【第162話】目覚め

「ヒスイちゃんっ、どういうこと? あれから一度も帰ってきてないの!?」


「そう、なの。白の装備で窓から出て行ったっきり、ずっと帰ってこないの」


 両手を胸の前で組んだヒスイは、瞳を潤ませて縋るように、ミリアムの目の前で羽ばたく。


 ミリアムの胸に一抹の不安が過る。


「まさか、本当に一人で……?」


 ハーティアが怪訝な表情を浮かべるが、ミリアムは首を振ってその言葉を否定する。


「いえ、私はともかく、ヒスイちゃんを残していくとは思えません」


 それはもちろん、ミリアムの本音ではなかったが、自分の事を口にできるほどの自信もなかった。


 ミリアムは宵の明星の輝く西空を見つめた。


「シリューさん……きっと無理してたんです」


 誰とはなしに囁いた、ミリアムの瞳に映る星の光が滲んで揺れる。


「たぶん、シリューさんを刺したのは……あの王女様です」


「え? でも……」


 ハーティアは目を見開いてミリアムを見つめた。


 表情こそ仮面に隠れていたものの、あの時シリューはパティーユに向かってごく普通に接していたように見えたのだ。


「普通、自分を殺そうとした女を、ああも当たり前に助ける事が、できるの、かしら……」


「当たり前ではなかったのかも。平気なように見えて、本当は心の奥で複雑な思いがあったのかも……シリューさん自身が、気づかないくらいに……」


 普通ではない特別な関係。シリューとパティーユの間には、おそらくなんらかの特別な繋がりがあったのだろう。


「ああ見えて、意外と繊細なんです……」


 ミリアムはそっと瞳を閉じて、二人で調査に出かけた森での出来事を思い浮かべる。


 あの時、シリューは突然胸を押さえ、苦痛に顔を歪めながら気を失ってしまった。


“ ちがう……嫌だ……俺は…… ”


 苦しみに呻くシリューの言葉には、死への恐怖とは別の、何かを激しく拒否する響きがあったようにミリアムには思えた。


 それはきっと傷や心の痛みだけではなく、シリューの存在自体に関わる何か。


 だからシリューは、取り返しのつかない迷惑をかける、と言ったのだろう。


「ミリちゃん、ご主人様……もしかして苦しんでるかも、なの」


 ミリアムの表情で察したのか、ヒスイも心配そうにか細い声を零す。


「とにかく、探しに行きます!」


 目を開き、ミリアムはぐっと右の拳を握りしめた。


「何処へ?」


「西です!」


 ハーティアの疑問に、ミリアムはきっぱりと答える。


 シリューは西日に重なるように飛んでいった。だから西の、そう遠くない所にいる筈だ。


「待ちなさいっ、私もいくわ」


 ハーティアは、今にも走り出しそうなミリアムの手を取った。


「え、でも……」


「私も、今は一応仲間よ。それに、恩を返さないうちに死なれては困るわ」


「恩、ですか……」


 ミリアムの眉がぴくんと動く。


 シリューから受けた恩なら、自分にだって返しきれないくらいある、とミリアムは思う。


「それにもう一つ」


「はい?」


 ハーティアは、ミリアムが目指そうとしていた方向に、すっと指を向けた。


「其方は南、西は此方よ」


 ちなみに、宵の明星は知っていても、その星が西の空に見えるという事実を、ミリアムは知らなかった。






” 出せ……此処から出せ ”


 音もない。


 色もない。


 真っ黒に塗りつぶされた空間。いや、空間であるのかもわからない。


 それは無。


 若しくは死。


 意識だけが揺蕩うその場所で、彼の者は見失う事なく、気の遠くなるほどの時の中、個を保ち続けていた。


 彼の者を彼の者たらしめるのは、命あった時より抱き続ける、怒りと憎しみと悲しみと絶望。


 そして、彼の者を此処へ追いやった者たちに対する、復讐への渇望。


” 出せ……此処から……此処から出せえぇぇぇ……”


 足りない。殺し足りない。


 彼の者が望むのはすべての命の抹殺。


” 人を、エルフを、獣人を、神龍を、勇者を!! ”


 そのすべてに、自らが絶望と死を与える。最後の一人が恐怖の中で息絶えるまで、世界を焼き尽くし地獄へと変える。


” 許さない…… ”


 彼の者の意識は、永遠の時の中、耐えがたい苦痛に喘ぐ。


” 光の世界を、のうのうと生きるお前をおおおお ”


 肉体は潰えて久しく、意識だけの存在であるにもかかわらず、彼の者は苦しみ続ける。


” 許さないぞおおおおお……美亜ああああ!!! ”


 彼の者は魔神、そして人であった時の名を、明日見僚といった。






 部屋の中をゆらゆらと照らしながら、壁に掛けられたオイルランプの明かりが踊る。


 もうすでに日付の変わる時間だったが、窓の外からは、未だ酒を酌み交わす者たちの陽気な声が聞こえてくる。


 何か、胸を押さえつけられるような、もしくは抉られるような、長く暗い夢に漂っていた気がするが、目覚めた途端にそれがどんな夢だったのか、すでに思い出せなくなっていた。


 ほの暗い明かりに薄く目を開いたシリューは、視界の端で自分を見下ろしている人影を感じた。


「……み……あ……?」


 ランプの明かりを背にしたシルエットが、美亜の面影に重なった気がして、シリューは思わずその名前を口にした。


「あら、ようやくお目覚め?」


「え?」


 一瞬誰なのか分からなかったシリューだが、徐々に意識が覚醒してくるにつれ、その声の主が勿論美亜でも、そしてミリアムでもない事を認識した。


「ハー……ティア……?」


「ええ。残念だったわね、ミリアムさんではなくて。彼女は私の部屋で寝ているわ」


 シリューは視線をあちらこちらに泳がせる。ここが宿の部屋だというのはすぐに分かったが、状況がよく飲み込めない。


” たしか、街へ戻ろうとして、そのまま倒れこんで…… ”


 その後の記憶がない。何故ベッドに寝ているのか、なぜハーティアがここにいるのか。


「まるで迷子のようね?」


 部屋中を訝し気に見渡したシリューを、ハーティアはそう揶揄した。


「迷子……そう、かもな……」


 激しく否定してくるか、悪態をついて反撃してくると思っていたハーティアは、シリューの意外な言葉に目を見開く。


「俺は、何処に行くのか、何になるのか……わからない……」


「そう……」


 ハーティアはごく自然に答えていた。


 シリューの瞳に、たとえようもない悲しみの色が浮かんでいるように見えたのだ。


「人は……自分の望むものになれるというわ。貴方もきっと……」


 それは、シリューに語り掛けると同時に、ハーティア自身の心に言い聞かせる言葉だったのかもしれない。


 だが何故いきなりそんな気持ちになったのか、ハーティアにもよく分からなかった。


「貴方の事は嫌いよ」


「好き嫌いをはっきりするヤツは好きだ」


「馬鹿なの? シリュー・アスカ」


「そうかもな、猫耳オレンジ」


 二人は顔を見合わせるが、表情には言葉ほどの険はない。


 自分を殺そうとした相手を命懸けで助けたり、誰もいない荒地に取り残されたように倒れていたり、納得のいく理由は見つからないが、ハーティアは口に出して聞く事はなかった。


「何も聞かないのか……」


「それほど、親しいわけではないでしょう?」


「ああ、仲悪いよな、俺たち」


「そうよ……最悪ね」


 ハーティアは一度大きな溜息を零し、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


「ミリアムさんを起こしてくるわ。約束していたから」


 ミリアムはこの部屋までシリューを運んだあと、魔力切れを起こしかけていた。


 シリューが目覚めるまでは、とミリアムは頑なに言い張ったが、なんとかハーティアの説得に応じて一旦眠りについた。


” 目を覚ましたら起こしてあげるから、その時は貴方が相手をしてあげなさい。そのほうがシリュー・アスカだって喜ぶでしょう? ”


 その一言が決定打になった。


「なあハーティア」


 ドアノブに手を掛けたハーティアを、シリューが呼び止める。


「なに?」


「お前、意外と優しいんだな」


 振り向いたハーティアは、ほんの一瞬だけその瞳に困惑の色を浮かべ、すぐにもとの無表情に戻る。


「……意外は、余計よ」


 彼女はぽつりと零し部屋を後にした。


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