その痛みは忘れたままのほうがいい気がした。

 家に帰ってから、テスト範囲の暗記のノルマをどうにか終えると、休憩がてらにスマホを弄っていた。

 調べてみたのは、記憶喪失に関するエピソード。

 ドラマや小説のエピソードもたくさん拾えたけれど、実際にあった出来事もそれなりに拾える。最も、それは玉石混合で、本当のことなのか嘘八百なのかは、知識が足りな過ぎて判別ができない。

 記憶喪失になったのは本当に一瞬で、十分間だけ一年間の記憶が全部飛んでしまって、お医者さんに年齢を聞かれたときに一歳若く答えてしまったという話。

 病院に運ばれた際にに自分がどこの誰だかわからなくなったものの、身分証明できるものもなにひとつ持っていなかったせいで、警察に保護されて家族を探す羽目になったという話。

 記憶喪失というものは、一過性のものと、慢性的なものにわけられるというのがわかった。

 ひと月以上忘れていたら慢性的なものにカウントされ、わたしの事故の前後の記憶が抜けてしまっているのは、慢性的にカウントされるらしい。

 わたしはそれに、「ふう……」と息を吐いた。

 一過性のものはさておいて、慢性的なものは記憶を取り戻すことが滅多にないらしく、気になる記述があるので、そこをタップしてじっくりと読み返した。

 慢性的なものは、大きなストレスを抱えることで発症してしまうことがある。そのストレスに耐え切れなくなったときに、肉体的な衝撃を受けた際に一緒にリセットボタンを押してしまうことがあると。

 わたしの場合は、慢性的なものだけれど、事故の前後の記憶が飛んでしまっている以外はなにもない。つまりは、わたしが事故に遭った際に、なにかがあったということになる。

 学校ではなにがあったっけか。

 わたしはカレンダーをめくって、そのときの出来事を思い返そうとする。中間テストのあとに入院したんだから、普通に学校に通っていたはずだ。

 時間割とカレンダーを見比べていたとき、わたしは「あれ?」とひとつ記憶にない記述が書いてあることに気が付いた。

 わたしが入院していた週ではなく、テストが終了した週の日曜日、【神社】と書いてある。わたしが入院した週の日曜日には【節間グラウンド】とも。たしか節間グラウンドはスポーツや野外ライブの会場になることもある場所だ。名前は知っていても、そんな場所に足を運んだことなんて一度もないはずなのに……あのときのわたしは、ここに行こうとしていた……?

 すぐにスマホで節間グラウンドについて検索をかけ、その週の行事スケジュールの確認をする。


【H県高校サッカー大会決勝】


 あれ。つまりは……。

 ここまで読んで、わたしは思わず頭を抑える。

 サッカー部の応援に行こうとしていた、ってことで合っているよね。でも、なんでだろう……?

 沙羅ちゃんが滝くんの応援をしたいから、それの付き添い? でも、もしそうだったら、沙羅ちゃんはわたしにその話題をしてもいいはずなのに、彼女からはサッカー部の話題はされない。

 いや……そういえばわたし、退院してから、一度もサッカー部の話題を沙羅ちゃんからも絵美ちゃんからもされてないよ? 沙羅ちゃんは滝くんに気があるはずなのに、こんな不自然なことってある?

 それに……。

 この神社ってなに?

【節間グラウンド】の前の週に書かれている【神社】の字に、わたしは軽く指を滑らせる。

 近所には、たしかに神社がある。土日にしか宮司さんがいないから、その日じゃないとお守りもおみくじも買えないような小さな神社だ。そこにカレンダーにまで書いていたってことは行ったんだろうけれど……。

 わたしはちらっと時計を見る。まだ八時にもなってないし、今からだったらコンビニに行くとでも言えば、自転車で走ってすぐに帰ってこられる。

 わたしはお母さんに「コンビニにジュース買いに行くけど、他に買ってくるものあるー?」と言いに行った。

 お母さんは「テスト勉強は?」と渋い顔をしたものの、「今日は暗記だから、覚えたものは帰ってきてから問題集解いてみる」と言って誤魔化した。


****


 ジリジリと鳴る虫の音を聞きながら、自転車を漕いで十分。外灯で朱い鳥居が照らされているのが見えて、すぐに鳥居の脇に自転車を停めた。

 多分宮司さんはそろそろ帰っていると思うんだけれど。わたしは汗ばむのをTシャツをパタパタさせて待っていたところで、「あれ?」と声をかけられて振り返る。

 スーツ姿で、ジャケットは脱いで脇に挟んでいる。一見すると一介のサラリーマンに見えるけれど、近所に住んでいるわたしは、この人がここの宮司さんだと知っている。宮司さんは平日はどこかで働いていると聞いたけれど、詳しいことは知らない。わたしが宮司さんに頭を下げると、宮司さんも「こんばんは」と返してくれた。


「この間のお守り、渡せましたか?」


 そう話しかけられ、わたしはビクッと肩を跳ねさせる。……なにかお祈りにでも来ていたのかなと思っていたけれど、お守りを買いに来ていたんだ。

 宮司さんもお祭りのとき以外は人が来ないから、わたしがここに来たことを覚えていたらしく、にこにこと笑いながら聞いてくれる。

 わたしが少しだけ考えると、首を振った。


「どうも、落としちゃったらしくって……そのときのお守り、もう一度買いたいんですけれど」

「あー、それは残念でしたね。ちょっと待ってくださいね」


 突然押しかけて来たのに、ありがたくも宮司さんはすぐに神社の社務所のほうに入ると、そこからお守りを差し出してくれた。


「たしか、これでしたね」

「あ、はい!」


 わたしはそれを見て、目を見開く。

【必勝祈願】。

 サッカー部の優勝祈願でお祈りに来たんじゃなくって、お守りを渡すつもりだったんだ。

 わたしは宮司さんに尋ねる。


「あの、宮司さん」

「はい?」

「わたし、ひとりでここに来たんですよね?」


 宮司さんは少しだけ驚いた顔をしたものの、「そうですよ。一生懸命お守りを選んで、これを買って帰りましたよねえ」と答えてくれた。

 わたしは、お守りのお金を支払って、ひとまずポケットにしまい込んだ。

 自転車を漕いで、風を前面で受けながら考える。

 サッカー部の応援に行ったのは、てっきり滝くんの応援に行きたい沙羅ちゃんの付き添いとか、絵美ちゃんの取材の付き合いだと思っていた。でもこれじゃあ、わたしが自主的にサッカー部の応援に行こうとしていたみたいじゃないか。

 てっきり、わたしが忘れていたのは、交通事故前後の記憶だけだと思っていたのに。

 そんなことまで忘れていたなんて……。

 図書館で読んだ本によれば、矛盾が生じてしまっても、無意識のうちにつじつま合わせをしてしまうから、忘れていても全く気にならないらしい。

 なんでだろう。どうして忘れちゃっていたんだろう。

 そう思い返してみても、同時にスマホで見た記事のことが頭にちらつく。

 ストレスになることが原因で、衝撃と同時に記憶を手放すスイッチを押してしまうという奴。

 思い出したとき、わたしは大丈夫なんだろうか。それとも、思い出さないと駄目なんだろうか。

 聞いてみたくっても、誰に聞けばいいのかわからない。どうしたいのかって聞かれても、わからないとしか言えない。

 わたしは、コンビニでお母さんに頼まれた牛乳を買うと、家に戻って、それを渡した。

 そのあと、わたしは自分の鞄を漁りはじめた。

 学校に教科書を置いて帰っているから、鞄の中にはノートや筆記用具、問題集や図書室で借りた本ばかり入っていると思っていたけれど。

 わたしは鞄の中身を全部引っくり返して、ひとつひとつ確認して「あ」と気付く。

 ちょうど神社で宮司さんに渡されたお守りが、神社の封に入ったまま出てきたのだ。

 だとしたら……事故の前に、サッカー部の人にお守りを渡すつもりだったんだ。でも、誰に?

 滝くんという線は、ない。事故に遭ってからしゃべることが増えたけれど、同時に沙羅ちゃんとの接点も増えているから。でも……運動部の人が苦手なわたしがしゃべれる相手が、他にいるの?

 一瞬レンくんのことが頭によぎったけれど、首を振る。

 見えない男の子に、どうやって渡せるの。だって触れもしないじゃない。

 思い出そうとしても、なにか靄がかかったように、ちっとも思い出せない。サッカー部の知り合いは、彼以外に思いつかないんだ。


****


「はあ……」


 わたしは溜息をついた。

 ずっとレンくんと話をしていたはずなのに。見えない男の子で、わたし以外には声が聞こえていない幽霊みたいな人。手を繋いでいて引っ張られる感覚はあっても、触感だってない。

 それが外見を知った途端に態度を変えるなんて、自分はどうかしているとついつい思って自己嫌悪に陥ってしまう。

 なによりも。レンくんはわたしが彼の外見を知る前と知ったあとでも、なにひとつ態度を変えていないんだ。

 だからこそ、ちくちくと不毛だという言葉が突き刺さるんだ。

 ……見えない男の子のことを好きになったところで、どうにもならないじゃないと。

 見えないから、触れないから。彼の声が聞こえない限り、いるのかいないのかわからない人を好きになったところで、どうなるんだろう。

 なによりも、外見を知った途端に態度を変えたら、そんなの失礼じゃないかと思ってしまうんだ。

 レンくんはおかしなわたしに対しても、ちっとも態度を変えていないのに。

 自己嫌悪がズキズキと突き刺さるのを感じていたところで、ふとスマホを見る。

 スマホには当然カメラが搭載されている。それでわたしはなにげなく景色を映してみた。わたしの近くは、今はテスト勉強用の単語帳を広げている子や、赤シートを駆使して暗鬼をしている子、皆でクイズ大会をしながらテスト勉強している子ばかりが目に留まる。

 あちこちを映して回ってみても、レンくんの姿はなかった。

 そう、だよね。わたしはスマホを鞄にしまい込みながら、家路を急いだ。

 レンくんがいつもタイミングよくわたしに声をかけてくるからといって、いつも一緒にいるわけがない。

 わたしもなにを期待してたんだろう。

 そして、少しだけ萎む気持ちを叱咤する。なにを勝手に期待して、勝手にがっかりしているんだろうと。


****


 昼休み、普段だったら皆外にお弁当を持って行って食べたり、食堂に行ってご飯を済ませるのに、ほとんどは購買部やコンビニで買ったパンやおにぎりを食べて、教室で勉強にかかりっきりになっていた。

 そういうわたしも、購買部で買ったメロンパンと紙パックの紅茶でお昼を済ませると、テスト勉強をガリガリとする。暗記ものは家でじゃないと覚えきれないけれど、苦手な数学はせめて赤点くらいは回避したいから、毎日のように文章題の勉強をしている。数式計算だけだと、赤点回避にはちょっと足りない。

 教室は皆、テスト前だからと勉強にかかりっきりになっている。当然部活も休みで、休み時間や登下校中に聞こえる運動部の掛け声も、声楽部のコーラスも、吹奏楽部のクラリネットの音色も聞こえてこない。

 うちの学校の古い冷房が、ぶおんと埃を撒き上げて教室を冷やしていく音を耳にしていたところで、「泉ちゃんは今回のテスト、調子はどう?」と声をかけられて、顔を上げる。

 沙羅ちゃんは数学や英語は問題ないから、もっぱら暗記ものをしようと、赤シートと赤ペンを片手に勉強をしている。絵美ちゃんはどちらかというと英語の赤点回避のために、せめてもと英単語の暗記を続けているみたいだ。

 わたしは数学の問題集をちらっと見せて、首を振る。


「全然自信ないよー」

「うん、そうだよねえ」

「うんうん」


 そんな会話をしつつも、入院していてちんぷんかんぷんなわたしはともかく、ふたりともそこそこの成績を取っているのを知っている。社交辞令って言ってしまったらそれまでなんだけれど。

 テスト範囲の山をかける度胸もないから、こうやってちまちまとできる範囲で点数を稼ぐしかないなあとぼんやりと考えていたところで、沙羅ちゃんが「最近、泉ちゃん元気ない?」と聞かれる。思わず瞬きをする。


「え……そう見える?」

「見えるかなあ。もうすぐテストだけれど、なにかあった? 委員の当番のときとか」


 そう言われて、わたしは思わずルーズリーフに立てていたシャーペンの芯をぽきりと折る。それが床に転がったのを尻目にわたしは目をぱちぱちぱちとさせてしまう。


「ど、どうして?」

「泉いずみ、それ全然隠れてないからね? 隠してるつもりだったら謝るけどさ」


 絵美ちゃんに首を振られても、わたしはあわあわしている以外にできず、思わずルーズリーフに視線を落とす。

 すると沙羅ちゃんは困ったように眉を下げて笑う。


「私にも言えないこと?」

「……うーんと、ちょっと待ってね」


 あのとき一緒に撮ったプリントシールは、生徒手帳に貼っている。でもそれを見せる勇気なんてちっとも出ないから、わたしはただ、小さくごにょごにょと言う。


「……気になる人と、ちょっとだけ。散歩したんだ」

「え?」

「おおっ!」


 沙羅ちゃんが目を瞬かせ、一方絵美ちゃんは目を輝かせる。

 絵美ちゃんは詰め寄って「誰!? 私たちの知ってる人!?」と案の定聞いてくるので、わたしはますます口元をごにょごにょとさせてしまう。

 機械を使わないと見えないし、触れないし、「レン」って名前以外知らないし、どう説明すればいいんだろうと、ただわたしは蚊の鳴くような声で、「多分知らない……」とだけ言う。

 絵美ちゃんはますます「どんな人!? 格好いい!?」と聞くので、わたしは助けを求めるようにして沙羅ちゃんを見ると、沙羅ちゃんはなにかを考え込むように、唇に親指を押し当てていた。


「ええっと……泉ちゃんの好きな人って、もしかして、背がわたしと同じくらい?」


 それにわたしは思わず肩を強張らせる。沙羅ちゃんは女子としては身長が高めだけれど、スポーツやっている男子よりは当然低い。

 レンくんはサッカー部のユニフォームを着ていたけれど……サッカー部の見えない人……なのかなあとぽつんと思う。

 でも。どうして沙羅ちゃんがそんなこと言うんだろう。わたしがぼんやりと思ったら、その言葉に絵美ちゃんは「ああ……」と言葉をすぼめ、さっきまでの勢いを殺す。


「泉、そいつと遊んできたんだ?」

「遊んで……本当に、ただ散歩して、ご飯食べただけだよ」

「それデートじゃん」


 そう絵美ちゃんに指摘されても、わたしだってどうすればいいのかわからなかった。

 沙羅ちゃんだけでなく、絵美ちゃんにまで気を遣われてしまう理由が、こちらにはさっぱり。

 隠し事? そうは思っても。そもそも見えない男の子のことなんていったいどう聞けばいいのかわからず、わたしは喉を詰まらせた。

 わたしが忘れてしまっている事故のときの前後のことは、相変わらずちっとも思い出せないし、思い出すきっかけすら掴めない。それでもちっとも困っていないから放っておいたけれど。

 レンくんは、わたしが思い出せないこととなにか関係しているんだろうか?

 そうじんわりと胸に広がっていく疑問を打ち消すように、絵美ちゃんが「あーあーあーあー!!」と声を上げる。


「とりあえず! テスト頑張ろう!」


 中途半端な声を上げたせいで、こちらにクラスメイトが怪訝な顔で振り返ったけれど、絵美ちゃんは気にすることもなく「とりあえず室町時代、金閣寺つくった人は!?」と無理矢理話を締めてしまったので、わたしたちはおずおずと口を開いていた。


「ええっと……足利義満……?」


****


 今日は天気が悪く、来週からテストだっていうのに、台風が近付いてきているってニュースも流れてきていた。

 わたしはじっとりと纏わりつく湿気にうんざりしながら、群青色の空の下を歩いていた。

 今日は図書館で勉強する気にもなれず、そのせいかレンくんの声を聞くことはできなかった。

 皆がなにかを隠しているような気がする。そうは思っても、わたしの事情を明かすこともできないし、どうしたものか。

 そうひとりでもやもやを抱えていると、「あれえ、図書委員の子、だよね?」と間延びした声をかけられ、わたしは怪訝な顔で声のほうに振り返った。

 身長はモデルさんみたいで、沙羅ちゃんよりも10cmは高い。同じ制服を着ているけれど、はっきりいってあちらのほうがスタイルがいいということは嫌でもわかる。

 髪はすすけた茶色に染まっているし、前髪で見え隠れする耳にはピアス穴が開いているのが見える。派手な外見の子とは、はっきりいってあまり縁がないため、こうやって声をかけられてもどう返事をすればいいのかわからず、わたしは挙動不審になって視線をうろちょろとさまよわせる。


「ああ、ごめんごめん。別に脅したいとかたかりたいとかじゃないからさあ。あんまり怖がんないでよ」

「ええっと……はい」

「あー、タメなんだから敬語なんて使わなくっていいよ。あたし、塩田桃子しおたももこ。B組。おたくはA組の図書委員でしょ?」

「え? あ、はい……A組の間宮泉……です」

「だからあ、敬語なんていいって」


 格好は派手だし、口調は結構癖があるけれど、そこまで悪い人じゃないらしいと、どこかほっとする。

 でも、図書委員って知ってるのはなんでだろう。もし図書館を使ってるなら、わたしも週に二回は当番でカウンターにいるんだから、わかると思うんだけれど。貸出申請だってしてるから、名前を見たことだってあると思うけれど、塩田さんって苗字の同学年の女の子から貸出申請を受けた覚えはない。

 わたしが思わず怪訝な顔をしてしまったのがわかったのか、塩田さんは「あはは」と笑う。


「警戒なんてしなくっていいってば。ねえ」


 そう言って塩田さんは眉を下げる。そして彼女は「ええっと……」「うーんと……」とどもり出す。そしてええいままよとでも思ったのか、いきなり90度に背中を折り曲げて、こちらに頭を下げてきたのだ。

 わたしはさすがにぎょっとして目を見開く。


「ごめん! いきなり謝られたら迷惑かもしれないけど! でも絶対に夏休み入る前には謝らないとって思ってたから!」

「ええ……?」


 ますますもってわからない。

 初対面のはずの塩田さんに、いきなり謝られてしまう理由が。派手な見た目に反して、意外と律儀な塩田さんの態度に、わたしは目を白黒とさせて、おろおろとする。


「あ、あの……顔を上げて! 本当に、わからないから……!」


 あわあわと塩田さんに手を振る。いきなり謝られても困ってしまうし、こんな綺麗な人に謝られるようなことをされた覚えもない。

 ただ、直感はしていた。

 彼女は、明らかにわたしが失っている記憶に関わっている。


「あ、あの……塩田……さん?」

「ん?」

「えっとね、顔を上げて。それと、ちょっとだけ話、いいかな。ここだったら目立つかもしれないから、もうちょっと座れそうな場所で」

「うん……」


 ようやく顔を上げてくれた塩田さんと、わたしはテクテクと歩いていく。

 公園で座っているのも、今日みたいな中途半端な暑い日だと参ってしまうし、繁華街はちょっと遠いからハンバーガー屋でしゃべるっていうのもなしだ。

 結局着いた先はコンビニで、コンビニのカフェメニューを適当にコーヒーを頼んでから、イートインコーナーに入ることとなった。

 そこの先に入っていた男子中学生がちらちらとこちらを見てくるのが痛い。片やばっちり化粧をしていて綺麗な女子と、片や地味で日焼け止め以外なにもしていない平凡顔の女子だったら、顔面偏差値が違い過ぎる。

 わたしはコーヒーにミルクを入れて混ぜながら、口を開いた。


「あの……塩田さん。変なこと聞くけれど、いいかな?」

「あたしでいいんだったら」


 塩田さんは注文したココアをすすりながら、カウンターに頬杖をついた。それにギクシャクしつつ、近くでスマホゲームに夢中になっている中学生を尻目に、わたしは口を開いた。


「わたしが、五月の終わりくらいに事故に遭ったんだけれど」

「うん……」


 それに塩田さんが顔を曇らせるのを見て、確信した。

 やっぱり彼女は、あの事故のことを知ってる。というより、多分近くにいたんだ。

 覚えていなくっても、本当に全然問題はないんだ。ただ不可思議なことが色々あって、それが何でとかどうしてって思うだけで、わたし自身なんにも問題がない。

 でも……何故か変に気を遣われているような気がするから、それを煩わしく思うことがある。事故に遭ったのに、誰もかれもがそのことについては口を閉ざしているんだから。

 お母さんは、事故の前後のことは知らないんだと思う。でも、なにかを知っているみたいな沙羅ちゃん。なにかを黙っている絵美ちゃん。そして……。

 見えないはずのレンくん。何故か機械にだけは映っている、触れないし見えないし、黙られてしまったらどこにいるのかもわからない男の子。

 これは全部、わたしが遭った事故に繋がっているような気がしたんだ。

 ……ただ謝りに来てくれた塩田さんに、それを蒸し返してしまうのは酷なことかもしれないけれど。それでもわたしは知りたかった。

 わたしが忘れてしまったことって、いったいなんだったのかを。


「わたし、あのときの前後のこと、全く覚えていないの」

「……ええ?」


 それにさすがに、塩田さんは目を見開いて、口を付けていたストローをぽろっと唇から外した。

 わたしはコーヒーボトルで両手をくっ付けながら、頷く。


「事故自体は、そこまでひどかったんじゃないと思う。わたしも丸一日寝てただけだし、病院には定期的に通っているけど、後遺症もないみたいだから。でもひと月経った今でも、あのときになにがあったのか思い出せないんだ。なにがあったのか。塩田さん、もし知っているんだったら教えて。わたし、あのときになにがあったの?」


 隠さないで欲しい。ちゃんと教えて欲しい。塩田さんはわたしのことを知っていても、わたしにとっては初対面。我ながら初対面の人に残酷なことを言っていると思うけれど。

 謝りに来たはずの塩田さんに、なんてこと言っているんだと思うけれど。

 皆が隠していることがなんなのか、わたしは教えて欲しかった。

 塩田さんはしばらく無表情でこちらを見ていた。

 ときどきスマホゲームの電子音混じりなBGMが流れ、中学生がオーバーリアクションしているのが目に入る。

 やがて、塩田さんはひとつ「ふう」と息を吐き出した。


「そうだよね。当事者がなんにも知らないんじゃ、あたしが謝っても、仕方ないもんね」


 そう言って塩田さんが口を開いた。

 ようやく、あのときになにがあったのかわかると思ったとき。塩田さんが目を丸くした。

 え? わたしが思っている間に、ガッタンとわたしは立ち上がっていた。誰かに引っ張られている。そう気付いたときにはもう遅く、わたしは鞄ごとズルズルと引きずられていた。


「ちょっと……なに!?」

「間宮、やめとけ」

「レ、レンくん!?」


 こちらのほうを、塩田さんだけでなく中学生たちまでびっくりして見ている。

 今まで。レンくんがこんな態度を取ることなんてなかった。今までは、わたしが気付かなかったらそのままだったし、気付いたときにはいろいろしゃべってくれていた。でも。

 人前でこんなに大事を起こしたことなんてなかった。

 見えないのに。声が聞こえないといるのかどうかもわからないのに。なんでこんなことをするのかわからなかった。

 わたしが力を抜いた途端に、そのままレンくんに鞄ごと引きずられていく。

 そして、レンくんの信じられない言葉を耳にした。


「……悪い、塩田。ちょっとこいつ借りる」


 塩田さんに対して、そう言ったのだ。

 彼女は力なく顔を緩めると、こちらに対して緩く手を振った。

 え、ちょっと待って。これってなに? なんなの?

 わたしはツッコミを入れる暇もなく、店員さんの「ありがとうございますー」の声を背に、コンビニから出てしまった。


****


 レンくんの触れない手がようやくわたしを離してくれたのは、前に散歩の待ち合わせをしていた矢下公園だった。

 テスト期間中だから、当然ながら運動部はどこもここのグランドを借りてスポーツなんてしていない。遊具のほうに母子連れの集団が集まって一緒に遊んでいるのが目に入る程度だ。

 わたしはようやく自由になったのに、どこにいるのかもわからないレンくんに向かってがなってしまう。


「なにするの!? せっかく……聞けるところだったのに!!」


 対してレンくんの声は、いつもよりも硬く険しい。


「……間宮、あの事故のこと聞く気だったのか?」

「そうだよ! なんか皆が隠してるってわかるもの……気を遣ってくれるのは嬉しいけれど……臭いものに蓋をされているというか、腫れ物に触れられるというか……そういう扱いされると、こっちだって気になるもの」


 わたしが吐き出した言葉を、いったいレンくんはどんな表情で、どんな態度で聞いていたのかはわからない。

 ただ、黙られてしまったら、どこにいるのかがわたしにはわからなかった。

 お願いだから、ちゃんと教えて。

 どこにいるのか、教えて。

 あなたは、ちゃんといるんだよね?

 自分でも訳がわからなくなって、最後にはとうとう目尻に涙が溜まりはじめていた。


「おい、間宮。泣くところあったか?」


 しばらくの沈黙のあと、ようやく、レンくんの言葉が耳に入ったことにほっとする。

 胸はグジグジと痛んでいるのに、現金なものだ。


「わかんない……。どうして涙が出るのか……なんでこんなに訳がわかんないのか、もう全然わかんない……」

「泣くなよ」

「だってわたしは、あなたが黙っちゃったらどこにいるのか全然わからないんだもの。ねえ、レンくんはいるんだよね? 本当に、いるんだよね?」


 レンくんのその言葉を聞いてほっとしているわたしは、きっとずるい。

 彼の優しさに付け込んでいるんだから、本当にどうしようもない話だ。

 でも。わたしは彼に黙られてしまったら、もうどこに彼がいるのかわからないんだ。だからわたしを慰める言葉でもいい、罵倒でもいい、ちゃんと「いる」って安心させてほしかった。


「どうして、誰も教えてくれないの? レンくんは、知ってるの?」


 その言葉に、レンくんは答えてくれなかった。替わりに「ごめんな」のひと言が耳に入ってきた。

 違うのに。わたしが聞きたいことは、それじゃないのに。

 どうしてここまで胸が痛いのか、わたしは本当にわからなかった。

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