【第179話】笑うなっ
仕事に向かう人の慌ただしい波と喧騒も収まり、街が暖かな日差しに落ち着きを取り戻す頃。
無造作にネクタイを緩めたグレー系のスーツに身を包み、黒の中折れ帽を目深に被ったノワールは、オープンカフェの席で、道行く人々に興味も見せず、椅子の背もたれに身体を預け紅茶のカップを口に運んだ。
「聞いたかい、
ノワールの向かいの席で、エカルラートが白い丸テーブルに頬杖をつく。
「ああ、直接見た……マリータとジール、だったか? 裸にされて、腹と背中に名前を書かれて、しかも正気をなくしていた……まったく、派手な見世物だったな」
ノワールはカップを置き、呆れたように肩を竦めた。
「あの二人は、魔神教団でもトップクラスの間諜
「
「深藍の執行者、だよ」
エカルラートの答えに、ノワールの目が鋭く光る。
「ヤツは……深藍の執行者はあの二人に何をしたんだ?」
エカルラートはノワールの問いに首を振った。
「さあね、見当もつかないよ。厳しい訓練に残った生え抜きの二人を、ああも簡単に壊しちまうなんてさ……しかもそのまま官憲に連れていかれたしね、調べる方法もない。ま、お手上げだね」
派手な騒ぎになったせいで、教団は二人を回収する事も、処分する事もできなかった。
「それも狙いのうち、か……戦闘だけでなく、強かなヤツだな」
「ホントにねえ、面倒なヤツに関わっちまったもんさ」
エカルラートは掌を見せて肩を竦めた。
「ヤツの監視は続けるのか?」
「どうかな、手を引くんじゃないかねぇ、聞いた話じゃ、レグノスでも二人消されてるらしいしさ」
暗殺者二人は、シリューが直接手を下した訳ではないが、教団からすればたいした違いはないだろう。
「殺したのか?
「いや、死体は燃えてたっていうから、おそらくは秘密を守る為に自害したんだろうさ」
ノワールは納得したように頷いた。
「オルタンシアも、立場は微妙だろうねぇ」
「随分と楽しそうだな」
「ああ楽しいさ、あいつは好きになれないからね」
ふふんっと笑ったエカルラートの声には、嗜虐的な響きが含まれていた。
「で、あんたはどうすんだい?
エカルラートの赤い瞳が、危なげな期待の光を映す。
だが、ノワールはあっさりとその期待を裏切る。
「……興味はないな、依頼を受ければ別だが」
「じゃあ、依頼があれば?」
ノワールは椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。
「その時は、ケリをつける。俺が死ぬか、ヤツが死ぬか、二つに一つだ」
同じ頃、オルタンシアの自室では、エカルラートが期待交じりに予想していた事態が進んでいた。
「それで、オンブルさんはなんと?」
オルタンシアは薄いブルーのジャケットを羽織りながら、ドアの前に立ったまま報告をする女性執事へ、背中越しに声をかけた。
「これ以上、資産の貸し出しはできない、と……」
自分が決めた事ではないにも関わらず、女性執事は申し訳なさそうに答える。
「やれやれ……あの人、なかなかできた人物なんですが、少々気が短いのが玉に瑕ですねぇ」
女性執事は眉をひそめた。いつもの事だが、オルタンシアからは全くと言っていいほど危機感が伝わってこない。
「オルタンシア様。このままでは、オルタンシア様のお立場が危うくなりかねません。成果を急がれたほうが……」
オルタンシアは振り向いてにこりと笑った。
「心配には及びません。
魔神教団内での、自身の進退が掛かっている危うい時であるというのに、オルタンシアには焦る様子もなく、逆に不測の事態や強力な敵の介入を楽しんでいるように見える。
「では、私は仕事に向かいますので。帰りはいつもの時間です」
執事がさっとドアを開け、オルタンシアは表の仕事に向かうため部屋を後にした。
「なるほど、オルタンシアか……。しかし、王都に着いて早々、間諜を捕らえて情報を引き出すとは……いやはや流石は深藍の執行者、といったところじゃのう」
冒険者ギルドの執務室で、シリューとミリアムを掛けさせたソファーの向かいで、エリアスはその報告に感嘆の声を漏らした。
「でも、結局名前しか分からなかったし、魔神教団の本拠地がどこにあるのか、肝心な情報は全く掴めてませんから……とんだ時間の無駄でしたよ」
「いやいや謙遜するでない、名前が分かっただけでも上出来じゃ。それに、訓練所の情報が得られたのは大きいのじゃ。滅んだとはいえ、レキトスの生き残りは少なくないからの。後はこちらに任せてくれ」
肩を竦めたシリューに、エリアスは満面の笑みで答えた。
今まで何の手掛かりもなく、雲を掴むような話だった魔神教団の実態に、漸く指先が触れたのだ。
「この件は、依頼とは別に報酬を出そう。それから、これもじゃ」
エリアスはテーブルの上に、二つの小さな木箱を置いた。
「何です?」
「昨日話した、変装用の魔法具じゃよ。二人とも髪は金、目の色はシリューが青、嬢ちゃんがブラウンじゃ」
「あ、髪と瞳の色を変えるやつですねっ」
ミリアムは嬉しそうに声を弾ませ、箱を手に取り蓋を開けて中のペンダントを取り出した。
「金色の髪って、憧れだったんですっ。私、変な髪色だから……」
この世界でも、ミリアムほどの鮮やかなピンクの髪は珍しい。
「小さい頃よく揶揄われちゃって、ちょっとコンプレックスだったんですよねぇ」
「え? いや変じゃないだろ、めっちゃ綺麗なピンクなのに。それにさらさらだし、俺は好きだけどなあ。それ、揶揄うやつがおかしいわ」
「みゅっ」
シリューに他意はなく、全くの通常運転だった。ただし、あまりにも自然なその言葉は、ミリアムの胸を大きく弾ませるのに十分すぎる威力を持っていた。
「あれ? どうした?」
シリューは、真っ赤に頬を染めて俯くミリアムの顔を覗き込む。
「な、何でもありませんっ。ってか、シリューさん、お先にどうぞっ」
にやけてしまいそうになるのをミリアムは必死で堪え、顔を背けて口元を両手の平で覆った。
「そっか、まあいいけど……」
シリューはペンダントトップを目の前にかざし、角度を変えながら眺めた後で首に掛けた。
一瞬、ペンダントが光を放ち、みるみるうちにシリューの髪が金色に染まってゆく。
「わあっ、凄い、ホントに変わった」
「どうだ?」
シリューは、隣で喜ぶミリアムに顔を向けた。
「し、シリュー……さん……」
少しだけ、キメ顔をしてみたつもりだったが、ミリアムの反応がおかしい。ぷるぷると肩が震えているように見える。
「ぷはっっ」
ミリアムは我慢しきれなくなって、思いっきり吹き出した。
「どおっ、て……ぷっ、し、シリュー、さんっ、ヤバいっ、それヤバいですっ、ぷくくくくっ、シリューさん、似合わな過ぎっ、やだ、もうそれどんなギャグですかっ、くくくく……や、く、苦し……」
ミリアムはお腹を抱えて、遠慮する事なく大笑いする。
「お前……ふざけんなこのヤロー……」
似合わないだろうとは思っていたが、まさかここまで大笑いされるとは考えもしなかった。
「んくくくく、や、ごめんなさ、いっ、くっくっ……待って、見慣れれば、きっと……」
ミリアムは、気を取り直して、もう一度シリューの顔をまじまじと見つめた。
そして……。
「ぶふっっ、だ、ダメっ、くっくっくく、や、やんっ、むり、むりっ……し、死んじゃうぅ」
「ヒスイ、このポンコツに、精神浸食掛けて」
シリューは半開きのジトっとした目で、ミリアムを指差した。
「ご主人様っ、そんな事したら、ミリちゃんが壊れてしまうの、ですっっ」
ヒスイが本気で焦っているのは、シリューの声が途轍もなく冷静だったからだ。
「いやあ、もう壊れてるから、逆にマトモになるんじゃね?」
「や、シリュー、さんっ、それは、ひどいっ、ですっ」
「酷くない、お前は一度完全に壊してから再構築したほうが世の中のためだ、いや、もういっその事森の奥にでも捨ててくるか」
シリューは片方の口角を上げて笑ったが、その目が笑っていない事にミリアムは気付いた。
「ごめんなさい、ホントにごめんなさい、笑いすぎました、反省してます……」
二人の、いや三人のやり取りを、エリアスは目を丸くして見入っていた。
「ううむ、それ程かのう……まあ、嬢ちゃんは付き合いが長いから、違和感も大きいのかのぅ?」
似合っているかいないかでいえば、似合ってはいない気がする。
そこはエリアスも認めるところだが、初対面なら気にはならないだろう。
「ご主人様は、かっこいいの、です!」
ほぼほぼ全肯定のヒスイを当てにはできないが、エリアスの言う通り初対面で違和感がなければ、変装としては合格点だろう。
「じゃあ、次はお前がやってみろよ」
同じように大笑いしてやろう、とシリューは企んでいた。
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