……思い出した。

 蝉の鳴き声がけたたましい。

 テストがはじまって、教室の空気も冷房の冷気と一緒に集中の熱気が篭もって、混沌とした雰囲気になっている。

 あの日以来、レンくんの声はピタリと聞こえなくなってしまった。図書館に行っても、人気のない廊下に出ても、彼の声を聞くことがとうとうできなくなってしまったんだ。

 レンくんの声が聞こえなくなると、途端にきゅっと心臓が痛くなる。

 唯一彼がいると証明してくれるのはプリントシールだったけれど、それを貼っている生徒手帳を毎日開けて眺めるわけにもいかず、ただ生徒手帳を制服のスカートのポケットに入れて、ときどきスカート越しに生徒手帳に触れて、安心するしかない。

 彼はたしかにいると。

 テスト期間のせいで、通院する回数も減り、わたしがひとりでネットや図書館で勉強した記憶喪失に対する疑問を打ち明ける機会もなく、次の通院までずるずると待つしかできなくなっている。

 塩田さんとはというと、話をしたくっても、タイミングが悪く、いつも邪魔が入る。

 廊下で話をしようとしたら、沙羅ちゃんから「ちょっとごめん……掃除当番の子がひとり先に帰っちゃって……悪いんだけれど、手伝ってくれる?」と言われてしまったら、班の半分以上が勉強や面倒臭いと言い訳並べて帰っちゃっている状態なんだから、手伝わない訳にはいかない。

 放課後に待ち合わせしようとしたら、絵美ちゃんから「泉ー! ちょっと部活の記事読んで欲しいんだけど!」と頼まれる。どうもコンクールで選考を通ったらしく、その発表のために新しい記事を書かないといけないという。

 ふたりがあからさまに塩田さんへの接触を阻もうとするのに、さすがに塩田さんに悪いんじゃと思っていたけれど、そのたびに彼女は人のよさそうな顔で目尻を下げて笑っている。


「あぁあ、やっぱりあたし嫌われてるねえ」


 そうしみじみと言うものだから、申し訳ない。

 彼女はそこまで悪い人とは思えないんだけれど、あからさまにふたりが敵視しているのが気になった。

 でも……レンくんが塩田さんのことを呼んでいたことも、まだ聞けていない。

 こうしてまともに塩田さんとしゃべれないまま、テスト期間は終了してしまった。

 あとは自習日のあと、学校の大掃除をやって、ようやく終業式だ。

 わたしは今度こそ塩田さんに話をしたいと思いながら、塩田さんと廊下で出会ったときに、ひょいと彼女のスカートのポケットに突っ込んだ。それに塩田さんは「おっ?」と振り返ると、わたしは頭を下げる。

 彼女のポケットに入れたのはメモ。わたしのスマホアプリのIDが書いてある。

 本当だったら直接会って直接話を聞きたいけれど、こうも邪魔が入るんだったら、アプリで話を付けたほうがよさそうだ。

 わたしは素知らぬ顔でIDを渡したあと、そのまま何事もなく学校の用事を済ませた。

 テストの点は、やっぱり現国以外は可もなく不可もない点数で、赤点をギリギリ回避しているだけだった。これで来年の受験は大丈夫なのかとは思うけれど、できるだけわたしの偏差値で行けて、わたしのやりたいことがやれる大学を選ぶしかない。

 アプリで話をすればいいやと思って、その日は塩田さんを探すこともなく、沙羅ちゃんと一緒に帰る。

 沙羅ちゃんは蝉の鳴き声に目を細めながら、にっこりと笑った。


「今年もサッカー部、インターハイに出るんだってね」

「へえ……今年はどこでするの?」

「うん、M県。応援に行けるといいんだけど」

「結構遠いねえ」


 去年もわたしは沙羅ちゃんと一緒にサッカー部の応援にインターハイまで行っていた。去年は親戚のつてがあったから、それで泊まることで旅費を浮かせて応援に行けたけれど、今年はつてがなさそうだ。

 去年は学校からの応援団は他の部のほうに回ってしまっていたせいで、そこについていって応援に行くことができなかった。今年は結構強いから、サッカー部のほうにも応援を回してくれたら、一緒に応援に行けるのになあ。

 わたしがそうしみじみと思っていたら、ふと沙羅ちゃんと目が合う。沙羅ちゃんがまじまじとわたしのほうを見て、遠慮がちに言う。


「……泉ちゃんは、今でもやっぱり思い出したい?」

「え?」


 一瞬なんのことかと思ったけれど、トラックが道路でエンジンを噴かせている音に、わたしは肩を強張らせる。

 トラックに跳ねられた前後のことは記憶が飛んでいるくせに、トラックを見た途端に体が強張るのは、未だに治らない。

 そのわたしの態度を見て、沙羅ちゃんはそっとわたしを車道の反対側に押して、沙羅ちゃんが車道側に回って歩き直す。そして、ぽつんと言った。


「私は、思い出して泉ちゃんが辛くなっちゃうのなら、思い出さなくってもいいって、今でも思ってる」

「え……沙羅ちゃん?」


 わたしが思わず沙羅ちゃんの顔をまじまじと眺めると、沙羅ちゃんはゆるりと笑う。目尻を下げて、今にも泣きだしそうな顔をされてしまったら、彼女は本気でわたしが傷付くのを嫌がっているんだって、わかってしまう。

 思えば。沙羅ちゃんがなにかに対して怒っていたり、ちくりと棘を出していたときに話題に出していたのは、いつもわたしのことだ。

 沙羅ちゃんはどちらかというとわたしと気性はよく似ていて、滅多に人に対して当たりが厳しくなったりしない。そんな穏やかな子に無理させてしまっていたんだと、我ながら情けなく思った。

 わたしが俯きそうになったとき、沙羅ちゃんは口を開いた。


「泉ちゃんは思い出したそうで、いろいろなにかやってるのは知ってても、どうしても邪魔しちゃう……説明しなかったら、ただ意地悪しているようにしか見えないはずなのに、それでも言えなかった。ごめんね」

「……沙羅ちゃん。ごめん。心配してくれるのは嬉しいけど、でもね」


 わたしはスカートの上から、ポケットを撫でる。今日もプリントシールを貼った生徒手帳はそこにある。

 ……レンくんは、たしかにいるはずなんだ。

 彼が黙ってしまったら、もうわたしだとどこにいるのかもなにをしているのかもわからない。でも、わたしと遊びに行った彼は、たしかにいるはずなんだよ。

 見えない、触れない、声だけしか聞こえない。

 いるのかもどうなのかもわからない人を、ずっといるって思い続けるのは、結構疲れるんだ。


「……前にもちょっとだけ言ったけどね。好きな人が、いるんだ」

「泉ちゃん」


 沙羅ちゃんは眉を潜ませる。……本当に、沙羅ちゃんはレンくんのことが嫌なんだなあ。塩田さんに向けていたのと同じような、棘のある顔をする沙羅ちゃんを安心させるように、わたしは笑顔で続ける。


「でもね、わたしには何故か見えないし、触れない……本当に、どうしてこうなったのかわたしにもわからない。病院で検査しても、わたし悪いところなんてどこにもないんだよ?」

「泉ちゃん……それ、本当?」


 沙羅ちゃんがつらそうな顔をすると、わたしもつらい。できるだけ安心させるように、わたしは言葉を重ねた。


「嘘ついてもしょうがないよ。誰も信じられないだろうから、わたしもこれを口にしたことって、ないけどね……忘れる前のわたしは、なにかやってた。それがなんなのか、わたしは知りたいんだ」

「……泉ちゃん」


 沙羅ちゃんは眉を潜ませて、唇を噛み、なにかを必死で考えているように視線を落とした。

 本当だったらわたしを説き伏せて、その考えを捨てさせたいんだと思う。

 でも、彼女は一瞬だけかぶりを振ったあと、こちらに対して口角を持ち上げた。


「うん、泉ちゃんが決めたんだったら、それでいいよ」

「沙羅ちゃん……ありがとう」

「泣きたくなったら、私はいつでも待ってるからね?」


 そういたずらっぽく笑う沙羅ちゃんに、わたしは心から感謝した。

 親友に、もう向いてないことをさせたくないなあ。わたしは、沙羅ちゃんに無理ばっかりさせてるもの。

 蝉時雨がけたたましい中、わたしたちはようやくそれぞれに家路に別れたのだ。


****


 家に帰ったあと、スマホを確認したら、知らないIDからアプリチャットが入っていた。

 確認したら、それは塩田さんだった。


桃子【間宮さん、大丈夫?】


 メッセージを読んで、すぐに返信した。


泉【はい、大丈夫。ごめんね、いきなりID押し付けて】

桃子【いや、いいよ。聞きたかったのは、間宮さんが事故に遭った日のことだよねえ】

泉【うん】

桃子【でも、間宮さんの友達も結構トラウマってるみたいだからねえ……だから、多分言いたがらなかったんだとは思うよ。何度も邪魔してきてたのは、それが原因だと思うな。あの子たちもパニックになっていただけなんだから、そこは許してあげてね】


 塩田さんは存外面倒見がいいらしい。

 そういえば、派手な外見の子たちと集まって、よく遊んで帰っているみたいだけれど、グループの女の子たちの姉御分みたいで、よく甘えてきている子たちの面倒を見ているようだったな。あまり交流のないグループの様子を振り返りながらそう思う。

 わたしは彼女の言葉にありがたく思いながら、言葉をタップした。


泉【大丈夫。友達ともちゃんと話をしたらわかってくれたから】

桃子【そっか。それなら大丈夫かな。あー、こっから先は、電話で大丈夫?】

泉【えっ? うん】


 すぐ、アプリの電話機能がついて、スマホが鳴った。わたしはそれを取る。


「もしもし」

『ごめんね、無理に電話にしてもらって』

「ううん、わたしのほうこそ、何度も何度も押しかけたのに」

『そりゃ記憶が飛んでたら気になるから、それは気にしないで……じゃ、あのときのことだけど』


 塩田さんが、あのときのことを口にした。

 それを耳にした途端、わたしは目の前が真っ白になったような気がした。

 視界がぐにゃりと魚眼レンズを覗き込んだときのように、曲がって見える。まるでくるくる回って、世界全体がぐるぐる回っているような錯覚に陥った。わたしが黙り込んだのを、慌てて塩田さんが声をかけてくる。


『ちょっと、間宮さん大丈夫!?』

「ごめん……ちょっとショックを受けただけだったから……でも、そのせいかな。思い出した、みたい」


 ぐるぐると視界が回る。

 もう座っていることも困難で、わたしはベッドに突っ伏して、目が回るのをやり過ごす。

 行儀悪くベッドの下に置きっぱなしの鞄に手を伸ばすと、中身を漁って、つるつるした小さな紙袋をふたつ、引っ張り出してきた。

 掌に納まったのは、神社で買ったお守りがふたつ。

 ひとつは渡しそびれたもの、もうひとつは訳もわからないまま買ったもの。

 馬鹿だなあ……わたし、本当に馬鹿だ。いろんな人に心配されて、守られていたのに。本当に、馬鹿だなあ。


「……蝉川せみかわくん」


 好きな人の顔も、名前も、忘れてしまっていたなんて、大馬鹿だ。


****


 わたしは読書が趣味の文系女子だし、スポーツ大会で花形になり、朝礼のときに表彰状を授与されている人たちとは無縁だと思っていた。

 身長が大きいし、声は大きいし、ひとりっこで男子に慣れていないわたしにはどうしてもガサツに思えて怖い。小学校の頃から持っていた苦手意識は、年を追うごとに隔たりになって、気付けば同じクラスにいる違う人種というくらいにまで、自分とは関わりのない人認定をしてしまっていた。

 だから一学期早々、委員を決める投票を見たとき、ものすごく青い顔になったことを、ようやく思い出した。

 黒板に書かれている正の字。

 図書委員の候補者で、圧倒的に多いのはわたしの名前の下。わたしが去年も図書委員をしていたのを知っていた子たちがこぞって入れたんだろうと、納得できたけれど。

 問題は男子。男子は押し付け合いをしたかったのか、候補に挙がった子は多かったけれど票がばらばら。でも明らかに組織票が働いている男子が、わずかに他の男子の票の数を上回っていたんだ。


「うわあ、誰だよ! 俺に票を入れた奴!!」


 そう頭を抱えて声を上げる男子を見て、わたしは小さく震えていた。

 髪は金髪だし、身長こそ沙羅ちゃんと同じくらいだけれど、それでもわたしよりは充分高い。声が大きいし、明るすぎる。別にわたしは根暗というわけではないけれど、テンションが違い過ぎる人は、どうしても怖いと思ってしまうんだ。

 蝉川くんに票を集中投下したのは、案の定サッカー部の男子たちだった。


「やあ、だってお前だって俺らに票入れただろ。練習時間減るじゃん」

「そうだけどさ! でもよりによって図書委員って! 俺が本を読むように思う訳!?」

「そりゃ入れるだろ。お前やかましいんだから、もうちょっと静けさを覚えろ」

「どんな説得!?」


 サッカー部の男子たちがギャーギャー言い合っているのを、わたしは縮こまって見守っていた。

 沙羅ちゃんは困ったようにわたしのほうに寄ってきて、わたしが震えているのに絵美ちゃんが抱きついてくる。


「ごめん、泉ちゃん。去年も図書委員だったし、楽しそうだったから、今年も泉ちゃんに票入れたんだけれど……」

「せめて滝だったらよかったのにねえ、よりによって蝉川かあ。蝉のようにけたたましいじゃん」

「う、ううん。いいよ。きっと部活が忙しいから、委員の当番はわたしに押し付けるだろうし……」

「こら、そこは「サボるな!」と抗議すべきところでしょ!」

「だって……どう言えばいいのか、全然わからないんだもん……」


 沙羅ちゃんと絵美ちゃんにさんざん慰められたものの、わたしはひとりで震えていた。

 サッカー部は去年、滝くんが入部してから絶好調で、他校からも女の子のファンがやってきたり、ときどきサッカー雑誌が取材に来ているのは知っている。去年は沙羅ちゃんの付き添いでインターハイを見に行ったくらいだから、サッカー部は真面目に真面目にサッカーをやっているという事実はわかってはいる。いるんだけれど……。

 滝くんは女の子にモテているにも関わらず、誰とも噂が流れないくらいに硬派だし、無口なほうだから、図書委員で一緒になっても大丈夫だろうなとは思っていたけれど。

 蝉川くんはテンションがわたしと全然違うし、背が小さいけど金髪で典型的な体育会系だ。いったいどう接すればいいのかわからないと、ついつい気後れしてしまう。

 同じ委員に決まった時点では、彼への印象が全然変わるとは想像だってしていなかった。


****


「これ全部本棚に片付ければいいんだな?」

「うん……でもこれ重いから、カート使ってもいいよ?」

「いいっていいって! それは間宮が使えよ」


 意外だ。と思ったのは、あれだけ練習に行きたいを連呼していた蝉川くんは、当番をわたしだけに押し付けることがなかったことだ。たしかに練習試合で学校にいないときもあったけれど、そのときは事前に謝りに来てくれたし、当番のときだってしっかりと仕事をしてくれている。

 今日も先生が返却した分厚い専門書を何冊も持って、本棚に片付けに行ってくれている。

 重くないかなとハラハラしながら、わたしはカートに生徒から返却のあった小説を棚に片付ける。

 だいたい返したけれど、最後の一冊は台に乘らないと片付けることができない。

 わたしはきょろきょろしながら台を探していて「あちゃあ」と口の中でつぶやいた。

 本を立ち読みしていた子が、そこに座り込んで読書に没頭してしまっている。でもあと一冊で終わりなのに。わたしは困ってうろうろしていたら、既に手ぶらになった蝉川くんがきょとんとした目でこちらを見てきた。


「あれ、間宮返却終わった?」

「えっと……最後の一冊片付けられなくって……」

「ええ、台なかったか?」

「あるけど……」


 わたしはちらっちらっと奥を見る。すると蝉川くんは屈託なく、読書してしまっている子に「ごめんっ! ちょっと台使うからどいてくれない!?」と手を合わせて声をかけてしまった。わたしは思わず肩をビクンッと跳ねさせていたけれど、その子はびっくりしたように本を持って閲覧席のほうへと移動してくれた。

 それを見送り、蝉川くんはこちらのほうへ笑う。


「ほら、空いたから使えって」

「う、うん……ありがとう」


 わたしが台のほうに昇り、最後の一冊を片付け終えたら、カートを押してカウンターへと帰っていった。

 蝉川くんはにこにこしている。


「うん、ひと仕事終えたし!」

「えっと、さっきはありがとう」

「え、なに?」


 蝉川くんはあまりに屈託なく言うので、わたしはどもる。彼の中の普通は、わたしにはなかなかできないことだから。


「えっと……台を、出してくれたから……」

「別に、そんなの普通だろ?」


 彼のことを最初はあんなに怖がっていたのに、気付いたら彼に頼ることも、目で追っていることも増えていった。


****


 中学時代のときから、運動部の子たちは「練習があるから、任せた!」とすぐにそれ以外の子に掃除当番を押し付けてしまうし、わたしは何回も何回も押し付けられていたから、残念だけれどそんな子たちなんだと思っていた。

 でも蝉川くんを目で追うようになってから、そんなことは人に寄るという事実を知った。


「ジャンケンポーン! 負けたぁ! ダッシュでゴミ捨ててくる!」

「おう、行ってこい行ってこい。終わったら練習場まで走りな」

「おーっす」


 蝉川くんはサッカー部の皆と一緒に掃除をしたら、ジャンケンでゴミ当番を決めて、走って練習に向かっているのが目に入った。

 わたしは不思議そうな顔で蝉川くんを見ていたら、絵美ちゃんが「サッカー部見過ぎぃー」と顎を肩に乗っけてきたので、わたしはビクンと背筋を伸ばす。


「い、いやぁ……掃除、普通にしてるなあと」

「あー。部活優先するために押し付ける奴多いもんねえ。サッカー部って遠征で授業抜けたりするの多いじゃない? だから普段からきっちりやることやってなかったら、抜けた部分のノートとか貸してもらえないから、普段から意外とやることやってるんだよねえ」

「そうだったんだ……」


 そういえば、滝くんは女子が好き好んでノートを貸してあげたりしているけれど、他の男子も意外と赤点なかったりするのは、日頃の行いのたまものだったんだなと、当たり前なことに気が付いた。 

 蝉川くんは普段から女子とも男子とも壁なくしゃべっているし友達も多いけれど、身長が運動部にしては低いせいなのか、それとも近くに滝くんみたいな格好いい人がいるせいなのか、いまいち女子にはもてない。でも本人はそれをあまり気にしてないみたい。

 怖くってあんまり関わってなかったタイプの人も、こうして見てみると、わたしたちとあまり変わらないんだなと、当たり前なことを知る。

 これで声が大きくなかったらなあ……。わたしはそう思って見ていた。別に声が大きいからといって、なにもおかしなことはされたことないけれど、小心者には大きな声は必要以上に委縮してしまうものなんだ。

 しゃべるたびに、わたしが勝手に肩を震わせているのに気付いたのか、ある日の図書委員の当番のとき、本当に唐突に蝉川くんに聞かれた。


「俺さあ、間宮になにかした?」

「え?」

「うーん……間宮と何故か全然目が合ったことないから。怖がらせるようなことってしたっけって」


 そう聞かれて、口をへの字に曲げられてしまい、わたしはどっと顔に熱を持たせた。

 変だと思われた。わたしが挙動不審だから。どうにかして蝉川くんが悪くないと、わたしはどうにか顔を真っ赤にしたまま、手をパタパタさせて言い繕う。


「いや、本当に、蝉川くんは悪くないよ? ただ……わたしが、変だから?」

「え? 別に間宮が変だとは思ってないけど」

「そ、そうじゃなくってね……わたしが勝手に怖がっているだけで……」

「いや。怖い理由がなにって聞いているんだけど」

「声……」

「え?」


 蝉川くんはあまりに屈託なく返事をするからか、わたしはぽろっと言ってしまう。


「声、大きいと、小心者は、勝手に委縮するんです……」

「ああ、それか!!」


 それでわたしが勝手に肩を跳ねさせるのに、「ああ、ごめんごめん」と蝉川くんは声を抑えて謝ってくれる。


「そっかあ、悪い。なんか間宮が怖がってるの見てたら、こっちがいじめてるみたいに感じてさあ。じゃあ今度から気を付けるからさ」

「い、いじめられているとは、思ってない、よ? い、いっつも、助けてくれるのは、蝉川くんだから……」


 わたしの言葉は、最後のほうになったらごにょごにょと小さくすぼまってしまって、みっともなくなってしまったけれど、蝉川くんは「そっかそっか」と繰り返す。


「お前うるさいとはずっと言われ続けてたけど、まさかそれが原因で女子を怖がらせてるとは思わなかったしなあ。理由もわかったし、ありがとうな」


 そう屈託なく笑うのに、わたしはまたも頬がどっと熱を持つことに気付く。

 どうにかして返事をしないとと思ったけれど、上手く言葉が出てこず、わたしは「どういたしまして……」と小さく小さく言うことしか、できなかった。


****


 新聞部の部室は、いつもインクの匂いがしている。

 コンクールに出品する記事以外に、学校で貼り出す新聞だったり、文化祭に貼り出す新聞だったりをつくっているせいだろう。

 そこで手をインクまみれにして、絵美ちゃんは振り返った。校正作業を行っている新聞には、赤ペンでびっしりとなにやら書かれている。


「えっ、サッカー部の練習を見に行きたいの?」

「う、うん……サッカー部って、今どこで練習しているのか全然知らないし……わたしひとりで行っても、浮くから……」


 前は放課後で練習していたけれど、外部からもファンが見に来たり、他の学校が偵察に来たりするから、一度部員と見学者でトラブルがあったらしい。それ以降は外のグラウンドで練習しているとは聞いていたけれど、そこがどこかはわたしは知らなかった。新聞部だったら取材に行ったりするから知らないかなと思ったんだけれど。

 絵美ちゃんは「うーん」と声を伸ばす。


「なんか滝のファンがトラブル起こして以来、サッカー部も見学するの厳しくなったしねえ。でもわざわざ外の練習見に行くよりもさあ、朝練見に行ったほうがいいと思うよ? 朝だったら基礎練しかしてないから、偵察に来られてもファンがうるさくっても問題ないみたいだし、うちの学校のグラウンドで練習してるから」

「そうだったの?」

「あはは……普段学校にはギリギリで来るから、朝練してたことは知らないかあ」


 絵美ちゃんはニヤニヤと笑ってわたしを見るのに、思わず「な、なに……?」と聞く。それに絵美ちゃんは「いやあ」と笑う。


「沙羅に続いて、泉までサッカー部に落とされたかあと思ってさあ」

「だ、誰に落とされたの……!?」


 どっと顔を火照らせて、わたしは抗議するけれど、絵美ちゃんのニヤニヤ笑いは止まらない。

 沙羅ちゃんが滝くんを気にしているけれど、滝くんは普段からサッカー部員かファンの女の子たちに取り囲まれているし、本人も不愛想が過ぎる。だから同じクラスになった今でも話しかけるタイミングもなく、遠巻きに見つめているので精一杯なのは知っている。

 ……と、そこで思いついた。


「じゃあ、朝練のとき、一緒に見に行ってもいいかな。沙羅ちゃんも誘って」

「まあ、それくらいだったらサッカー部も文句は言わないと思うよ。ファンも割とキャーキャー言って朝から見てるからねえ」


 わたしが住んでいる場所は校区ギリギリなせいで、登校はどうしても予鈴が鳴る直前になってしまうけれど、早起きすれば見に行けるかな。

 見に行ってなにがしたいわけでもないけれど、いつも蝉川くんが目をキラキラさせているものがなんなのか知りたかった。

 サッカーのルールは体育の授業でやったものくらいしか知らないけれど、それで大丈夫かなあ。

 わたしはそうぼんやりと思った。


****


 それから、わたしはサッカー部の朝練の見学をするようになった。

 普段早めに出ても予鈴ギリギリなんだから、早めに出るのはちょっと眠たかったけれど、グラウンドの周りを見たら、意外と女子が多い。

 他校の偵察みたいな人も来るのかなと思っていたけれど、前にファンと揉めたせいなのか本格的な練習を朝練ではしてないから、そんな人はいなかった。

 グラウンドでランニングをはじめた途端、滝くんのファンたちが「滝くーん!!」と歓声を上げる。

 隣でちらっと沙羅ちゃんを見たら、沙羅ちゃんは頬に手を当てるだけで、声すらかけられないみたいだ。絵美ちゃんはというと、メモ帳を走らせている。


「これも記事にするの?」

「しないよー。でも、一応書いておいたら、あとでネタになるかもしれないしさ」

「ふうん」


 新聞部の事情はわからないけれど、コンテスト用に新聞記事を作成するから、テーマによってはサッカー部に取材交渉に行ったりもするのかもしれない。

 そう思いながらグラウンドのほうに目を戻したら、「あっ、間宮ー!!」と手をぶんぶんと振られて、わたしは思わず肩を跳ねさせる。

 身長が高い順で走っているサッカー部で、後ろのほうで走っていた蝉川くんが、意外とあるバネでピョーンピョーンと跳んでこちらに手を振るものだから、自然とサッカー部員からも見学に来ていた女子からも視線が集まって、わたしは縮こまって絵美ちゃんの後ろに隠れてしまう。

 練習が終わるまで、まじまじと見ていたところで、沙羅ちゃんはくすくすと笑う。


「でも意外だね。まさか泉ちゃんがサッカー部の朝練見学に行きたいって言うなんて」

「そうかな? わたしも、なんで早起きして朝練見てるんだろうって思ったけど」

「サッカー部人気だしねえ、蝉川は、競争率相当低いけどね」

「え、そうなの?」


 わたしが絵美ちゃんの言葉に、思わず声を裏返らせると、沙羅ちゃんと絵美ちゃんから、気のせいか温かい眼差しを向けられてしまい、思わずわたしは肩を縮こまらせる。

 どうも見ている限り、本当に蝉川くんはモテないみたいだとは思っていたけれど。他の人からもそう思われているとは思わなかった。

 モテてしまうのもなんかやだけど、モテないって断定されてしまうのも、なんか違う気がすると、わたしはごにょごにょと口を動かす。


「いや、蝉川くん。いい人だし……優しいし、意外とちゃんといろんなこと見てる人だし……」

「まあ、悪い奴ではないんだと思うよ。ただデリカシーのかけらもないっていうか、女子と男子と区別なく接するせいか、いちいち余計なひと言言って女子を怒らせるせいか、蝉川モテないからねえ。隣に滝がいるっていうのも大きいかもしれないけれど。寡黙なイケメンとうるさいチビだったら、どっちがモテるかって話だわね」

「べ、別に蝉川くん、デリカシーないとか思ってないんだけれど……」

「おやおや?」


 絵美ちゃんに顔を覗き込まれ、わたしは必死で両手で顔を隠した。それに沙羅ちゃんはにこにこと笑っている。

 わたしは妙に安心してしまったんだ。蝉川くんはモテない。だから、格好よくっても彼女ができない。

 そのことにわたしは安心していた。

 わたしは別に、蝉川くんと彼氏彼女になりたいとか、大それたことは考えていない。ただ隣にいても誰にも文句言われないことに、安心したんだ。

 まともにしゃべれるのは図書室での当番のときだけ。運動部の人たちに囲まれている中で声をかけるなんて、怖くってとてもじゃないけれどできない。二学期に入ったらまた委員投票がはじまるから、どうなるのかなんてわからないけれど。

 告白する勇気はなくて、ただ片思いを満喫していよう。ふたりでしゃべれる時間を大切にしよう。

 わたしはそこにあぐらをかいているという自覚が全くなかった。


****


 その日も図書室で当番だった。今日は返却の本もなく、司書さんに「本の修理をしてね」とテープを渡されたので、読まれ過ぎて背表紙から取れそうなページをもう一度背表紙にくっ付ける修繕作業をしていた。

 テープでぺったんとくっつけてから、めくれにくくなっていないかとパラパラとページをめくっていたところで、同じ作業に没頭していた蝉川くんに声をかけられる。


「あっ、今度の日曜ってさ、間宮は暇?」


 日曜日に、暇かどうかを聞かれる。

 わたしは一瞬顔を真っ赤にして、上擦った声で「ど、どうして?」と聞く。変だと思われていないといいなと、心臓をバクバクさせながら。

 それに蝉川くんは「どうした?」と聞かれるので、わたしはブンブンブンと首を振る。

 蝉川くんは一冊ボロボロになってしまっているハードカバーの表紙に当て紙を足して補強しながら、口を開く。


「今度さ、サッカー部の試合があるんだ。決勝戦」

「あれ? まだ大会に、出てないよね……」


 もし練習試合や試合があるんだったら、公休扱いになるはずだけれど、サッカー部が公休になったのは、今月に入ってからまだだったはずだ。

 わたしが首を傾げていたら、蝉川くんは続ける。


「いや、今年のチームだったら多分決勝戦まで残れるからさ。もし暇だったら、間宮見に来ないか?」

「え……」

「用事入ってたか?」


 蝉川くんが小首を傾げる様に、わたしは顔に溜まった熱をどうにか冷まそうと、ブンブンブンと再び首を振る。


「なんにも入ってない。暇。……あの、見に行って大丈夫? 邪魔にならない?」

「え、なんで? 女子が声援上げてくれたら、気合入るじゃん」


 なんだ、女子の声援が欲しいだけか。

 思わずガクッとしたけれど、蝉川くんはのんびりと「滝ばっかり声かけられるのもつまんねえしなあ」と続けるので、わたしは思わずギクリとした。

 そりゃわたしは滝くんのことをなんとも思ってないけれど。

 わたしは少し考えてから、ふと思いついた。


「うん、行くよ。勝ったら教えてね」

「おうっ! 絶対に勝つ!」


 わたしはそう蝉川くんと約束したものの、アプリのIDもスマホの番号も教えていなかったことに気付くのは、それからあとだ。

 ただわたしは、蝉川くんに誘われたことに浮かれて、勝って欲しいなと思って近所の神社で宮司さんが帰ってくるのを見計らって、お守りを買った。

 最後に、神社の賽銭箱にぽいぽいと小銭を入れて、手を合わせた。

 うちの学校のサッカー部が勝ちますように。

 蝉川くんとの約束が守れますように。

 今思っても、浮かれ過ぎだったんだ。あのときの自分にビンタをしたい。

 だって、蝉川くんがフレンドリーなのはわたしだけじゃないもの。誰にだってだもの。


****


 その日、わたしは沙羅ちゃんと一緒に学校に向かっていた。


「ふうん、それで蝉川くんにお守り買ったんだ」

「はじめてなんだ、試合を見に来て欲しいって言われたのは」

「すごいじゃない、ちゃんと言えばなんとかなるんじゃないかな?」


 沙羅ちゃんはにこにこ笑いながらそう言ってくれるけれど、わたしは首を振る。


「言えないよ……気まずくなるの、嫌だし」

「ええ? でも同じ委員の当番のときは、ちゃんとしゃべれてるんでしょう?」

「うん……でも、それは蝉川くんが同じ委員のよしみでしゃべってくれるんであって、それ以外にわたしと蝉川くん、接点がないし……」

「同じクラスじゃない」

「お、同じクラスでも、グループが全然違って、近付くこともままならないので……っ!!」


 わたしがあわわと手を振りながら訴えると、沙羅ちゃんはくすくす笑いながら「気持ちはわかるよ」と答えてくれた。


「うん。私は蝉川くんとちゃんとしゃべれる泉ちゃんが羨ましいけどなあ。私は近付くこともできないから……」


 そういう沙羅ちゃんに、わたしは言葉を詰まらせる。沙羅ちゃんの気になる人は、あまりにも競争率が高過ぎるんだ。


「あ……で、でも。サッカー部の応援だったら、女子の声が欲しいらしいし、沙羅ちゃんも一緒に行こうよ! 新聞部も取材に行くんだから、絵美ちゃんだって言ったらきっと一緒に行ってくれるしさ!」

「うん……迷惑にならないといいよね」

「ならないって」


 お互い、本当に難儀な部の人を気になりだしたものだなと思っていた、そのときだった。

 沙羅ちゃんが一瞬顔を上げたあと、くいっとわたしの手を掴んで道の端に寄せた。そこの信号を待って渡れば学校まですぐなのに。


「あれ、沙羅ちゃん。信号を待たないの?」

「ちょっとコンビニに行きたいんだ……コンビニに寄って行っちゃ駄目?」

「え? いいけど、朝練間に合うかな」

「大丈夫、多分間に合うから」


 そう言って沙羅ちゃんが手を引いてコンビニのある路地に移動しようとしているとき、向かいの信号が青に変わった。

 信号がぽんと変わったと同時に、トラックが走り去り、今まで車で隠れていた姿が見えた。

 綺麗な女の子と、蝉川くんだ。彼女はにこにこ笑いながら、蝉川くんとしゃべっている。蝉川くんはそれに対して笑顔で応じている。派手なグループの子は、口こそ利かないものの、一緒にサッカー部の朝練にも来ていた子だったと思う。

 蝉川くんと親し気に話している中、彼女がなにかを彼に渡しているのが見えた。

 あ……。わたしは言葉を詰まらせた。その小さな袋は、見覚えがあった。

 神社のお守りだ。多分、必勝祈願。


「……泉ちゃん、行こう」

「で、でも」

「……蝉川くん、デリカシーないから。多分、好かれてるって自覚もないんだよ。あの子、どう見たって蝉川くんに気があるじゃない。いいの?」


 沙羅ちゃんは必死にわたしをこの場から動かそうと腕を引っ張るけれど、それでもわたしは石像になったみたいに動けないでいた。

 ……当たり前のことだ。

 蝉川くんは、本当にいい人なんだもの。わたし以外にも好きになる人だって現れる。あんな可愛い子に好かれてたんじゃ、勝ち目なんてないや。

 ……馬鹿だなあ。わたしは途端に暗くなる。

 図書室で一緒に当番するだけで満足してたら、傷付かずに済んだのに。ふたりがしゃべっているだけなのか、付き合っているのかはわからないけれど、見ているだけで、酸素が薄くなったように息苦しい。

 わたしは沙羅ちゃんの手を解いて、ふらふらと信号を渡る。

 渡ったところで、一緒にしゃべっていた蝉川くんと女の子が振り返った。蝉川くんは元気に手を振る。


「よっ、間宮! また見に来てくれるのか?」

「……う、うん」

「あ、いつも見に来てる子だよね。おはよー」


 綺麗な子はにこにこ笑いながら手を振る。朝から化粧をばっちりしていて、浮かべている表情は晴れやかだ。

 地味で目立たないわたしのことも覚えているなんて……いい子なんだ、きっと。なんとなくそう思ってしまうと、ますますこちらがいたたまれなくなる。

 勝手に自己嫌悪に陥って、勝手に被害妄想に陥る自分が馬鹿みたいだと。

 慌てて沙羅ちゃんが追いかけて信号を渡ってきた。


「ちょっと、泉ちゃん!」

「うん……またグラウンド、見に行くからね」

「おう」


 そのままよろよろと歩きはじめて、沙羅ちゃんが「ちょっと、泉ちゃん……!!」とさっきよりも声が大きくなることに気付いた。

 わたしが思わず顔を上げて、気付いた。

 信号のない路地から、トラックが出てきたことに気付かず、そのままふらふらと歩いていたんだ。

 耳をつんざくようなブレーキの音。しまったと思う暇もなく、体がぶわり、と浮かぶ。

 全てがスローモーションに見えた。

 歩道を渡ろうとしていた人の驚いた顔や、慌ててスマホを取り出してどこかに電話をかける人たちの声。トラックに乗っている運転手さんの顔は、わたしからだと見えない。

 死ぬ間際には走馬燈が見えるって言うけれど、わたしはなんにも見えなかった。死ぬ前に思い出したいほど、強い思い出はわたしにはまだなかったみたいだ。


「間宮……!!」


 あのとき、わたしのことを呼んだのは、蝉川くんだったんだ。

 馬鹿だなあ、わたし。

 勝手に自爆した挙句に跳ねられて、勝手に忘れて。皆に心配かけて……挙句に、綺麗な女の子……塩田さんだって全然悪くもないのに謝らせて。

 わたし、本当に馬鹿じゃない。


****


 あのとき、蝉川くんは多分救急車に乗ったんだと思う。救急隊員の人と警察に事情を説明するために。

 ひどいものを見せちゃったんだなと、丸一日起きなかったせいで、そのときのことは想像することしかできなかったけれど。

 多分うちに連絡をしてくれたのは沙羅ちゃんだ。だからお母さんが来てくれたんだろう。

 わたしの蝉川くんに関する記憶が抜け落ちてしまったとき、どうして見えることも触ることもできなくなっていたのかは、わたしが車いすでぼんやりしている間に、先生がお母さんに説明してくれていた。ただ、あのとき、わたしはそれを上手く認識することができなかった。


「緑内障は、片方ずつじゃないと診断が難しいというのはご存知ですか?」

「ええっと……どういうことでしょうか?」

「はい、両目でものを見ても、物がふたつに見えることがないのは、利き目のほうの見えない視力を、もう片方の目で情報を補っているせいです。欠けているものをもう片方で補われてしまったら、診察が困難ですから、片方ずつ診断しなければならないんです。泉さんの記憶も同じで、忘れてしまった彼のことを思い出せないせいで、無意識のうちにいないものと判断してしまったようです」

「それって……」

「脳というものは、簡単に本人を騙してしまうんです。昔、脳の実験でこんなものがありました。ある監視カメラに映った犯人の姿を皆で再現しようというものです。見せた実験対象たちの中にさくら《、、、》を混ぜ、さくら《、、、》が嘘の犯人像を口にしてしまったところ、実験対象たちの記憶は混同し、間違った犯人像が完成してしまったんです。人間は自分にとって都合の悪いもの、気持ち悪いものは無意識のうちに遠ざけようとします。泉さんの場合も、忘れてしまった蝉川くんのことを「見えない」と認識することでなかったことにしてしまったんだと推測できます」

「それは……元に戻るものなんでしょうか?」

「わかりません。記憶が戻ることもあれば、戻らないこともあります。ひと月。ひと月経っても戻らない場合は、そのほとんどは戻ることがありません……ただ、無理に思い出させようとすることだけは、どうかやめてください」

「と、言いますのは?」

「記憶喪失になった場合、思い出すのに脳に負荷やストレスがかかります。自主的に思い出すならともかく、周りからせっつかれた場合、泉さんの脳にどう作用するかわかりませんから。彼女が自主的に思い出したいと行動するまでは、どうか待ってあげてください」


 わたしが忘れてしまっても、彼のことを認識できなくなってしまっても、どうして蝉川くんはわたしにちょっかいをかけてきたのかはわからない。

 目の前でトラックに跳ねられたのを見て、責任を感じてしまったのかもしれない。だって、あれは本当にわたしが悪かったんであって、蝉川くんはなにも悪くなかったの。

 むしろ、「見えない」わたしは、無自覚とはいえど、なんであんなに彼を振り回したのか、本当に意味がわからない。

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