漠然とした郷愁に囲まれて

蔵沢・リビングデッド・秋

第1話

 古ぼけたような、かび臭い、その匂いが私は好きだ。たとえそれが物質としての劣化を示す、いわゆる死臭に分類される毒のようなものであったとしても、私はそれを歴史と呼びたい。


 ここには、歴史が多い。棚に収められている彩のある背の数々、そこに閉じ込められているそれは、歴史と読んで差し支えないはずだ。それが真実であろうと嘘であろうと、内包されているのは歴史だ。歴史を内包した束が、それ自体が劣化し古ぼけ日焼けし、物質としてもまた歴史を刻んでいく。


 私の仕事は、その風化を……歴史の進行を食い止めることだ。頭をなで埃を払う。手に取り胸に抱き、呼吸をさせ生の実感を与える。


 歴史とは過去だ。過去とは歴史である。私は今も、過去に触れ過去を撫で、過去に思いを馳せる。


 ここには、歴史が多い。過ぎ去っていったそれが、ここにはかびのにおいと共に滞留している。あるいは、このかびの匂いこそが、記憶なのかもしれない。かびの匂いが歴史を呼び起こすのだろう。


 足跡はもう、残っていない。残っているはずもない。ただその足取りを、私は今でも、かびの匂いと共に思い起こす事ができる。


 ガラスの戸を大人が押し開ける。手を引かれた小さな男の子は、どこか怯えた様な足取りで、周囲をきょろきょろと、確かに興味を持って、けれど躊躇いがちに見回す。


 半ば引き摺られるように………大人に手を取られて、怯えるようにその手を強く握り締めて、そうやって小さな男の子は大きな足跡の後ろに、小さな足跡を残し……立ち止まったのは何よりもわかりやすい“夢”が多く並んでいる、その場所。


 小さな男の子は、立ちどまり、一人そこに残されたその子は、またきょろきょろと、今度は怯えのない瞳で周囲を見回す。


 あの、小さな男の子が最初に触れた歴史。それを、私は今手に取った。静寂とかび臭さ……確かに過去で、風化したそれで、けれどこの場所で私だけは風化も劣化もしない。


 あの小さな男の子が腰掛けたその場所……あの頃は確かに少し染みて汚れた椅子のあったその場所に佇み、あの小さな男の子が触れた歴史に、夢に……あるいはその記憶自体に触れる。


 何時間も動かなかった。ずっと、あの小さな男の子は夢に触れていた。やがて大人が戻ってきて、ついには手を引いて、来たときと同じように、あるいは来たときよりも強く嫌がるように、引き摺られて去っていくまで。


 私は歴史を閉じた。それから、それをあるべき場所に戻す。あの日小さな男の子が、名残惜しくそうしていたように。

 トスンと、ほんの小さな、擦れる、歴史が納められる音に、埃が舞う。その只中に私は一人。撫でる様に埃を払った。


 それから、見えもしない足跡を辿るように、棚の間を抜けて、もう光らない箱の並ぶ机へと歩んでいく。2度目にその小さな男の子がやってきた時、気に入った歴史を抱えてそうしていたように。


 小さな男の子は、夢を持ち帰るようになった。そして、その夢を返しに、また訪れ、また別の夢を抱えて、大人に手を引かれて帰って行く。彼の手元には、何も残ってはいなかっただろう。けれど、確かに歴史は積みあがっていた。彼の中にも、私の中にも。


 小さな男の子の足跡は、しばらく、決まった場所を辿り続けていた。ある日ふと、思いつきの様に、その足取りが変わるまで。


 私はそれをなぞる。ひときわわかりやすい夢が並んでいるその場所から離れて、階段を上る。あの子がある日ふと、そうやって背伸びしたように。


 その先にあるのも、歴史だ。あの子が居心地良かった夢の延長線上にある、けれど少しばかり毒が混じっている、色合いの濃い歴史。


 お気に召さなかったのだろう。彼が再びその階段を上ったのは、もう大人に手を引かれる事もなく、一人でこの場所にやってくるようになってからだった。


 もう見えない足跡は、酷く色濃い。幾度も幾度も、思いつきで興味の赴くままに、彼はそこに足跡を刻んでいた。一人で、飽きもせず、何時間も。

 今の私がそうであるように。


 現実を投影したような夢。夢に投影された現実。現実を読み解いたモノ、読み解かれた現実。彼の手に取った全て、時には背伸びして掴み、すぐ渋い顔をしてしまったそれらを、私はなぞる。


 埃を払い、黴の匂いが強くなり、音が………棚にそっと戻すその音だけが響く。


 ここに並んでいるのは全て歴史だ。そして、過去である。かび臭い、風化した、過去。

 いずれ決別し、別の場所へと歩みだす事もあるだろう。彼が、ある日突然、そうしたように。誰しもが突然、そうするように。


 今どうしているのだろうか。私が行き着く末は、いつもそれだ。もう、大人になったのだろうか。あるいはもう老人になっているのか。……もういないのだろうか。


 歴史だ。かび臭い匂いが、郷愁が、歴史。物体としての劣化を示すものが、歴史。

 死に到ることこそが歴史。全てに、結末がある。この廃墟で何よりも長く、だが確かに死に到るにおいを発している歴史たちにも、きっと形を保てなくなる日が来るのだろう。


 そうなれば、きっと………私だけが取り残されるのだ。全ての歴史が死に到った中、私だけが、形を失った歴史の最中、その残骸を整理し続ける。


 郷愁に囲まれ。歴史の続きをこの目にするその日を待ち、焦がれ。


 あるいはそう、今もう既に………そうであるように。

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