昔々あるところに一人の少年と、一つのゴーレムがいました。
風楼
第1話 ある日少年は家を飛び出した。
まだまだ冬の冷気が残る、春になったばかりのある日の夕方。
冷たい雨が降り注ぎ、強い風が吹き付けるレンガ造りの街の大通りを一人の少年が息を切らしながら駆けている。
金色の髪に緑色の瞳、上等な作りのシャツとズボンに上等な革の靴と、そんな格好の少年は、何かから逃げるかのように後ろを気にしながら必死な形相で駆けていて……その手には青く輝く大きな宝石が握られていた。
『一体何処に逃げようって言うの! 無駄なことはやめて、さっさとそれを私達に渡しなさい!!』
『あの宝石は絶対に高く売れる! 何がなんでもアイツを逃がすんじゃないよ!』
『まったく! 最後の最後まで面倒をかけさせてくれる子だね!!』
激しい雨音と風音の中にそんな声が混ざっているような気がして、背後からそんな言葉が聞こえてくるような気がして、少年はより速く、より遠くに逃げようと残り僅かな力を振り絞り、懸命に地面を蹴り……ひたすらに駆け続ける。
その手に握られた宝石は優しく聡明で美人だった少年の母が、重い病との闘病の果てに迎えた最期の時に、絶対に手放さないようにと少年へ託した物だった。
以来少年は、その宝石を母の形見として……優しかった母の言葉を、想いを忘れない為の思い出の品として大切にして来た……のだが、父の後妻、少年にとっての継母が、その宝石を売って遊ぶ金に換えるからと、乱暴に力尽くに奪い取ろうとしてきてしまって……そうして少年は母の形見を守る為、母との思い出を守る為、その場から……我が家だった場所から逃げ出したのだ。
少年の継母は父にとっては良い後妻のようだったが、少年にとっては良い継母だとはとても言えない人だった。
継母の連れ子である義姉達ばかりに優しく、少年に対しては異様に厳しく……少年を疎ましく思う気持ちと、少年への嫌悪感を、隠すこと無くそのまま少年にぶつけてくるような人だった。
その上、大人としての知恵、経験、立場を上手く使い、父や周囲の人々には見栄えの良い顔を見せながら少年にだけ本性の顔を見せつけてくる継母は、行商に出た父が死んだとの報せが届くと、悲劇の未亡人を演じることで街中の人々を味方に付けてしまっていて、今やこの街に少年の味方になってくれる人は……継母よりも少年の言葉に耳を貸してくれる人は居ないに等しかった。
もしかしたらよく遊ぶ友人の家に行けば、少年のことを一時的に匿ってくれたかもしれないが……それも一時のことだろう。
いずれ継母に見つかるか、お家に帰りなさいと継母の下に差し出されるかしてしまって、最後には母の形見は奪われてしまうに違いない。
最早この街に少年の逃げ場は、味方は存在せず……街の外に出て、隣町に逃げる以外に道は無いと、そんな考えで少年は街の出入り口を目指して駆けていたのだった。
仮に隣町に行ったとしてその先どうやって生きていくのか、頼れる知人のいないその町でどうやって日々を暮らしていくのか……その道の先には数えきれない程の問題と障害が山積みとなっているのだが、それでも少年はその道以外に無いのだからと懸命に地面を蹴って、雨風の中を駆け続ける。
雨が冷たく、風が強いせいか、街を出歩く人の姿は見当たらない。
またどの家々も窓を締め切っていて……そんな少年を見咎める人も見当たらない。
それどころか、街の出口、防壁と立派な門を構えるそこに居るはずの見張りの兵士すらも見当たらず……雨で濡れてしまったからと、身体が冷えてしまったからと休憩でもしているのだろうか。
そうして少年は、誰かに止められることも無く、何の準備も無いまま、母の形見だけをその手に、その門から外へと……防壁の外、街の外の世界へと飛び出してしまうのだった。
何の準備も無く、頼れる大人も居ないまま街の外に出るということは……少年が考えていたよりも何倍も何十倍も恐ろしいことだった。
突然その街道の脇の草むらから獣が現れて、その街道の脇の岩の陰から魔物が現れて襲いかかってくるのではないか、その街道の先の木の陰から盗賊が、悪人が現れて襲いかかってくるのではないか。
しかもその上、空を見上げればすっかりと夕暮れとなってしまっていて……そう遠くないうちに太陽が沈んでしまい、暗闇が辺りを支配する世界となってしまうことだろう。
そうなれば悪魔、幽霊などの類に襲われるかもしれず……少年は恐ろしさのあまりにその身を激しく震わせる。
街の中では感じなかった心細さ。
何も頼れる物が無い、人が居ないということの恐ろしさ。
非力な上に、何も持っていない小さな自らの身の頼り無さ。
……それらの感情が少年の中で渦巻いてしまい、そんな感情の渦のせいで、ついに少年は耐えきれなくなって嗚咽を漏らし始めてしまう。
元々涙は流していた、走ったことで息は切れていた。
それでも少年が決して嗚咽を漏らさないようにしていたのは、一度嗚咽が漏れ出してしまうと、もうそれを止めることが出来なくなり、そのまま泣きじゃくってしまうことだろうと考えていたからだ。
事実少年は嗚咽を漏らしてしまったことで耐えきれなくなり、そのまま泣き出し、感情のままに喚き始めてしまう。
氷雨と強風の中、誰にも聞こえないというのに、助けて! 誰か助けて! と、泣き喚き続ける少年。
……そうやって泣き喚けば泣き喚くほど、頭が痛くなり、喉が焼けて、胸が苦しくなっていってしまって……やがて少年は走り続ける力を、気力を失ってしまって、雨で
転んでしまって泥に
何故だか急に母の顔が思い出されて……そして少年は自らの手の中にあったはずの、あの宝石が無くなってしまっていることに気付く。
途端にそれまで少年が感じていた恐怖は何処かへと消えてしまって……それよりも何よりも、母との思い出を失ったという恐怖が、絶望が少年の心を満たし覆い込んでしまう。
そうなってしまっては最早泣いてなどいられず、倒れてなどいられず、無かったはずの気力と体力を振り絞って少年は起き上がる。
さっきまでは確かにこの手の中にあったはず。
……と、いうことは転んだ時に落としてしまったんだ。
そんなことを考えながら少年は視線を周囲に巡らせる。
すると少年の数歩手前……手を伸ばせば届きそうな、ほんのすぐそこの泥の中で青い光がキラリと輝き……その輝きを見て、少年は良かった、あそこにあった、と安堵しながらその泥の中へと手を伸ばし……その輝きを、宝石をしっかりと掴む。
するとどういう訳なのだろう、少年の心の中で再び母の顔が思い出される。
『なぁに? 今日はどうしたの?
そんなに泣いちゃって……どうして欲しいの? 何が欲しいの? 母さんに言ってごらん?』
更にはそんな母の優しい声が……強い雨音、風音の中だというのにも関わらず、しっかりと、確かに少年の耳に聞こえてきてしまって……少年はその声の懐かしさに、温かさに思わず、心の中の想いをそのまま大声にして叫んでしまう。
「一人は嫌だよ! 一緒に居てよ!!
お母さん、一人は嫌だよ!!
……誰か、お母さんじゃなくても……誰でも良いからボクと一緒に、一緒に居てよ!!」
少年がそう叫んだ直後だった。
その叫びに呼応するかのように、少年の手の中にあった、泥の中にあった宝石が青く強い光を放ち始める。
一体何が起きたの!? と、少年がその光に驚いていると、少年の手を包んでいた泥がグニャリと蠢いて、少年を更に驚かせてくる。
それは決して少年の気の所為などでは無く、確実に何らかの力によって起きた確かな現象で……更にグニャリグニャリと泥が蠢いたことで、少年は気味が悪くなり、思わず宝石を掴んでいた手の力を緩めてしまう。
すると泥が少年の手を絡め取るかのようにして動き始めて、少年の手から宝石を奪い取ってしまい、そうして大きく蠢いて宝石を包み込み、何重にも何重にも包み込み……まんまるの球体となってしまう。
そうやって出来上がった泥の球体は蠢きながら周囲の泥をかき集めて、かき集めた泥を吸収することでじわりじわりと大きくなっていき、少年の両手で包めるか包めないかくらいの大きさとなって……そうしたかと思えば今度は、その両脇から大きな二本の腕のような物をボコンと生やし、球体の下の部分に小さな足のような物をちょこんと生やして……挙げ句の果てに、その上部にまるで目のように、瞳のように見えるつぶらな何かを作り出してしまう。
そんなまるで……まるで泥の魔物のようにも見える存在と化してしまった泥を見て、少年は、
「え、えぇぇぇぇぇぇえぇ!?」
と、大きな……先程の叫びよりもずっと大きな声を上げてしまうのだった。
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