなように生きられたら。

 気持ちが救われるのかもしれない。

「お兄ちゃん、どしたの?」

 初杏そあに声を掛けられて、俺の意識が窓の外からリビングへと戻る。

 俺は、どれくらいリビングの大きな窓の前で、突っ立っていたのだろう?

 何事もなかったかのように、さっとカーテンを閉める。

 そして、ソファに座っている初杏に、

「い、いや、何でもない」

「ふーん、そう。とにかく、早く夕食作って。お腹空いたし」

 少し前、初杏は「お兄ちゃん、お腹空いた!」と元気に俺の部屋に突撃してきた。

 仕方なく俺は夕食を作るため、自室のある二階からキッチンのある一階へ降りてきた、という訳だ。

 何故かもれなく初杏が後ろから付いてきた。どんだけ空腹なんだ。

 ちなみに、初杏に絶対に料理をさせてはいけない。

 一言で言えば、壊滅的。

 料理をすれば、包丁で指を切るし、加熱すると必ず焦がす。

 塩と砂糖を間違えたり、多少料理の形が崩れるというのならまだ分かる。

 けれど、初杏のはそういう次元じゃない。

 思わず「料理なのか、これは……」と言いたくなるレベル。

 本当に下手にも程がある。

 以前、初杏が卵焼きを作ろうとしたことがあったのだが、真っ黒でぐちゃぐちゃの謎の物体ができあがっていた。

 リアルでダークマターを作る人が存在することを、そのとき俺は初めて知った。

 俺は冷蔵庫を開け、中にある野菜や肉を一通りチェックする。

「よし」

 俺の頭の中で、今日の夕食が決まった。


 ◇ ◇ ◇


 俺と初杏は食卓テーブルを挟んで向かい合わせに座っている。

 普段、母さんは仕事で帰りが遅いため、二人で食事する光景は当たり前のものだ。

 今日の夕食は親子丼、ワカメと豆腐の味噌汁、ほうれん草のお浸しの三つ。

 初杏がかなりお腹を空かしていたようなので、短時間でできるものにした。

 親子丼は、たまねぎ、鶏肉を切って火を通し、調味料で味付けをして、卵でとじる。それを丼によそったご飯の上に乗せれば完成だ。

 結構、簡単にできるので、オススメ。

 今、目の前で初杏はバクバクと勢いよく親子丼を食べていた。

 さすがに犬食いのようにはしたない食べ方ではないが、箸ですくって次々と口へと運んでいく。

 しかも、最初に「いただききます」と言ってから、ずっと無言で食べ続けている。

 どれだけお腹が空いていたのか。

 初杏は今日一日、外出をしていなかったし、昼食もしっかりとっていた。

 それなのに、こんな勢いで食べるとは、かなり意外だ。

 初杏は丼を空にして、テーブルに置く。

「ふ~、美味しかった~」

 もの凄く満足そうな表情を浮かべつつ、初杏は椅子の背もたれに寄りかかった。

 いつも通りの初杏であることに、少し安心する。

 いつも通り、というのは初杏が空腹だったことを言っているのではない。

 初杏の様子とか、態度が普段と変わらないってことだ。

 そう、昨日の告白が、まるでなかったかのように。

 けれど、俺の記憶には鮮明に残っている。

 初杏の真剣な表情。「お兄ちゃん、大好き」という言葉。

 それらが事実だったのだと、俺に知らせてくる。

 しかし、あの告白から今まで、初杏は何も言ってきていない。

 それどころか、不自然なほどいつも通りだ。

 だから、俺の心に安心と同時に不安が募る。

 ――昨日の告白が嘘だったのかどうか。

 その答えに、確信が持てずにいる。

「ねえお兄ちゃん、どうやったら美味しい料理が作れるの?」

 初杏は、親子丼を咀嚼そしゃくしていた俺に尋ねる。

 俺はそれをゴクリと飲み込んでから、

「どうした? 料理を振る舞いたい相手でもできたか?」

 多少、初杏をからかいつつも、直接的な言い方は避ける。

 昨日、初杏に告白されたばかりなのだ。

 九十九パーセント以上の確率で嘘だとは思っているが、万が一、本当だったら。

 触れてはいけないものに、触れている気持ちになってしまいかねない。

 気まずい雰囲気は、避けたいものだ。

「そ、そんなんじゃないけど……」

 初杏の返答が、俺を安心させる。

 心に生えていた棘が、すっと消滅したみたいだ。

 ここで、「それは、もちろんお兄ちゃんだよ!」とでも言われたら、どうしようかと思った。

 遠回しに俺への告白が本気だと言っているようなものだし。

 とりあえず、安心。

「私だって、女子だし。料理ができた方が良いかなー、みたいな」

 あー、そういうことか。

 確かに、女子なら料理ができるべきだ、みたいな風潮あるからな。

 それだから、料理ができたら女子力がある、と言われるようになるんだ。

 バレンタインに手作りチョコとか手作りクッキーを女子に手渡されたとき、男子が「女子力まじパねえ」って言っているのを俺は何度も見たことがある。俺とは無縁の世界だけど。

 けれど、つまらない。

「じゃあ、できる料理を挙げてみろ」

「それ、今、関係あるの?」

「いいから」

 初杏は顎に手を当て、「う~ん」とうなりながら真剣に考え始める。

 決して俺は難しい質問をした訳ではないと思うのだが。

 得意料理を尋ねたなら、候補が頭の中にいくつか浮かび、どれが一番か悩むのならわかる。

 しかし、俺が訊いたのは作れる料理だ。

 一つに限定した訳ではないから、ただ列挙すれば良い。

 ……まあ、初杏が料理を苦手としているのは知っているし、出てこないことを想定して尋ねているから、俺が悪いのだけど。

「…………あ!」

 初杏はぱあっと表情を明るくする。

 何か思い浮かんだらしい。

 嫌な予感しかしない。

「卵かけご飯!」

 何でそんなに元気良く答えられるの?

 卵さえ割れれば誰でもできるよ、それ。

「はあ~」

 俺の口から大きな溜め息が漏れる。

「それ、料理に入らないだろ」

「え…………」

 何でこの世の終わりを見たかのような表情をしているんだよ。

「料理に入るか入らないかの境界を具体的に言えって言われたら難しいけど……。そうだな……。包丁で材料を切って、それを煮たり焼いたりといったような加熱過程があれば、料理って言えるな」

 初杏にざっくりとした料理のイメージを伝える。

 そうしないと、「ツナマヨご飯!」とか言いそうだしな……。

「お兄ちゃん、それはレベルが高いよ」

「真顔で言うな」

 遠回しに自分が料理できないと言っているようなものだ。

「う~ん。私ができる料理、できる料理。作ることができる料理。作れる料理。作れる、作れる。料理料理料理料理……」

 初杏はお経を唱えるかのように、ブツブツと独り言を呟いている。

 得体の知れない生物が召喚されたり、秘められた力が覚醒したりすることがないとは分かっているが、不気味なことこの上ない。

「料理料理料理。食べれる。美味しい。料理料理料理。材料切る。加熱。無理。分からない。料理。料のことわり。理?」

 初杏の思考が行方不明になりそう。

 もしかしたら既に思考はベテルギウスあたりにあるのかもしれない。えっと、確か距離は六百四十光年くらいだっけ。

「……ねえ、お兄ちゃん」

「どうした?」

 初杏の思考が地球に無事帰還したようで。

「私が作れる料理って、何?」

 前言撤回。既に思考自体が消滅していた。

「俺が尋ねたのに、俺に訊いてどうする」

「だって、分からないんだもん」

「そんなむすっとしても俺は答えられないぞ」

 初杏が可愛い表情をしているからって、俺が初杏の作れる料理を言える訳がない。

 だって、知らんし。知らないものを言えっていうこと自体が無理だ。

「五円あげるから、答えてよ~」

「随分と安いな……」

 五円で料理ができるようになるのなら、苦労はしないだろうよ。

 初杏は再び「う~ん」と唸り始める。作れる料理を挙げようとしているだけなのに、頭から湯気が出そうだ。

 真剣に考えること数分。初杏は何かに気付いたようで、ハッとした表情を浮かべる。

 そして、深刻そうに、

「もしかして、私、何一つ料理できない……?」

 ようやく現状に気が付いたらしい。

「諦めろ。前世でも来世でも異世界でも絶対にスーパー料理人にはなれないだろうよ」

「お兄ちゃん、そこまで言われるとさすがの私も傷つく……」

 初杏の心を徹底的に折ったところで、最初の「どうやったら美味しい料理が作れるの?」という質問の答えを口にする。

「つまり、だ。初杏には美味しい料理なんて一生作れないから安心しろ」

「何が『つまり』なのかよく分からないし、安心できる要素どこにあるの、それ……」

 色々と突っ込まれているが無視しておこう。

 俺はお椀に入っていた味噌汁を飲み干し、空になった食器を持って立ち上がる。

「食器洗うから、シンクまで運んでおけよ」

「は~い」

 シンクに食器を置き、洗剤をつけたスポンジでそれらを洗う。

「はい、これ」

 初杏が俺の横からシンクに食器を置いた。

「あ、そうだ、お兄ちゃん。あの……。きょ、今日さ。一緒にお風呂、入らない?」

 思わず食器を落としそうになる。あっぶねえ。

 驚きのあまり声を発することができず、そのまま硬直する俺。

 思考が、ポンと音を立てて弾ける。

 初杏はそんな俺の耳元に顔を近づけてささやく。

「昨日のこと、忘れていないよね?」

 それだけ言い残し、初杏はキッチンから立ち去っていく。

 キッチンにただ一人取り残された俺は、しばらくその場で立ち尽くしていた。

「まじか……」

 俺が発せた言葉はそれだけ。

 たった一人で現状を受け止めるのは、あまりにも過酷だった。

 だって、これは。初杏の言葉は。

 昨日の告白が本物だったと言っているようなものだ。

 いや、「ような」ではないのだろう。初杏の告白は本気の告白だ。嘘ではない。

 食事中の様子がいつも通りだったから、すっかり安心していた。

 けれど、最後の最後に爆弾を投下されるとは……。

 妹と兄は付き合えない。それが常識。

 そして常識とは、従うことが当然のものだ。

 だから、世の中の考えに従って常識にのっとるならば、初杏の告白を断った方が良い。

 そして、初杏に兄妹で付き合うことの異常さを教えるべきなんだろう。

 けれど、俺にはそれが正しいことなのか分からない。

 常識は「そうあるべき姿」として人々の間で共通認識している。

 勝手に、理由もなく、ただ何となく理想の形だと思い込んでいるもの。

 つまり、常識には理由がない。

 理由がないものに従うのは、何処か納得がいかない。

 理由が欠けているのならば、従ったところで良い方向に向かうという保証がないからだ。

 今現在のたった一時においては良いものに見えるかもしれないが、後から見れば間違っていた、なんてことは人類の歴史で何度も繰り返されてきた。

 でも、俺が生きている今、常識は従うべきものであるという認識は確かに存在する。

 だから、俺は答えを出せない。

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