第10話

 ヒヅルは先に逃げた仲間たちと合流するため、まずは所長室へと向かった。

 オリンピックの短距離選手スプリンターすらも凌駕するヒヅルの圧倒的な走力には、ヘリオスの猛者ですらついてこれなかった。とはいえ、稼いだ時間はせいぜい数十秒。

 耳に仕込まれたアルマ謹製の小型無線機からは、何の連絡もない。

 陽は、無事にアルマと逃げられただろうか。

 星二や明子、それにまだ赤子であるヒデルは、生きているだろうか。

 みんな無事に、白金財団に送り届けられただろうか。

 この期に及んで暁人あきひとが協力を惜しむとは考えにくい。

 だが、ヒヅルの期待は悉く裏切られることとなった。

「う」

 眼の前に広がった惨状を見て、ヒヅルは短く声をらした。

 まだ十歳前後の、第三世代の子供たちの、〈山〉。

 全身をライフル弾でずたずたに引き裂かれ、原型を留めぬほどに〈分離〉された、その血塗れの肉塊の、〈山〉。

 まるで畜生の如く処分されてしまった、家族たちの成れの果て。

 それは彼らを本当の弟、妹のように可愛がってきたヒヅルにとって、悪夢そのものであった。

「みんな」

 思わず泣き崩れそうになったヒヅルは、しかしまだ戦いは終わってない、と、内心で己を叱咤しったし、正気を保った。

 私がしっかりしなければ、それこそ皆殺しにされてしまう。

 まだどこかで助けを必要としている者たちが、いるかもしれない。

 ふと、子供たちの血の池の先に、刷毛で殴り書きしたような跡が続いていることに、ヒヅルは気づいた。

 それは所長室の扉まで、続いていた。

 ヒヅルは乱暴に扉を蹴破り、左手に持ったベレッタを、構えた。

 中ではヘリオスの兵士がふたり、それと黒いスーツに身を包んだ長身の男が、仲良く地面に川の字になって倒れていた。心臓を正確に撃ち抜かれ、すでに生命活動を停止している。

 スーツの男には、見憶えがあった。たしかヘリオス日本支部にいた幹部で、名を細川護彦ほそかわもりひこといい、表の世界では政権与党愛国党の重鎮として次期総理とも言われていたほどの男だ。そんな男が、なぜここに……いや、そんなことは今はどうでもいい。

 所長室の奥には、この研究施設全体をコントロールする操作板が設置された制御室が隣接している。

 這ったような血の跡は、そこへ続いていた。

 恐る恐る、先ほどとはうってかわって、ヒヅルは慎重に扉を開けた。

「暁人」ヒヅルは小さな声で呼びかけた。

「ヒヅルか」

 血でまだら状に染まった白衣姿の人工全能研究所長、白金暁人が、操作盤の上にもたれかかっていた。その操作盤の上の四十インチほどある大きさの液晶ディスプレイには、これまた血のように赤いデジタル数字が何かのカウントダウンを、始めていた。残り五分十一秒。

「まだいたのか。早く出ろ。あと五分もすれば爆発する」

 銃弾に腹を貫かれてしまったのか、暁人の足元には赤黒い血肉が撒き散らされていた。

 じきに高神たち敵の部隊がここへやってくる。彼を背負って走れば、間違いなく追いつかれ、共倒れとなるだろう。見捨てていくしか――

「陽とアルマ、それと星二と明子、ヒデルは、ここに来ましたか」

 ヒヅルは冷淡な口調で、暁人に訊ねた。彼女がまだ死体を確認していないのは、この五人のみであった。

 暁人は咳こんで大きな血塊を吐き出しながらも、はっきりとした口調でこう返事をした。

「私が会ったのは、扉の前で息絶えてしまった彼らだけだよ。財団の職員に迎えに来させようと思ったが、間に合わなかった。まもなく西口側の駐車場に黒のベンツが数台やってくるだろう。彼らに保護してもらいなさい」

「わかりました。ですが、もうじき高神たちがここへやってきます。申しわけありませんが、あなたを連れていくことは」

「構わんよ。どのみち、私はもうだめだ」暁人はもはや生を諦めてしまったのか、力なく笑った。「ヒヅル。お前は私の最高傑作だ。お前こそが、世界を統べるに相応しい。もしたった一度の親孝行をしてくれるのなら、お前が〈人工全能計画〉を、完成させてほしい」

「私はあなたを父親と思ったことはありませんよ。暁人」

 ヒヅルは冷たくそう言い放った。彼、白金暁人はヒヅルのオリジナルであり、第一世代人工全能の精製は彼自らの手で行われていた。その証拠に暁人の顔はヒヅル同様目鼻立ちが整っていて、非常によく似ていた。しかしながら暁人は、障害を背負って生まれてきた者たちを容赦なく切り捨ててきたし、アルマの〈処分〉についても最初は賛成していた。最終的にヒヅルの人質交換作戦に協力したのは、部下である星二を救うためだったからに他ならなかった。ヒヅルはそんな暁人を、味方であるとは思いつつも、嫌悪していたのだ。

「ふん。最後くらい嘘でも優しい言葉のひとつもかけられんのか。親不孝者め。ならもういいから、さっさと行ってしまえ」

「お世話になりました」最後に深々と礼儀正しく頭を下げ、ヒヅルは所長室を後にした。

 しかし、残り一分を切っても高神たち追撃部隊は現れなかった。

 彼らは一体どこへ?

 ヒヅルの中で、得体の知れない不安感が、急速に広がっていった。

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