【第163話】違うからっ!

「……なんだ……これ?」


 カーテンの隙間から零れる薄い光と、小鳥の囀りに目を覚ましたシリューは、自分のおかれている状況に息をのんだ。


 昨夜、いや正確には今日だが、ハーティアが部屋を出て行ったあと、入れ替わるようにミリアムがやってきた。


 シリューは焦る気持ちを抑え、できるだけ冷静にその時の様子を思い返してみる。


「シリューさん、入りますね」


 こんこん、とノックした後、ミリアムは少しだけ乱れた髪でドアを開け、ベッドの脇に立った。


「ミリアム……寝てて良かったのに」


「だって……あの、迷惑でしたか……?」


 ミリアムは俯いて遠慮がちに尋ねた。


「お前みたいな美人に心配してもらえて、迷惑だとか、あり得ないよ」


「みゅっ!?」


 思いもしない言葉に心臓を射抜かれたような衝撃を受け、ミリアムは顔を真っ赤に染めわたわたと腕を振る。


「ど、どうしちゃったんですかっ、ね、熱でもあるんじゃ!? 毒キノコでも食べました? だ、大丈夫ですかっ、ってかホントにシリューさんですか!?」


「いや、酷い言われよう……」


 そこまで口にして、シリューははっと我に返る。何か、とてつもなく自分らしくない事を言った気がする。ほとんど無意識のうちに。


「あ、あの、いや、あのこれはっそう……白の装備の、影響ってか、後遺症?」


「で、ですよねっ、シリューさんがそんな事、思ってるはずないですよねっ」


 あはは、と笑ってごまかすミリアムだったが、その表情にはどこか諦めにも似た色が浮かんでいた。


「いや、そんな事はないけど」


「え?」


「ちゃんと、ありがたいと思ってるし、お前の顔見られてなんかほっとしたし……それにまあ、わざわざ来てくれて、正直嬉しい」


 白の装備の影響が未だに残っているせいだろうか、それともハーティアとの気を張ったやり取りの反動だろうか。普段は顔を見せない本音が漏れてくるようで、シリューはそんな自分の心に少しだけ焦りを感じた。もちろん、心臓の鼓動が弾んでいるのはそれだけではないが。


「あああ、あの、それでっ、な、何の話でしたっけ!?」


「いや、一歩も話は進んでないと思うけど……」


「そ、そですね……」


 ミリアムは恥ずかしそうに顔を背け、ぽふんっと椅子に座る。二つのメロンがそれに合わせて大きく揺れたのを、シリューはしっかりと目に焼き付けた。


 それから二人は、顔を見合わせてくすくすと笑った。


「倒れているのを見つけた時……心臓が止まるかと思っちゃいました」


 しばらく笑った後で、ミリアムは急に真剣な表情を浮かべて俯いた。


「うん、ごめん」


「また、傷跡が痛んだんですか?」


「えっと、ごめん」


「一人で苦しんで……前みたいに、倒れちゃったんですか?」


「……ごめん……」


 以前気を失った時とは少し状況が違ったが、ぽつりぽつりと諭すようなミリアムの言葉に、シリューは何故か謝る事しかできなかった。


「謝らないで……謝らないでシリューさん。でないと、私もシリューさんの傍にいてあげられなかった事、謝っちゃいます……」


 ふっとシリューが見上げたミリアムの瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が溢れていた。


「なんて、私、重いですか?」


 目を擦りながらミリアムが囁く。


「ぜんぜん、そんな事ないと思う。うん、お前らしくて、いいよ」


「ホント?」


 ミリアムは潤んだ瞳でシリューを見つめた。


「うん、ほん、と……」


 その直後、強烈な睡魔に襲われたシリューは、話の途中にも関わらず寝落ちしてしまった。いや、気を失ったのかもしれない。だから記憶があるのはそこまでで、それ以降の事は一切覚えていない。


 覚えていない。


「……なんだ、これ……?」


 シリューは同じ言葉を繰り返した。


 だが、いくら考えてもわからない。


 首筋をくすぐる、小さな寝息。


 ぴったりと身を寄せる体温と、右腕に感じる柔らかな双丘。


「み、ミリア、ム……?」


 目覚めたシリューの視界に、いきなり飛び込んできたミリアムの寝顔。


 何故ミリアムが同じベッドに寝ているのか。いや、それはこの際大した問題ではない。重要なのは、何故ミリアムが服を着ていないのか、だ。


「い、いや待て、とにかく落ち着けっ。俺は服着てるし、何にもなかったはずだっ、なかったはずだ……なんにも」


 実際、上着は壁のハンガーに掛けられていたし、服装は昨日のままだ。


「ん……あ、シリューさん……」


「うわぁ、は、はいっ」


 目覚めたミリアムの掠れた低めの声に、シリューはどきりとして妙に高い声をあげてしまう。


「どうしたんですか?」


「どうって、お、お前……それは、その」


 聞いていいものだろうか、シリューは迷った。もし、何かの弾みで一線を超えて一戦交えていたなら、それを覚えていないなど男として最低だし、何よりミリアムを傷つけてしまう。そう思えるくらいには、冷静さを取り戻しつつあった。


「あ、あの、昨夜はっ、その、何というか」


「昨夜……?」


 とろんとした寝ぼけ眼のミリアムの顔が、一瞬硬直した。


「はあぁっ!」


「うおっ」


 いきなり何かに気付いたミリアムは、大声をあげて半身を起こし、シーツにくるまる。


「あああ、あの、ここっここれはっちがくて、いいいいいえあの、そそそういう事じゃなく、っていうか、えっと、あのっ」


「い、いや待てミリアムっ、とにかく落ち着けっ」


 耐えがたいくらいの気まずい空気の中、シリューは静かに身体を起こしミリアムの白い背中から目を逸らす。


 暫くの沈黙の後、真っ赤な顔で振り向いたミリアムが、涙目でぽつりと呟く。


「違いますよ?」


「うん……それは、うん……で、なんで、裸なんだ?」


「パンツは履いてるもん……」


 今、問題はそこじゃない、とはシリューには言えなかった。


「あの、一応、聞いてもいい?」


 すまなそうにシリューが問いかける。


「は、はい……昨夜、あの後……」


 ミリアムは一つ一つ言葉を選びながら、ゆっくりとシリューに語った。


 あの後、突然寝落ちしたシリューに、ミリアムはざわざわとする違和感を覚えたらしい。


「気になって、おでこに手を当てたら、すごく冷たくって。それで、温めなきゃって思って」


 それでもこの初夏の季節、毛布もシーツも薄手のものしか用意されていない。部屋の隅の暖炉にも薪は準備されていない。そこでミリアムが思いついたのは、神学校で教わった最も基礎的なやり方だった。


「えっと、つまり、俺を温めてくれるために?」


「だって、もうそれしか思い浮かばなくて……このまま、シリューさん、死んじゃうんじゃないかって思って……」


 ミリアムのその言葉に、シリューは自分の心が一気に洗い流されるような気分になる。


 いつもの事だ。


 いつだってミリアムは、他人の為に決断し、躊躇なくそれをやってのける。そこに一切の個人的な感情はなく、命の危険も時には恥じらいも、なんの重石にもならない。


「シリューさんだけですよ……」


「え?」


「こんな事するの……シリューさんに、だけだから……」


 ミリアムはシーツを持った手で口元を押さえ、途切れ途切れに掠れる声で囁いた。


「ミリアム」


「……はい」


「ありがとう、でも、あんまり無茶しないでくれ……」


 それは、今まで聞いたシリューの言葉の中で、一番にやさしく、一番に温かさでミリアムの心に響いた。


「はい……あのっシリューさんっ」


 ミリアムは思いつめたようにシリューを振り返る。


 首元で押さえたシーツがゆっくりと落ちて、ミリアムの腰に纏わり風を孕んだ音をたてる。しなやかに躰を捻り、両手をベッドについたミリアムの瞳が、朝の光を映してきらきらと滲む。


 薄く開かれた唇は赤く潤い、熱をおびた頬が桜色に染まる。


「ミリアム……」


 もうこのまま流されても構わない。シリューがそっとミリアムの肩に手を伸ばした時。


「ご主人様、おはようなの、で……す……?」


 ハーティアの部屋で寝ていたヒスイが、ドアをすり抜け元気一杯に姿を現した。


「ひ、す……い」


「……ちゃ、ん……」


 彫像のように固まった二人を、ヒスイは何度も交互に見比べ、やがて納得したようにこくんっと頷く。


 それからヒスイは、シリューに向けてにっこり笑い、片目を閉じまっすぐに伸ばした手でサムズアップした。


「あ、いや……ヒスイ、違うからね」


ヒスイは首を傾け頬に指をあてて暫く考えたあと、おもむろにぴんっと顔を上げる。


「もしかして、これからだったの、です!?」


「いや、そうじゃ、ないからっ」


「はわわわわ……」


 違う、と完全には否定できないシリューとミリアムだった。

 



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