優しい優しい翔のレッスン
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。くじ引きとかどうですか? ははは」
「あぁ? なーに言ってんだタコ助。俺はなぁ? 女は殴らねぇ主義なんだよ。ちゅー事はあれだ、必然的に火水ぅ? お前が俺のターゲットになるってこった、カカカカカッ」
「ナ、ナイア――――――」
「――――――そうです、その足運びが基本となってきます。筋がいいですね、玲」
「あ、ありがとうございますっ」
既に始まってた。
しかも既に雫を名前呼びとは……女の子の特権だな。翔は例外としてな。
「おう、そんじゃ構えてみな」
学校でも行われている肉体トレーニングをサボっている訳じゃないが、翔のあのしなやかな動きと力強い攻撃を思い出すと…………こりゃ大変な状況になりそうだなぁ。
「ぼーっとしてっと、
「――かっ!? ……ふ!?」
え、何だ今。何されたんだ? ……痛い、苦しい、倒れる、前に?
「ぐぅううううう……」
腹部を襲った強烈な痛み。そして治まる事のない苦しみに俺はうめき声すら掠れているような声を漏らした。
「カー、だっせぇだっせぇ。そんなんじゃ剣士の野郎共にいいようにやられちまうぞ? お?」
座りながら見下すように言ってくる翔の声も、今の俺には届かない。
苦しい。本当に苦しい。胃の中から今朝食べたものが逆流しないのが不思議なくらいだ。
ほんの一分、二分の間、俺は
「はぁ、はぁ、はぁ…………うぅ」
「ったく、あの程度でこれだと、耐久力は一般人並みだな」
一般人……。
確かにそうだな。学校の肉体トレーニングなんて、体育の延長のようなものだ。
翔にとっては大差ないのだろう。
「おう火水、こっち向けや」
「へ?」
意図がわからぬ翔の言葉に、俺はすっと顔を向けた。
「……カカカカカ。不意打ちで殴られてその顔が出来るなら大丈夫やろっ」
俺は今、どんな顔をしていたんだろう。
確かに不意打ちだったとはいえ、翔の速度は出来る限り抑えられていた感じがした。
翔なりの優しさだったのだろうか?
勿論、それを知る術はないが……翔は。
「おら真っ直ぐ立てや」
「あ、はいっ!」
「あん? 火水は左利きなんか?」
「あ、いや右利きですけど?」
「なら右足が前じゃ」
「え、そうなんですか? 左足が前の方が右手にダメージがのるって教わったんですけど?」
「アホか。そりゃ確実に初手を当てられるやつの言い分だ。まずは左手で相手の動きを追い、それを防ぐ! 動きがない場合は、その左手で虚を交ぜつつ攻撃じゃ」
な、なるほど。理にかなってる。
これは翔ならではの喧嘩法という事だろうか?
勉強になるな。
「簡単にやるとこうだ、ほい」
左手が一瞬で顔の前に現れた。
視界は覆われ、視野は少なく、見えるのは翔の強い光を帯びた瞳だけ。
その瞳が……顔より下を意識した。
また――は、
「――らっ? ……くっ!」
「ほぉ? 今度は腹筋が間に合ったみたいやの? 痛みこそ残るが、無防備よりゃマシだ。因みに今、どうして気付いたんや?」
「えっと、指の隙間から翔さんの目の動きがわかりました」
「カカカカ、正解じゃ。ちっちゃなヒントでも拾えるもんやのう」
ヒント……って事は今のはわざと?
そりゃそうか。あれだけの動きが出来る翔の攻撃を今の俺が防げる訳がない。
「もっかいや」
再び翔の左手が顔を覆う。
今度は瞳が動く気配もない。目から得られる情報がないとなると……今度は耳!
ジャリ、という音を拾った瞬間、俺は全身を硬直させるように身を守った。
「ぐぅ……!」
斜め上から入る肩へのパンチ。
強力ではないにしろ、これを続けて打ち込まれると辛い。
「ほぉ~ほぉ~ほぉ~」
翔がサンタクロースみたいな口調になった。
「徐々にすぴーどあっぷといくか。カカカカカッ」
あれは聖夜の…………悪魔の瞳だ。
「おらおらおらおらぁっ!」
「くっ、ぐぅ、がっ! くぅうううううっ!?」
俺の服の下は、今頃
痛くて苦しいが、それ以上に翔の心配りに驚かされる。
緻密な力のコントロールで、見事に攻撃箇所を分散させ、あらゆる攻撃の対処方法を少しずつ俺の身体に覚え込ませようとしている。
まぁ、それに伴って俺の体内のダメージも少しずつ溜まっていくんだけどな。
「はっ、今日はこんなもんかぁ? カカカカカッ」
「あり……がとうござました……」
「礼はいらねぇ、とっときなっ」
礼すらまともに言えない状態の俺は、後ろに倒れ込んだところで四つの手によって支えられた。
「風土!」
「火水さん!」
俺の背中を支えたのは、ナイアと雫だった。
「てっきり途中で姉御に止められると思ってたんですが、意外っすねぇ?」
「…………止めればよかったのですか?」
「はっ、冗談。姉御が止めてても俺はやめませんでしたよ」
「これが許容範囲ギリギリです。覚えておきなさい、翔」
「カカカカカッ、よかったな火水ぅ? これ以前はオーケーだそうだ! カッカッカッカッカッ!」
高く大きな笑い声を模擬戦場に響かせる翔の声が耳に響く。
それを最後に、俺はいつの間にか意識を失ってしまった。
◇◆◇ ◆◇◆
「――水さん、火水さん! 大丈夫ですか……?」
薄く目を開けるとそこには、目を潤ませた魅力的な少女が、心配そうに俺を見ていた。
……見慣れた天井。目の前にはその天井が意味する場所にそぐわない存在、生徒会の女子メンバーである
おかしい。この天井、見間違っていなければ寮の俺の部屋だ。
規則で女子の入室は認められていないはずなのだが……が? はて?
目を動かせばベッドに腰掛けて優しく見つめるナイア。
ロフトでは翔が…………って何だあの顔? 頬が思いっきり腫れてるような?
しかし翔のやつ、何で嬉しそうな顔してるんだ? 何だこの状況、訳わかんねぇ!
「ここは夢か何かですかね?」
「火水さんっ!」
「風土、心配しましたよ。無事で何よりです」
昼間の緊張は何のその、という感じなのか、雫は俺の手を握り続けていた。
なるほど、可愛い。
おそらく自分でも握っていると気付いていないようだ。放っておくか。
「あうっ……つつつつつ。凄いな。身体中がバッキバキだよ……はは」
「申し訳ありません、風土。翔はあのようにキッチリと
そうか、躾けられてしまったか、翔君。
しかし、しかし何故あんなに恍惚とした表情なのだろう。
もしかしてナイアの躾とは、翔にとってのご褒美なのか? わからん。
「それにしても雫? ここ、男子寮だけど入ってよかったのか?」
「はい。ちゃんと寮長に許可は取りました。あまり長くはいられないですけど……へへ」
小さく舌を出した雫はどこか小悪魔的で、どこか無邪気な表情を見せた。
むー、スマホで写メに納めたい気分だ。
ナイアと雫の話によれば、どうやら俺は翔によってお姫様抱っこで運ばれ、翔によってベッドに寝かされ、翔によって傷物(物理)にされてしまったようだな。
「むぅ、気絶してしまうとはまだまだだなー……」
そう唸る俺に、翔は小さな口笛を鳴らした。
「ほぉ、殊勝な心掛けじゃねぇか。カカカカカッ」
「もう少しイケると思ったんですけどね。ご迷惑をお掛けしました」
「そう思ってる内は迷惑掛けてもいい時だ」
根は真面目なんだよな、翔って。
ナイアが生み出したんだからそうあって然るべきだと思うけどな。
「それじゃあ、火水さん、ナイアさん、翔さん。明日また学校で」
少しだけ目を赤くした雫は。いつもの綺麗なお辞儀を見せた後、てこてこと帰って行った。
家が離れているなら送るところだが、この棟の反対側だし、建物内から移動出来るから、心配しなくて大丈夫だろう。そして何より、身体が動かない……!
「風土、今はゆっくりと休むべきです。起きる時間となれば私が起こしますので、今は……さぁ」
ナイアのひんやりと冷たい手が俺のおでこに置かれる。
その瞬間、どこかに消え去ったはずの眠気は再び脳に出現し、俺を深い眠りへと誘った。
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