青年の戯言

契丹遼

♯1 視線が求めるもの

 道を歩いているとき、あるいは止まっているとき、その目的が何であれ、僕はいつも視線をどこにやるべきかと悩んでいる。別にどこを見ようがそんなものは個人の勝手だろう、と思われるかもしれないが、僕の場合はそんなに単純なものとしては済ませられない。視線を泳がせた挙句に人と目を合わせてしまうのだ。


 歩くところが見知らぬ土地ならこんな問題は起こらない。僕だって好き好んで人の眼を見にいっているわけではないから、美しい風景や見慣れぬ建築物があるなら、迷わずそちらを見る。だが、そんな場所にずっと居られるのは旅人くらいのものだろう。そこらのしがない学生である僕が普段目にする風景など、無機的にそびえるビル群や、颯爽と走り去る車ぐらいしかない。毎日こんな同じもの、代わり映えのしないものばかりを見ていたら、そのあまりの停滞さに中毒を起こしかねないし、精神衛生上よくない。しかし、道行く人々はビルや車とは違う。毎日僕が見る人々は、昨日の彼らとは違う、生きた人々であり、風景なのだ。すると、行き場を失っていた視線は無意識に、いや、日常の中毒性から逃れるためだろうか、どちらにせよ彼らの方を見ようとさっと移り、まじまじと、まるで彼らが何かの研究対象であるかのように観察し始めてしまう。


 それにしても、どうやらこの世界はとてつもなく広いものらしい。人を見ているとそれを強く感じさせられる。鞄を携え、忙しそうに歩いていくサラリーマン。さまざまなブランド品でこれ見よがしと着飾ったおばさん(本人はお姉さんのつもりかもしれない)。飽きず絶えず愛を確認しあうカップル。仲睦まじそうに話に興じる老夫婦。無邪気にじゃれ合う小学生たち。ほんの数分も歩けば、今挙げたものよりも多くの種類の人たちを目にすることができる。しかも、同じ区分に分類される人たちでも顔や服装などの容姿は全て少しずつ違う。見ていて飽きないのは火を見るよりも明らかであろう。


 しかし、この人間観察はどうしても最初に言った、目が合ってしまうという問題を引き起こしてしまう。しかもほとんどの場合、原因を作ったのはこちらなのだから対処に困る。さっと視線を外せればいいのだが、睨まれれば怯んでしまって動けなくなるし、不思議そうな目で見つめられれば、逆にそれが気になってしまって目が離せなくなる。また、見つめ続けるのはまずいということはわかっていても、目を背けるのも自分がやましいことをしていたということを認めることになるのではないか、なんて思えてきてしまい、結局どちらかが何かの拍子でふいっとそっぽを向くまでこの馬鹿らしいチキンレースは続く。そのうえ、これがすれ違いざまで起こったのならまだいいが、電車の中でこんなことになったら、気まずくて堪ったものじゃない。それならそもそも顔を見なければいいだろう、と思われるかもしれないが、体や服を見るとどういった顔をしているのだろう、と気になってしまう。


 そもそもどうして目が合ってしまうのだろうか。まさか、道行く人全員がいつもこちらを見ているわけではあるまい。そこで、僕はある仮説を立ててみた。もちろんこれは僕の勝手な憶測なのだが、僕が目に惹きつけられているのではなく、目が僕を惹きつけているのではないだろうか。周知の事実だが、目はほとんどの知能の高い生命にとって最重要の器官の一つである。文字、色、光。目が無ければこれらは理解どころか認識さえできない。そういった点から考えると、目は生命を司る心臓、思考を司る脳と同程度、もしくはそれ以上に重要であると言っても過言ではないだろう。

 

 しかし、僕は目には物を見ること以外にも大切な役割があると思う。それは生命を生命たらしめるというものだ。考えてみてほしい。目隠しされた屈強な大男から、あなたは生命としての強さを、覇気を感じ取れるだろうか。強そうだ、とは思うかもしれないが、その強さは物理的な、機械的なものにしか他ならず、生命としての強さではないだろう。確かに目は物質に命を与えているのだ。また、「目は口ほどにものを言う」「目がない」「目が違う」など、目に関する成句はとても多い。もしかしたら昔の人も目に本能的に何かを感じ取っていたのかもしれない。


 では、なぜ僕はその生命の象徴である目に惹かれるのだろうか。これについては大体理由がわかっている。この現代社会は究極の「」に成り果ててしまった。素材、設計、生活、あらゆるものについて効率や理論を優先し、理論上非効率で非合理とされる自然を排除して、世界を構築していった。そして気がつけば、少しの自然と我々自身を残して、世界から生が消え去ってしまった。だからこそ、我々は生に飢え、無意識に生を求めてしまうのだろう。そして僕はその症状が目に現れ、少しでも生を感じようと目を合わせにいっているのではないだろうか。とすると、僕は現代社会に再び生が芽生え、成長するまでは他の人と目を合わせることを余儀なくされることになる。まあ、それまでの間は合法的に人を見られると考えればそれもいいかもしれない。


 最後に、僕には一つだけ見ないようにしている人たちがいる。それは、電車やバスの中で堂々と公衆の面前で開けるのには適さないであろう本を広げている人たちだ。近くの女性が怪訝そうな顔をしてその人を見ているのを見ると、自分のことではないのにこっちが恥ずかしくなってくる。見られて恥ずかしくはないのだろうか、と思うけれども、それが彼らが求めている生だというのであれば、それはそれでいいのかもしれない。そう言いながら彼らが見る本を覗き見るのはずるいだろうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青年の戯言 契丹遼 @kitai_haruka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ